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第3話 深夜、紫瑠璃に灯る石。

 雨脚が細くなるのを待って、歩は傘を畳んだ。紫瑠璃通りの灯りはもう半分ほど消え、シャッターの隙間に溜まった水滴が、街の寝息みたいにかすかに震えている。

  「…………あの灯り、やっぱりある」

  昨日から気になっていた裏路地の奥、古い扉の上に、小さな橙の火が点っていた。真鍮のベルの代わりに、黒い板に小さな石が埋め込まれていて、雨に濡れるたび、内側から薄く光る。看板には、控えめな英字で〈Midnight Agate〉――〈ミッドナイトアゲート〉、とある。

  扉を押すと、乾いた木の匂いと、カカオの湯気が押し返してきた。カウンターの中に、年齢の読めないマスターがひとり。磨かれた瑪瑙の皿が、月の欠片のように置かれている。

  「ようこそ。雨の客は、温かいものを頼む権利があります」

  差し出されたカップは、コーヒーではなく、深いココアだった。表面の泡が控えめに揺れ、鼻を近づけると、ほんのかすかなスパイスの影。

  「ココア、なんですね」

  「話を温めるには、苦味より甘味がいい夜もある」

  言葉は柔らかく、奥行きがあった。

  カウンターには、先客が二人。片方は古い仕立屋の主人で、もう片方は、すでに引退した玩具店の女将だという。二人とも水滴のついた傘を足元に立て、カップに両手を添えていた。

  「この通りにはね、もう看板だけの店がいくつもあるよ」女将が笑った。「でも、看板が残るってことは、誰かがまだ思い出すってこと」

  仕立屋が頷く。

  「うちの看板、孫が写真撮ってくれてさ。『映える』んだって。店は無くなっても、話の種にはなる」

  話の輪が、湯気の高さに合わせてふくらむ。歩は耳を傾けるだけで、背中の力が抜けていくのを感じた。消えた店の伝説は、どれも整ってはいないが、角が丸かった。

  扉がもう一度、短く鳴った。

  「遅くなった」

  結月が、濡れた前髪を指先で上げながら入ってきた。無愛想な眉の隙間に、雨の光が一瞬、宿る。マスターは何も聞かず、同じココアを差し出した。

  結月はスプーンの背で表面を一度、そっと撫でる。

  「少し塩。あと、山椒、ほんの一粒」

  「わかるかい」

  「冷えた舌は、先に塩が喜ぶ」

  言葉は短いのに、場が少し明るくなる。不思議だが、彼女の「味覚の感想」は、どんな挨拶よりも空気をやわらげる。

  歩は、カップを両手で包みながら訊いた。

  「店名の「アゲート」って、瑪瑙ですよね」

  マスターはカウンター越しに、黒板の隅の小さな石を指さした。

  「瑪瑙は、層が重なってできる。一本ずつの筋は薄くても、重なるほどに強く、美しくなる。ここは、街の層を重ねる場所だ。閉じた店の記憶も、人の声も、ぜんぶ並べて、次へ渡す」

