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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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第32話 数字の向こうの顔。

 朝の紫瑠璃しるり通りは、昨夜の拍手の残響をほんの少しだけ抱いていた。〈ミッドナイトアゲート〉の前に折り畳み卓を二つ、結月ゆづきが角を白く丸めたパネルを六枚、幸博ゆきひろが透明のイーゼルを三本、並べていく。黒板の上段には太い字で〈今日は「顔で読む」〉と書いた。下段には小さく〈笑顔は強制しない/一人称で〉。看板犬見習いのるりは、とん、と尻尾を一度鳴らし、耳を立てたまま座った。

  展示の動線は、結月が夜のうちに描いていた。入口の右手に〈夜の誓い〉の複製、そのとなりに〈留保掲示板〉。真正面に〈数字の柱〉として最小限のグラフ。だが、主役は柱ではない。柱の周りを、角丸に切った写真と短い言葉が囲む。横顔、手、足元、拍子木の影。笑っていない。怒ってもいない。――それがいい。

  最初の一枚は、昨日の会場で出会った母親の横顔だった。キャプションは二行だけ、私(歩)の字で置く。

  「私は、ベビーカーの高さで道を見る。二拍で通る日は、肩の力が抜ける。」

  次の一枚は、車椅子の男性の手。

  「私は、三歩目で止まってくれる街を忘れない。白い縁は、私の地図だ。」

  さらに、高校生が拍子木を握る指先。

  「私は、二拍を叩いて初めて「通す」を覚えた。叩かない日も、覚えている。」

  どの言葉も「私は」で始まる。昨夜の「一人称」を、そのまま通りへ下ろす。

  幸博は「派手封印」の原則を守って、見出しを小さく、余白を大きく取った。撮影はブティック店主と交代で。構図は横顔中心、視線はカメラを越えない。結月はポラロイドの白縁の角をさらに丸め、画鋲の頭に白いキャップを載せた。尖るものを減らす。尖らせたいのは、怒りではなく、意味だ。

  午前十時、〈数字の柱〉の前に小さな人だかりができた。誰も声を荒げない。数字を見てから、顔に戻る。顔から、短い言葉に戻る。言葉から、また数字に戻る。その往復の軌道が、通りの空気を温めた。乾物屋の主人は「昆布指数、今日は0。8」と冗談を言い、結月は「塩、先」とぼそりと言って保冷バッグから薄いレモン水を出した。ワンコインの皿には、小さな角砂糖みたいなクッキーが五つ。塩を舌に、甘さはあと。合図で、整う。

  〈数字の柱〉の端に、昨日のヒアリングで使った三本を要約して添える。

  「騒音=平均−8dB」「滞留=−19%」「救急通過=15秒」。そして紙のはじに、ほんの小さく書く。「耳=伏せない」。数字と脚注のあいだを、写真たちが橋にする。写真の下には、新しい付箋欄がある。〈怒っていない顔〉に小さな丸をつける欄だ。笑顔は要らない。怒っていない、だけでいい。

  昼前、腕組みが得意だった男が現れた。今日は腕をほどいて、写真の前で立ち止まる。二枚目の車椅子の手の前で、彼は指先だけを結び、短く言った。

  「俺の「七時十五分」、ここに貼っていいか。」

  結月が頷き、角丸のメモを手渡す。男は「私は、七時十五分派」と書き、貼った。字は大きいが、角は丸い。書き終えると、るりの頭を一度撫で、何も言わずに行った。耳はよく立っている。

  午後、SNSに写真が流れ始めた。見慣れないアカウントが〈怒っていない顔〉の欄を写し、「ここは笑わせないから安心だ」と短く書く。拡散の数字は追いかけない。ただ、遠くの友人から「「二拍」の音ってどんな音?」とメッセージが来た。とおるが蛇腹に空気だけを通して録った「薄い曲」の一拍を載せる。音は低く、小さい。けれど、届く。

  日が傾き始めたころ、見慣れた濡れ色のスーツが立ち止まった。再開発側の若手、あの照れ屋だ。彼は〈数字の柱〉の前でしばらく動かず、やがて横へ滲むように歩いて、母親の横顔の写真の前に立った。キャプションを唇でなぞるように読んでから、首をすこしだけ下げた。

  「…………俺、数字しか見てなかったです。」

  声は小さいが、言葉は逃げない。彼の目の端に薄い光が集まり、決壊しないぎりぎりで留まる。

  「「誰のため?」を計測できないから、俺、逃げてた。…………すみません。」

  誰も「いいえ」と言わなかった。謝罪の前に言葉を置かない。結月がワンコインの皿を彼の方へ押しやり、「塩、先」とだけ言った。彼はひとかけを舌にのせ、十呼吸を数えた。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を示し、甘さが「次の言葉」をやわらかくする。

  「社内に、「歩く会議」の写真を貼っていいですか。…………笑ってない写真、角を丸くして。」

  「貼って。角、丸いままで。」

  私が言うと、彼は深く頭を下げて、付箋欄に小さく丸をつけた。〈怒っていない顔〉の列に、丸がひとつ増える。

  展示の中央に、結月は新しい一枚を足した。パン屋の夫の手。粉で白くなった指が、紙袋の口をつまむ瞬間を切り取った。

  「私は、今日も袋の角を丸く折る。誰かの指先が痛まないように。」

  その写真の前で、子どもが立ち止まる。文字が読めないのか、白い縁だけを指でなぞる。母親がそっと読み上げる。子どもは頷いて、拍子木の模型を二回叩いた。二拍。周囲の空気が、ほんの少しだけ揃う。

  夕方の回の十五分ワークショップは、展示の真ん中で行った。拍子木が三拍、そして二拍。人の流れが沈み、また流れる。展示は「塞がない」。五歩で測ってある。救急車役の台車が滑り込み、十五秒で抜ける。dB計は八つ落ち、るりの耳は伏せない。〈数字の柱〉の下で、数字と顔が、敵でも味方でもなく、同じ側に立っている。

  終わりの合図の前に、幸博が〈今日の三行〉を角丸の小さなボードに置いた。

  「①数字は「柱」、顔は「橋」。」

  「②「私は」で書けば、刃ではなく手すりになる。」

 「③笑顔は強制しない――「怒っていない顔」を増やす。」

  ブティック店主は「写真の横顔は、明日もここにいる」と言い、乾物屋の主人は「昆布指数、0。3」とまた冗談を言った。結月は笑いかけず、やめる。やめた顔が、通りの温度を崩さない。

  夜、〈ミッドナイトアゲート〉。カウンターに温いレモン水と塩。瑪瑙アゲートの層は、日中の視線の熱をゆっくり吸っていた。私は椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。呼吸は、十まで届いた。

  「安堵、してる顔。」

  結月が短く言う。「塩、先」と言いながら、薄い塩キャラメルをひとかけ差し出す。私はそれを舌にのせ、今日の三行をノートに写した。

 ① 柱だけでは歩けない――橋を架ける/② 「私は」で語る/③ 怒っていない顔が、明日の力になる。

  るりが足元でとん、と鳴らし、透が蛇腹に空気だけを通す。音は出ない。出ない音が、展示の余白になる。

  外に出ると、提灯の橙が低い位置でやさしく揺れていた。紺帯+白縁の下を、五歩で測れる。数字は柱に固まり、顔は橋になった。橋を渡る足音は小さく、けれど確かだ。勝ちではなく、続ける。塩は先。甘さは、続ける力になる。


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