第34話 ケンカの後の、告白。
夕暮れの紫瑠璃通りに、ぱち、と小さな音が走った。提灯の橙が順に消え、店先の蛍光灯が一瞬だけ白く瞬いて、すべての光が落ちる。風の音だけが残り、冷蔵庫の低い唸りも、自販機の赤い点も、消えた。
「停電」
結月が短く告げる。歩は反射で黒板を通りの端に立て、白いチョークで太い字を書く。〈電気なし――「方法で灯す」〉。角を白で丸くなぞり、下段に小さく添える。〈三拍で止める/二拍で通す/「声のベル」優先〉。看板犬見習いのるりは足元でとん、と尻尾を鳴らし、耳を立てた。
「「十五分歩行特区」、発動」
結月が可搬の小卓を開き、塩一粒と薄いレモン水、真鍮の鈴、角丸の紙束を並べる。宜幸は透明の立て看板を二基持ち、〈通路やや細い〉のパネルを差し込んだ。亜柊は白い縁取りテープを両手に巻き、縁台の脚と「濡れ段差」の角をなぞる。透は蛇腹の空気だけを通して、「音は出さない合図」を一拍ぶん、静かに用意した。
「三拍」
歩の声に、通りの流れがぴたりと沈む。ベビーカーの母親、高校生、パン屋の夫、腕組みが得意だった男――みんなが足を止める。
「二拍――通します」
暗がりに目が慣れてくると、白い縁が浮かびあがる。誘導灯がない夜道でも、角丸の矢印が淡く見える。乾物屋の主人が「昆布指数、ゼロ」と冗談を言い、誰も笑わない。怒ってもいない。それがいい。緊張を壊さず、気持ちだけを下げる。
「救急、連絡つく?」
有里杏が低い声で問う。渉外担当の女性がスマホを掲げ、圏外ではないことを確認する。
「信号は落ちてる。――「避難島」を明るく」
幸博が「派手封印」の見出し灯りの代わりに、白い反射板を島の縁に立てた。結月は可搬の卓から小さな手回しライトを二つ持ち出し、真正面に置く。電気ではなく、方法で、視界の角を丸くする。
交差点の向こうで自転車のブレーキが甲高く鳴り、車輪の影が二重に揺れた。
「三拍!」
拍子木が低く響き、二拍で道筋が開く。高校生が反射的に足をつき、ハンドルを肩の高さまで下げる。
「ごめん、見えなくて」
「見えるまで、止まる。――二拍、君」
歩が短く返し、拍子木を渡す。若い手の角が少し削れ、「通す」の音が、暗闇に目印を置く。
「エレベーター、止まってない?」
ブティック店主が耳を澄まし、通りの奥の低層マンションを指す。
「「返言フロー」で情報集める」
有里杏が角丸のカードを配る。〈事実→気持ち→提案〉の順に、住民が小さな字で書き込む。
黒板には、事実「三階と四階の間で停止/家族が中に」、気持ち「不安/暗い」、提案「非常電話を試し、もしだめなら消防へ」と三行が並んだ。
「連絡、入れる。――「できること/できないこと」を紙で狭める」
結月が「ただし書き」を示す。〈※「避難所」ではありません。「合図と情報の受け渡し所」です〉。できることに集中し、できないことを先に書かない。
十五分の真ん中、通りの空気が一度だけ乱れた。屋台のひとつが「暗いから」と言って通路側に「ちょっとだけ」張り出す。影が重なり、ベビーカーの車輪が白縁の外にはみ出した。
「三拍――止めます」
歩は角丸の紙を一枚渡す。
黒板には、事実「張り出し二十センチ/白縁が隠れる」、気持ち「暗いのが不安」、提案「「風抜け側」へ角度変更」と三行が並んだ。
十呼吸。屋台主はため息をひとつ落とし、角度を変えた。空気がほどけ、二拍で流れが戻る。
「「破られたときの三行」、効く」
亜柊が低く言い、るりの耳は伏せない。
救急の赤灯だけが、通りの奥でゆっくり回り始めた。信号はまだ死んでいる。
「通ります――十五秒」
合図隊が赤い布を巻いた台車を先行させ、本隊を導く。「避難島」の縁でベビーカーと車椅子が挟みになり、斜めの道筋が一瞬で開く。拍子木が一度だけ高く鳴り、透の「出ない音」が空気のざわめきを吸う。赤い光は十五秒で通り抜けた。
「「歩行特区」、あと三分」
有里杏の声に、幸博が「今日の三行」のボードを準備する。まだ書かない。最後の三分で、通りは自分たちで自分たちを歩かせはじめた。高校生が二拍を出し、母親が手のひらでそれに応え、腕組みが得意だった男が白い縁の角をもう一度押さえ直す。
「二拍――通します」
たどたどしいが、確かだ。方法は、人を経由して明るくなる。
「――終わり。十呼吸」
結月が手回しライトを伏せ、薄い塩キャラメルを小皿に三欠片、そっと置く。食べ物禁止の札はない。合図は口の中に移り、苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を示し、甘さが「またやる」を繋ぐ。
「停電は区域一帯。二時間程度で復旧見込み」
渉外担当の女性が市の連絡を読み上げ、角丸の「速報」カードを掲示板に貼る。〈※「笑顔を強制しない」が基本原則〉の小さな文言が、暗い掲示板の隅で静かに光って見えた。
通りが落ち着くと、ブティック店主がふいに笑いかけて、やめた。やめた顔は、温度を崩さない。
「「灯りは運ぶもの」、ほんとね」
「「建物じゃなく、やり方」」
歩が返すと、乾物屋の主人が「昆布指数、いまは0。2」とまた冗談を言った。るりが足元でとん、と二回。二回は賛成の合図。
〈ミッドナイトアゲート〉に戻ると、瑪瑙の層が暗がりの温度を吸い込みながら、ゆっくりと夜を取り戻していく。マスターは温いレモン水と塩を置き、歩はノートを開いた。
「今日の三行、置く」
① 「電気なし」でも合図は出せる――三拍二拍・白縁・声のベル/② 「十五分歩行特区」は暗闇で本領を発揮/③ 「破られたときの三行」が、戻る階段になる。
結月が小さく付け足す。〈※耳=伏せない〉。透は蛇腹に空気だけを通し、出ない音で店内の角を丸くした。
復旧の一報が遅れて届く。提灯の橙が一つずつ目を開け、紺帯+白縁が光をまとい直す。
「勝ちではなく、続ける」
歩が黒板を指で叩く。今日、通りは暗闇の中で、自分の方法を灯した。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




