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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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第31話 公開ヒアリング、一人称で話す。

 市民会館の扉は、朝の冷たい金属の匂いがした。自動ドアの向こうに、長い廊下と白い矢印。受付の横に立てられた立て看板は、角が尖っていた。――今日は、角を落としに来たのだ、と私は思う。

  私は胸ポケットに角丸のカードを一枚だけ入れてきた。〈事実〉〈ために〉〈どう〉の三つが小さく印刷された、いつもの「条文三行」の型だ。食べ物持ち込み不可の張り紙があるから、塩キャラメルは持っていない。かわりに、十呼吸を用意した。合図は口の中ではなく、数えた息に置く。

  受付で名を告げると、係の人が列を指した。名札には「意見陳述」。並ぶ人たちの背中はどれもまっすぐで、わずかに固い。私はその列の最後尾に立ち、自分の靴の先を見た。紐を結び直すふりで、手の震えを隠す。落ち着け。五歩、思い出せ。止まる三拍、通す二拍。私は心の中で拍を取り、十まで数えた。

  会場に入ると、前方に長机が並び、正面の壁には時計。市の各課の職員が座り、右側に再開発会社の席。左側に市民席。誰も笑っていない。怒ってもいない。その温度がありがたかった。笑顔は強制しない――通りの約束は、ここでも有効だ。

  最初に呼ばれた人は、古い写真を掲げた。次の人は、法令の条文を読み上げた。次の人は、涙をこらえた声で「ここが故郷だ」と言った。終わるたびに、静かな拍手が生まれては消えた。私は手に汗をかき直し、角丸カードの角を親指で撫でた。

  「――次、紫瑠璃通り・あゆむさん」

  私は立ち、前へ進んだ。演台の高さが、ほんの少しだけ高い。目の前に赤いランプ。三分の札が立つ。息が浅くなるのを、私は数字で踏みとどめた。十呼吸。ひとつ吸い、ひとつ吐く。三つ吸い、ふたつ吐く。――私は、私から始める。

  「私は、紫瑠璃通りで朝を迎えます」

  最初の一行で、手の震えが少しだけおとなしくなる。私はつづける。

  「私は、五歩で考えています。いま、ここにいる誰かが転びそうなら、三拍で止まり、二拍で通します。私は「静かな帯」の前で、ベビーカーの高さに目線を合わせ、犬の耳を基準に音を下げます。私は夜、〈ミッドナイトアゲート〉で「ケンカの後の甘い時間」を準備します。甘さの前に、塩を置きます。――合図のためです」

  少しだけ、会場の空気が動いた気がした。私は「条文三行」のカードを取り出し、演台の上に置いた。紙は角が丸い。それだけで、言葉の刃が少し鈍る。

  「事実。――私たちはこの三か月、月次で記録してきました。騒音は「静かな帯」導入で平均八デシベル下がり、滞留は一九パーセント減り、車椅子の旋回時間は一一秒短く、救急の通過は十五秒で抜けています。雨の日には「濡れ段差」に白縁テープを重ね、砂を薄く撒き、傘の先を下げる「雨の五歩」を続けています」

  私は呼吸を一度置いて、二行目に移る。

  「ために。――これは「勝つため」ではありません。「明日も同じ店が開くため」です。私は、反対する人の肩を責めません。私は「戻る階段」を先に置きます。数字が崩れたときは、ゼロに戻す前に段で戻る。――「処罰待ち」ではなく、「練習待ち」の留保です」

  会場の左側で誰かがゆっくり頷いた。右側の席で渉外担当の女性が、名札の紐を指で軽く整えた。私は三行目に行く。

  「どう。――私は「座る前に五歩」を提案します。会議の前に廊下で、三拍と二拍をやってみてください。「歩く会議」です。資料は角丸で。「方法の保存」として、常設ではなく可搬の展示を認めてください。文化は建物ではなく、運び方にも宿ります」

  私はそこで言葉を切り、十呼吸のあいだ、何も足さなかった。空調の低い音が、会場の「薄い曲」になった。私は初めて、演台から目を離し、左右を見た。誰も笑っていない。怒ってもいない。――十分だった。

  「私は、勝ちたいのではありません。続けたいのです」

  最後の一行で、声がかすかに震えた。私は逃げずに、その震えも含めて「私」にした。赤いランプが点滅に変わる。私は角丸のカードを胸ポケットに戻し、一礼した。

  静かな拍手が起きた。大きくも、長くもない。けれど、拍手の間に「ため息」が一つも混じらなかった。私は席に戻り、手を膝に置いた。結月が隣で小さく頷く。「合図、よかった」。彼女は塩キャラメルの代わりに、空の指で十を数えた。私も数える。十呼吸は、ここでも効く。

  ヒアリングは続く。再開発会社の若手が、見慣れた顔で立った。前に、角砂糖みたいに言葉が固かった青年だ。今日は胸ポケットから角丸のメモを出し、「「歩く会議」を社内でも」と短く言った。誰かが小さく笑いかけて、やめた。やめた顔は、怒っていない。

  休憩の札が立つ。小休止。私はロビーに出て、紙コップの水を半分だけ飲んだ。掌はまだ汗ばんでいる。壁際で、腕組みが得意だった男が立っていた。彼は視線を外に向け、窓の雨痕を見ていた。私に気づくと、短く顎を上げた。

  「「七時十五分派」、連絡表、作った」

  「見ました。二重丸、ありがとうございます」

  彼は鼻で笑い、そしてふいに真顔で言った。

  「「勝ち」じゃなく「続ける」。…………覚えた」

  休憩が終わる。私は再び会場に戻る。今度は、「次の論点」の札をポケットから出した。〈方法の保存〉〈留保の階段〉〈笑顔は強制しない写真〉――三つ。私は順番の番までゆっくり呼吸し、二度目の演台に立った。

  「追補します。――「方法の保存」を制度に。可搬展示を『市民協働の文化企画』として登録してください。「留保の階段」を文書化し、「検討」の曖昧を段で狭めてください。「笑顔を強制しない写真」を広報の標準に。「怒ってない顔」が増えると、街は強いです」

  私は短く頭を下げ、演台を降りた。二度目の拍手は、最初よりもさらに静かだった。静けさに、私は救われた。大声は決定を生まない。合図が、決定の前にある。

  終わりの合図は、職員の小さな「本日は以上です」だった。私は会場の椅子が擦れる音を「二拍」に数えてから、出口へ向かった。廊下で渉外担当の女性が立ち止まり、名札の紐を軽く引いた。

  「「私は」で始めたの、よかったです」

  「「私たち」だと、誰かが他人になる気がして」

  「「方法の保存」は、議題に上げます。文化財の席、乗ってきました」

  「――ありがとう」

  私は言ってから噛む。甘さはあと。塩は先。十呼吸ぶんの余白を置いてから、会場を後にした。

  市民会館の階段を降りると、紫瑠璃通りの夜の橙が遠くに見えた気がした。私は胸ポケットの角丸カードをもう一度取り出し、裏に小さく書く。〈今日の三行〉。

 ① 「私は」で語る――当事者性は、刃ではなく手すり/② 「座る前に五歩」――合図は決定の前に/③ 「方法の保存」――常設ではなく可搬で。

  外に出ると、風が顔の角を撫でた。笑っていない。怒ってもいない。――それがいい。私は二拍ぶん息を吸い、三拍ぶん止まり、二拍で歩き出した。会場から通りへ、合図を持ち運ぶみたいに。

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