  女将が横から口を出す。

  「昔、うちに来た子が大人になって、今は自分の子を連れてくるのよ。店は無くても、話は続く。変ねえ」

  「変だけど、正しい」結月がカップに口を付けたまま言った。「話せるうちは、街は息をする」

  マスターが目を細め、同じ言葉をなぞる。

  「話せるうちは、街は息をする。そうだね」

  仕立屋が、からりと笑った。

  「昼間は「ワンコイン接待」とかいうのを始めたんだって? 五百円で揉め事を聴いてくれるらしいじゃないか」

  歩は背筋を伸ばし、うなずく。

  「最初の一歩の値段、にしました。話す場を整えるところまで」

  「じゃあ、うちは夜の番だ」

  マスターが指でカウンターを二度、軽く叩いた。

  「昼は君たちの店で話し始めて、夜はここで続きを聞こう。日中は言えないことも、深夜なら言える人がいる。お互いに記録を残して、渡せるようにすればいい」

  「連携…………」

  歩が反芻すると、結月は短く相槌を打つ。

  「紙の「味」は統一して。紙質、色、フォント」

「味?」

  「齧るわけじゃない。触ったときの気持ち。手は舌に近いから」

  女将が「なるほど」と笑い、仕立屋は「そういう時代か」と肩を竦めた。確かに、紙一枚にも、街の「温度」は移る。

  歩は鞄から、小さなメモ帳を取り出した。昼間、相談の場で使う三つの丸――事実/気持ち/今やること――のテンプレートで、今度は「夜の版」を描いてみる。

  「夜は、もう一つ「思い出」を真ん中に置こう。過去のことを話すと、いまの気持ちが言いやすくなる」

  「いいね」マスターが頷く。「うちは「思い出」が主役だから」

  歩は、丸の輪郭を少し太くした。輪郭線が太いと、中の言葉も安心して並ぶ気がする。結月が横から覗き込み、鉛筆を取り上げる。

  「ここ、色は紺」

  「紫瑠璃の、あの布と同じ?」

  「うん。昼と夜を繋ぐ色」

  そう言って、彼女は鉛筆の横腹で、紙をやわらかく染めた。色が乗るたび、店の灯りが少しだけ近くなる。

  常連の二人がぽつりぽつりと、消えた店の話を始めた。古い駄菓子の瓶、雨の匂いと混じった本屋の紙、夕方にだけ焼かれたコッペパン――。

  「覚えてる人がいる限り、店は少しだけ開いてるのよ」女将はそう言ってカップを置いた。「だから、ここに来るの」

  仕立屋が帽子を整え、マスターへ軽く会釈をした。

  「今夜も息がしやすくなった。おやすみ」

  二人が扉の向こうへ消えると、雨はもう糸のようになっていた。

  「歩」

  結月の声がいつもより少し、柔らかかった。

  「あなた、今日の昼の説明、よかった」

  「聞いてた?」

  「うん。入口は低く、中は深く。あれ、甘さに似てる」

  「甘さに?」

  「最初は「香り」で、次に「舌」。最後に「喉」を通る。全部が揃うと、また飲みたくなる」

  マスターが静かに笑う。

  「彼女は詩人だね。無愛想な詩人」

  「無愛想は仕様」

  結月の返しに、三人で小さく笑った。

  歩は、カウンターの端に埋め込まれた瑪瑙をじっと見つめた。縞模様の一筋一筋が、店の音に呼吸するように、暗がりで脈を打っている。

  「この光、電飾じゃないんですね」

  「外の灯りを吸って、返すだけさ」マスターが言う。「昼の残り火が、夜にここまで届くことがある」

  「僕らの昼も、届きますかね」

  「届くとも。君たちが話を運べば」

  その「運ぶ」という言葉が、不思議と胸に落ちた。話は、勝手に届くものではない。誰かが運び、受け取り、また誰かが運ぶ。層が重なるほど、街の模様は強くなる。

  店を出ると、路地は雨上がりの匂いに満ちていた。結月は傘を差さず、しばらく空を見上げていたが、やがてゆっくり歩きだした。

  「連携、始める」

  「うん。昼の「最初の一歩」を、夜に繋ぐ」

  「紙は、紺。チョークは白」

  「フォントは?」

「読みやすいの」

  やり取りは短いのに、そこに迷いはない。歩は、ポケットの中のノートを握りしめた。ページの端が少し湿って、指先に紙の冷たさが残る。

  通りの角を曲がると、さっきの看板がまた小さく光った。昼間に見たときよりも、くっきりとした輪郭を帯びている。

  「瑪瑙って、夜に強いのかな」

  「たぶん、人に強い」

  結月の言葉に、歩は笑った。

  「じゃあ、明日の「最初の一歩」を、ここへ持ってくるよ」

  「うん。夜に温める」

  そう言って、彼女は一歩先に出た。雨粒が髪から落ちるたび、黒い道の上に、小さな白が弾ける。

  振り返ると、〈ミッドナイトアゲート〉の扉の向こうで、マスターがカウンターを拭いていた。遠目にも、動きはゆっくりで、迷いがなかった。歩は胸の内で、さっきの言葉をまたなぞる――話せるうちは、街は息をする。昼の紙と、夜のココア。明日へ運ぶための、二つの灯り。

  歩の足取りは、雨上がりの路地でほんの少しだけ、軽くなっていた。


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