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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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35/40

第35話 条件闘争の終盤戦。

 朝の紫瑠璃しるり通りは、停電の夜の名残りをうっすらとまとっていた。〈ミッドナイトアゲート〉の扉に、昨夜マスターから預かった小さな鍵が触れるたび、胸の奥で合図みたいに鳴る。結月ゆづきは私の横で短く言った。

  「塩、先」

  薄い塩キャラメルを舌にのせ、十呼吸。――「勝ち」ではなく、「続ける」。夜更け、扉の前で交わした「一緒に守ろう」の短い告白が、喉の奥で灯り直す。私(歩)は黒板の隅に小さく書いた。〈座る前に五歩〉。

  市庁舎の自動扉が開く。長い廊下が、朝の白を吸い込んでいる。私たちは約束どおり「座る前に五歩」をした。三拍で止まり、二拍で通す。渉外担当の女性が歩きやすい靴で合わせ、業者側の責任者――背広の肩に夜の皺を残した四十代――が最後に合流した。彼は会議室の取っ手に手をかけかけて、私たちの五歩を見て、ほんの少しだけ指を止めた。

  「…………先に、歩くのか」

  「はい。座る前に五歩。――ぶつかる前に譲る、転ぶ前に止める」

  それだけ言って、会議室に入る。空調の冷たさはいつもどおり。今日、角を落とすのは紙であり、言葉であり、沈黙だ。

  テーブルの上に、三色の束を置く。紺は〈事実〉、白は〈ために〉、薄い灰は〈どう〉。そして、条文の束。角はすべて丸く切ってある。結月は食べ物禁止の札に視線をやり、保冷バッグの口を軽く叩いただけで閉じた。「塩、あと」と目で言う。私はうなずき、紺の束を上にして、三行から始めた。

 黒板には、事実「KPI=dB・滞留・救急通過・五歩(市民公開・第三者立会い)」と三行が並んだ。

  責任者は言葉より先に沈黙で応じた。紙の角を親指で撫で、一度だけ時計を見、視線を戻す。その沈黙は「値切り」ではなく、「測り」。私は白の束を重ね、BATNAとZOPAを紙に置く。

  「こちらの最良代替案(BATNA)は、『条項が折れないなら住民投票で争う』です。――ですが、合意可能範囲(ZOPA)はここです」

  私は角丸のカードに二本線を引いた。

 A:〈アゲート〉の存続(「場所」ではなく「方法」で――可搬・承継)/B:「留保」の段階運用(悪化二か月→再調整/三か月→段階的縮小)。

  「――この二本が折れなければ、価格――いえ、周辺条件は調整可能です」

  責任者は紙から目を離さない。渉外の女性が横から静かに添える。

  「「処罰待ち」に見えない運用へ、私たちも舵を切りたい。最後は「方法の保存」が鍵でした」

  「建物ではなく、やり方」

  結月が短く言う。「五歩。三拍二拍。笑顔は強制しない」

  責任者はそこで初めて目を上げた。

  「笑顔は、強制しない」

  復唱。声は硬いが、刃ではない。

  沈黙が落ちる。私は沈黙を「武器」にしない。沈黙は、合図の前の余白だ。十呼吸。責任者が口を開く。

  「――〈アゲート〉の「場所」は、再開発の導線上にある。騒音・滞留のリスクを抱えたまま「特例」にするわけにはいかない」

  「「場所」ではなく「方法」で残します。可搬展示、歩行特区、相互留保。動線を塞がない設計は、五歩で測る。犬の耳は伏せない(脚注)」

  「犬の耳?」

  「現場判断の補助指標。――人に優しいかを、耳で測る。笑い話の脚注に見えるが、効く脚注です」

  責任者の口角がわずかに動いた。笑いかけて、やめる。その「やめた顔」が、空調の冷たさを一段下げた。

  私は条文の束を裏返し、核心の頁を上にした。

 第〇条の三(「場」の継承):「静かな帯」「避難島」「写真スポット」「可搬拠点」の機能は、移設・更新の際にも維持・承継する。代替案は「文化実装プロトコル(附属書一)」に適合する「方法の保存」をもって同等とみなす。

