第29話 短距離走者の役割。
締切前週の朝、紫瑠璃通りは、紙とインクの匂いで少しだけ急いでいた。歩が黒板を立てるより早く、有里杏は角を丸く切った予定表を四枚、ばちん、とクリップで留めた。上段には太字で〈追い込み戦・一週間〉、右端に小さく〈「破られたときの三行」常設〉。
「短距離走、わたしが引っ張る。――一週間で「見える手応え」を揃える」
「酸欠になる前に、水を飲む」
結月が保冷バッグを叩く。塩レモン水と、薄い塩キャラメル。塩は合図、甘さは約束。看板犬見習いのるりが、足もとでとん、と尻尾を鳴らした。
予定表は四色。紺は〈署名・賛同〉、白は〈十五分ワークショップ〉、薄い灰は〈留保掲示板の説明〉、橙は〈文化展示「夜の誓い」〉。有里杏は線を引くたび、角を丸く撫でる。
「KPIは三本柱。――「手を挙げた数」「歩いた時間」「読んだ人」。最終日の十八時までに、それぞれ「先週比+二割」」
「二割、強気だな」
幸博が苦笑する。
「強気で走って、最後は甘さで整える。――あなたは「整える」」
言い方が鋭すぎるのを、自覚していないわけではない。けれど有里杏は、短距離走者だ。スタートの音が鳴っている間は、呼吸も削る。
午前十時、通りの角に四つの拠点が立った。〈署名〉の透明スタンド、〈十五分〉の拍子木と矢印、〈留保〉の角丸パネル、〈文化〉のコピースタンド。透は「薄い曲」を短く、一拍ずつ置いては止める。テンポは前のめり、でも息はできる。
「――スタート」
有里杏の声が合図になり、るりの尻尾が「とん」。亜柊は人流カウンタを握り、宜幸は透明の立て看板を持って走る。幸博は胸に「派手封印」の見出しを抱え、笑顔を取りにいかない笑顔で端を支える。
最初の一時間、有里杏の言葉は速すぎた。
「「今、ここで、書けます。三十秒で終わります。――街を「続ける」側に、立ってください」」
「続ける側」と「立たない側」。線を引く言い方だった。若い母親が一歩引き、眉がわずかに上がる。
「合図」
結月が皿を差し出す。薄い塩キャラメルをひとかけ。十呼吸。
「「立てない日」もある。――「歩く日」の印だけ、今日は置いていってください」
幸博の声は柔らかい。母親はペンを取り、〈今日は読むだけ〉に丸を付けていった。
有里杏は自分の言葉の角が立ったことを理解し、短く顎を引いた。
「ごめん。――ペース、修正」
昼前、ペースは上がった。〈十五分〉の合図が三拍二拍で回転し、〈文化〉の「夜の誓い」を読んだ人が〈署名〉へ、〈留保〉の説明を聞いた人が〈十五分〉へ流れる。矢印は角丸、喉ごしは良い。
「「読んだ人」、一時間で四十七」
亜柊が数字を置く。
「「歩いた時間」、午前だけで一九五分」
宜幸が控えを指で叩く。
「「手を挙げた数」、午前は八十五」
幸博が、派手を封印した見出しに小さく笑みを添える。
「――午後は「怒ってない顔」を増やす」
有里杏が角丸の付箋束を配り、〈見送りの顔〉の欄を増やした。笑顔は強制しない。怒ってない顔を、増やす。
午後いち、空気がつまずいた。腕組みが得意だった男が、今日に限って無言で列の最後尾に立ち、順番が長くなった。子どもが泣き、パン屋のベルが少し高く鳴る。
「三拍」
歩の声。止まる。二拍。通す。
有里杏はその間に前列へ回り込み、短く、しかし今度は角を落として言った。
「「強い言い方」をしてしまうことがあります。――でも、あなたを「続ける側/続けない側」で分けたいわけじゃない。…………今は「走ってる週」なんです。走りながら、譲ります」
男は視線を逸らし、ふいに笑いかけてやめた。やめた顔は、怒っていない。
「俺、七時十五分派だ。――書いとく」
ボードに丸が一つ増え、列がほどける。透は一拍だけ音を置き、消した。
夕方、雨上がりの光が提灯の橙に火を入れかける時間帯。〈十五分〉の最後の回に、高校生が四人、駆け込んだ。
「「二拍」叩いていい?」
