第30話 対案は未来の地図。
朝の紫瑠璃通りを出るとき、歩は黒板をたたんで角を手で一度なぞった。角は丸い。けれど、今日の目的は丸めることではなく、歩かせることだ。
結月は保冷バッグを叩き、「塩、先」と短く言ってから、可搬の小卓に入れ替えた。塩一粒、薄いレモン水、真鍮の鈴、角丸の紙束。るりは玄関で一歩だけ踏み出し、尻尾で「とん」。犬の耳は、今日も基準になる。
市役所の自動扉は予定より少し早く開いた。受付には細いアクリル板、奥は長い廊下。歩は透明の立て看板を差し出し、係員に短く言う。
「「歩く会議」で説明します。――椅子に座る前に、五歩だけ」
係員は目を瞬かせ、後ろを振り返った。先導役の職員が一人。濡れ色のスーツの渉外担当の女性が、今日も歩きやすい靴で並ぶ。
「廊下で五歩、まず体験していただいてから会議室に入ります」
女性はそれだけ説明して、通行のジャマにならない位置に身を寄せた。
都市計画課、建築指導課、道路管理課、文化財担当、広報課――名札が五つ。最初に歩いたのは、最も忙しそうな建築指導の職員だった。視線が硬い。歩は拍子木を見せ、三拍、そして二拍。
「――止まります」
廊下の流れが一瞬だけ沈み、コピー用紙の束を抱えた職員が足を止める。二拍。「通ります」。向こう側の待合に向かう母親がベビーカーを押し、狭い角をすっと抜ける。
「五歩」
亜柊が無駄のない声で続け、るりが耳を立てる。一歩――ぶつからない。二歩――肩が触れない。三歩――車椅子が回れる。四歩――台車が音を上げない。五歩――犬の耳が伏せない。
「――はい、会議室へ」
歩は拍子木をしまい、角丸のパネルを脇に抱えた。
会議室の空調は、市役所の朝らしい冷たさ。テーブルにプロジェクター、壁に白いスクリーン。職員のひとりが電源を探し、別のひとりが「資料はスライドで?」と問う。
「角丸で、歩きます」
結月が可搬の小卓を静かに据え、塩一粒を中央に、鈴を左端に置いた。
「合図――「急がない」」
十呼吸。職員の視線が一度だけ下を向き、呼吸のタイミングが揃う。歩は資料の束(紺=事実、白=ために、薄い灰=どう)を三つに分け、順番をそろえた。
「本日の説明は三層で進めます。――法・現場・文化」
歩は黒板代わりの角丸パネルに太く書き、最初の紺色を上に重ねた。
事実(法の層):KPI=dB・滞留・救急通過・五歩/ために:転ぶ前に止める/ぶつかる前に譲る/どう:月次公開・第三者立会い。
都市計画課の職員がメモに「第三者」と書き、道路管理の職員が「あの測点の老人?」と小声で言った。
「はい。――OB測量士です。境界の回でご一緒しました」
歩が短く返し、すぐ次の白を重ねる。
ために(現場の層):十五分×反復/「破られたときの三行」常設/どう:拍子木(三拍→二拍)/「声のベル」優先/犬の耳=脚注。
広報課の職員が笑いかけ、やめる。やめた顔は、温度を崩さない。
「最後に文化の層」
薄い灰の束を上に。
文化:戦後の「夜の誓い」文書/「澪標計画」/ために:方法の保存(常設ではなく可搬)/どう:「歩く会議」+可搬展示。
文化財担当の職員が便箋の端を指で撫で、「「方法の保存」は、議論できます」と静かに言った。
建築指導の職員が、書類を重ね直してから切り出した。
「「静かな帯」や「避難島」の運用――違反した場合は?」
結月が角丸のカードを差し出す。
破られたときの三行/① 三拍で止める/② 事実→気持ち→提案を紙に置く/③ 十呼吸→合図で再開。
「「処罰待ち」ではなく、「練習待ち」。――戻る階段を先に置いています」
渉外の女性が補足し、法の席の空気が一度だけ緩んだ。
道路管理の職員は、資料の隅に小さく「段差」と書いた。
「「濡れ段差」の対応。雨の日に滑る」
「砂を薄く、白縁テープを二段。――五歩の「三歩目」で止めます」
亜柊が淡々と答え、宜幸が透明の立て看板に「雨の五歩」の図を差し込む。
一:傘先下げる/二:水溜まり避け/三:濡れ段差に白縁/四:台車の音下げ/五:耳、震えない。
「「耳、震えない」」
広報が笑って、やめて、頷いた。
都市計画課の職員が椅子を引く音を小さくして、前へ出た。
「「留保条件」の条項――三か月良好で「自動議題化」とありますが、議題の順番はこちらで管理したい」
「順番はそちら。――「議題に上がる」だけ自動にしてください」
歩は譲り、結月が砂糖のように一言だけ足す。
「「ありがとう」は先に言います」