  責任者はそこだけ指で二度叩いた。

  「「方法の保存」に適合しない案は?」

 「――「戻る階段」で協議に戻る。ゼロではなく、段で戻る」

  「迅速撤去は?」

  「段階の第三まで。そこから先は「検討」ではなく「合意」が必要」

  言葉の角は、丸い。だが弱くない。

  次は、こちらが譲る番だ。私は薄い灰の束から一枚抜き、相手側の「顔が立つ」余白を置く。

 広報の主導権は市が持つ。ただし「笑顔を強制しない写真」を標準に/「歩行特区」は週二回まで(緊急時は除く)/利用規模上限の設定(騒音基準と連動)。

  責任者の目から、警戒の棘が一本抜ける音がした気がした。

  「「週二回」。――そこは、助かる」

  「回数ではなく、呼吸で覚えます。週二回の「十五分」で、充分に合図は育つ」

  結月が言い、保冷バッグを軽く叩く。塩はまだ出さない。

  質疑が一巡した。私は最後に、こちらの「底」を紙に置いた。

 底:〈アゲート〉の「方法」の承継・鍵の管理者(第三者立会い)・夜の誓いの複製を「市民協働の文化企画」として登録。

  「この三点が折れたら、住民投票へ戻ります」

  責任者は目を閉じ、呼吸を一度深く沈め、そして頷いた。

  「――鍵は、誰が持つ?」

  「今夜から当面は、〈アゲート〉のマスターと、自治会と、市の担当、その三者で。更新時は第三者立会い」

  渉外の女性が静かに加える。「紛失時のプロトコルも文書化済みです」

  最後の沈黙。廊下の遠くで誰かが咳払いをし、時計の秒針が一つ進む。その一拍のあと、責任者はペンを取り、条文の端に小さく○を付けた。

  「――いい。こちらのBATNAは「全面撤去で押し切る」だった。だが、押し切りは、街を敵に回す。…………「方法」で残す、に乗る」

  渉外の女性が、静かに紙を回す。サイン欄に、私の名前、結月の名前、自治会長、責任者、市の担当。角は丸いが、インクは黒い。押印の音は小さく、しかし確かに、会議室の空気を一度だけ震わせた。

  署名の直後、誰も拍手をしない。誰も笑わない。怒ってもいない。私はペンを置き、指先を膝の上で一度だけ握った。――静かなガッツポーズ。結月が目だけで合図し、小さく頷く。

  「合図――「勝ち」じゃなく「続ける」」

  食べ物禁止の札に気をつけながら、会議室を出て初めて、塩キャラメルをひとかけ分けた。十呼吸。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが「明日もやる」を繋ぐ。

  廊下で、責任者が私たちを呼び止めた。

  「…………「笑顔は強制しない」は、うちの社内にも欲しい」

  「角、丸いままで、どうぞ」

  結月が言い、真鍮の鈴を指で軽く鳴らした。小さな音。会議室の白い蛍光灯よりも遠くへ届く。

  外に出ると、空は薄く晴れていた。紫瑠璃通りの橙に、まだ灯はつかない。私は黒板の隅に、今日の三行を置いた。

 ① BATNAとZOPAを「紙」で可視化/② 「場所」ではなく「方法」で残す/③ 相互留保・歩行特区・文化実装――角は丸いが、弱くない。

  結月がさらに小さく付け足す。〈※るり=伏せない〉。るりが足元でとん、と二回。二回は賛成の合図。

  夜、〈ミッドナイトアゲート〉。マスターは温いレモン水と塩を置き、鍵のキートップを親指で一度撫でた。

  「おかえり。鍵は、「方法」の鍵になったな」

  「はい。――続けます」

  私たちは短く答え、カウンターに肩を並べた。笑わない。怒らない。――それがいい。

  提灯の橙が、ほんの少しだけ早く灯った気がした。紺帯+白縁の下を、五歩で測れる。勝ちではなく、続ける。塩は先。甘さは、続ける力になる。


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