結月が拍子木を渡し、歩が肩の高さで合図する。三拍で止まり、二拍で通す。若い手の角が少し削れ、ふいに通りの空気が軽くなる。
「「手を挙げた数」、本日分で二百二十」
亜柊が数字を読み上げ、〈読んだ人〉は三桁に届いた。
「「歩いた時間」、四二〇分」
宜幸が親指を立て、それを結月に下げられて苦笑する。「派手は封印」
「先週比、+二割、超え」
幸博の声に、るりがとん、と二回。二回は賛成の合図。
――締切前夜。
〈ミッドナイトアゲート〉の二階で、数字が静かに並んだ。黒板の隅には「犬の耳=伏せない」の丸印が五つ、薄く輝いている。
「最終日は「反動」が来る。――「押しすぎ」の反動」
歩の言葉に、有里杏は頷いた。
「だから、「押さないで走る」。「お願い」じゃなく「報告」で回る」
〈今日の三行〉の見出しに、結月が短く筆を入れる。
① 「押さないで走る」/② 「歩いた証拠」を見せる/③ 「ありがとう」で終わる。
「「ありがとう」は、言ってから噛む」
結月が薄い塩キャラメルをひとかけ、全員に配った。十呼吸。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが「明日も走る」をやわらげる。
――最終日。
朝から通りは落ち着いていた。〈署名〉の前では「夜の誓い」を読んだ人が静かにペンを置き、〈十五分〉は三拍二拍の呼吸で回り、〈留保〉は「処罰待ちじゃなく、練習待ちです」の一文で頷きが増える。
昼過ぎ、山場。小雨が一瞬だけ強くなり、列がにじむ。
「三拍」
拍子木。止まる。
「二拍」
通す。
有里杏は列の途中で、ふいに深く頭を下げた。
「――この一週間、きつい言い方をしました。数字のために。…………でも、あなたたちの「歩いた時間」が、わたしたちを助けました」
言葉は短く、届いた。怒っていない顔が、いくつも増える。高校生が二拍を叩き、母親が「読んだ人」の丸を塗りつぶし、腕組みの男が七時十五分の丸の上からもう一度丸を描いた。二重丸。
「最終、十八時」
透の「薄い曲」が一拍置かれ、消えた。通りの空気が、合図の前の静けさになる。
十八時、黒板の前。
「「手を挙げた数」、一週間累計で一二二四」
亜柊が読み上げる。
「「歩いた時間」、一四八〇分」
宜幸が続ける。
「「読んだ人」、一〇三二」
幸博が最後に、ゆっくり言う。
「――先週比+二五・三%」
瞬間、拍子木は鳴らなかった。誰も笑っていない。けれど、怒ってもいない。沈黙が十呼吸分、通りを満たし、そして有里杏が小さく、しかしはっきりと息を吸った。
「達成」
そのひと言で、空気の角がほどけた。白い縁の内側で、手のひらと手のひらが、ぱちん、と重なる。ハイタッチ。
結月が皿を中央に置く。「合図――「勝ち」じゃなく「続ける」」
薄い塩キャラメルがひとかけずつ配られ、十呼吸。涙が一人、二人。笑いかけて、やめる顔もある。やめても、温い。
夜。〈ミッドナイトアゲート〉のカウンターに、数字と角丸の付箋と、拍子木のうっすらした傷が並んだ。マスターは温いレモン水と塩を置き、瑪瑙の層を指でなぞる。
「短距離走は、終わった」
歩が言い、結月はノートに三行を置く。
① 「押さないで走る」は効く/② 数字は歩幅で温くなる/③ 「ありがとう」は先に言ってから噛む。
有里杏は湯気の向こうで、眉をほんの少しだけ下げた。
「わたし、時々、言葉が強い。…………でも、走る週は、走るしかない」
「走ったあとに、甘い時間がある」
結月の声は短い。るりが足もとでとん、と鳴らし、透は蛇腹に空気だけを通した。音は出ない。出ない音が、次の合図の余白になる。
店を出ると、提灯の橙は低く、紺帯+白縁が夜気を抱いた。
短距離走者は、ここで歩幅を戻す。
「続ける」ほうへ、呼吸を置き直す。
明日、対案の地図を持って、市役所へ歩く。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