塩キャラメルを配る仕草をして、配らない。会議室に食べ物禁止の札が小さくある。配らない人は、よく見ている。
広報の職員が手を上げた。
「「笑顔を強制しない写真」を希望されていましたね。――どんな構図で?」
幸博が「派手封印」を胸でぎゅっと抱え、角丸の見本を出す。
「横顔。読んでいる手。拍子木の影。――笑っていなくても「怒ってない」顔。テロップは「歩く会議、十呼吸」」
「「十呼吸」をテロップに?」
「はい。――情報番組向けに、秒で合わせるより、呼吸で覚えるほうが残ります」
広報はペン先を止め、「試す価値あり」とだけ言った。
会議の後半に、文化財担当が封筒を一枚出した。
「「夜の誓い」の複製、拝見しました。――「可搬展示」を『市民協働の文化企画』として登録できる見込みです。ただし、動線の塞ぎは不可」
「塞ぎません。五歩で測ります」
有里杏が即答し、付け足す。
「――わたし、短距離走者です。展示の立ち上げは速いですが、押しません。『押さないで走る』でやります」
文化財担当は「押さないで走る」を二度復唱し、口角を下げて笑った。笑っているのに、顔が下がる。たぶん、好きな笑い方だ。
建築指導が最後の質問を置いた。
「「可搬拠点」が災害時の「仮の避難所」に読まれると、責任の重さが変わる。――どう区切る?」
歩は角丸の「ただし書き」を示す。
※「避難所」ではありません。「合図と情報の受け渡し所」。医療・水・電力はありません。
「「できること」を先に紙で狭めます。――「できないこと」を先に書かず、「できる」を明確に」
道路管理の職員が「それで足ります」と短く言い、椅子の背にもたれた。
質疑が一周したところで、歩は黒板の隅に小さく書いた。
今日の三行/① 座る前に五歩/② 「戻る階段」は先に/③ 「方法の保存」=可搬。
結月が横に、さらに小さく添えた。〈※耳=基準〉。
「――では、決裁ルートの確認に入ります」
渉外の女性が議事をまとめ、都市計画の職員が進行表を出した。角は丸くない。丸くない紙も、歩く前提があれば刺さらない。
会議室を出ると、長い廊下に昼の光が伸びていた。ベビーカーがひとつ、台車がひとつ、反対側から来る。
「三拍」
歩の声に、誰も驚かない。二拍。通す。
「「やるんだな」」
建築指導の職員が、廊下で小さく言った。
「やります。――十五分ずつ」
歩は返し、頭を下げた。
市役所の食堂で、四百九十円の定食。ご飯は少なめ、味噌汁は熱い。
「ワンコイン、守ってる」
宜幸が箸を立て、幸博が「味噌の角は丸い」と妙な感想を言う。結月は箸を止めず、短くまとめた。
「「座る前に五歩」――効いた。次は「歩く報告」」
「「歩く報告」?」
「「紙で読ませず、五歩で見せる。――数字は脇で支える」」
言葉は砂糖みたいに短い。あとから効く。
夕方、紫瑠璃通りに戻ると、〈写真スポット〉の横に小さな掲示が増えていた。腕組みが得意だった男の字だ。
七時十五分派・連絡表/※「押さないで走る」
角は丸く、ペン先の勢いは残っている。
「おかえり」
ブティック店主が紺帯+白縁を軽く引き、乾物屋の主人が「昆布指数、今日は0。5」と冗談を言う。
るりが尻尾で「とん・とん」。二回は賛成。耳はよく立っている。
〈ミッドナイトアゲート〉。
カウンターに温いレモン水と塩。瑪瑙の層は、昼の冷たい空気を吸い込んで、夜の温度に戻りつつあった。
「市役所、どうだった」
マスターが訊く。
「歩いた。――座る前に五歩。文化は「方法の保存」で議題化、留保は「戻る階段」で合意」
歩が短く答え、結月はノートに三行を置く。
① 座る前に五歩/② 可搬=方法を残す/③ 押さないで走る。
有里杏は湯気越しに深く息を吐き、短距離走者の肩を一度だけ回した。
「来週、「市の回覧板版」を作る。角丸で。――『笑顔は強制しない』『十五分は練習』『耳=基準』」
「「犬耳の脚注」、公文書に入るかな」
幸博が笑いかけ、やめる。やめた顔は、怒っていない。
「脚注じゃなく「イラスト」で」
結月がさらりと言い、鉛筆で小さな耳を描いた。丸い。だが、弱くはない。
店を出ると、提灯の橙が市役所の蛍光灯より低いところで揺れていた。紺帯+白縁の下を、五歩で測れる。
座る前に五歩。
説明の前に合図。
勝ちではなく、続ける。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




