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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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第28話 瑪瑙に眠る手紙。

 朝の紫瑠璃しるり通りは、雨上がりの石畳がまだ薄く光っていた。〈ミッドナイトアゲート〉の扉を押すと、瑪瑙アゲートの層が湿りを飲み込んだばかりの顔でこちらを見ている。あゆむは黒板をカウンター脇に立て、上段に太い字で書いた。〈三層防衛=法/現場/文化〉。昨日まとめた図の復習だ。

  「法は「条文三行」、現場は「五歩」、文化は――」

  「「灯りを持ち運ぶ」」

  結月ゆづきが短く言い、保冷バッグの口を軽く叩く。塩は合図、甘さは約束。薄い塩キャラメルが角丸の小皿に三欠片。るりが足元でとん、と尻尾を鳴らした。

  マスターが奥から古い箱を抱えて出てきた。長辺が少し反った木箱で、蓋に細い亀裂が一本走っている。

  「棚を動かしたら、出てきてね」

  「アゲートの層の裏、ですか」

  「そこまで古くはないが、戦後すぐの…………いや、開店前夜のものかな」

  蓋を開けると、紙が一束。角は、今のわたしたちと同じように丸く切られている。歩は最初の一枚をそっと広げ、黒板の隣に置いた。墨の薄い匂いが、朝の湿りに混じる。

 紫瑠璃通り 夜の誓い/一 笑顔を強制しない/二 「黙る」より「止まる」。三拍で止め、二拍で通す/三 「耳」を基準に。犬の耳が伏せる音は下げる/四 喧嘩のあとは甘いものを。塩、先に/五 約束は紙に。角を丸くすること。

  結月の眉が、ほんの少しだけ上がった。「「犬の耳」…………ここにも」

  「先代の先代だ。戦中に空襲で避難所を経験した人たちが、開店の「誓い」にして残した。…………多分ね」

  マスターの声は低く、よく通った。

  束の底から、さらに封筒が出てきた。薄いブルーの紙に、便宜上のタイトル――〈澪標みおつくし計画〉。結月が一瞥し、「名前、好き」と一言。歩は封を切り、三行で要点を黒板に写す。

 事実「通りは「夜に集まり、朝に解散する」」と三行が並んだ。

  紙はうっすら透け、端に古い地図の切れ端が貼られている。地図の上には赤い小さな丸――いまの「写真スポット」の位置とぴたり重なった。

  「文化の層、実物」

  歩は息を吐いた。三層防衛の〈文化〉を、夢ではなく手触りで掴んだ気がした。

  「これ、使える?」と幸博ゆきひろ

  「使う。――「嫌がられる資料」じゃなく、「歩ける資料」に」

  歩は頷き、封筒の別紙をめくる。そこにはさらに、制度っぽい言葉が並んでいた。

 記憶の場の「暫定登録」/「住民による公開運用」/「撤去時の戻る階段」

  「「戻る階段」、もう当時から」

  結月が小さく笑い、塩レモン水をコップに半分だけ注いだ。「合図、どうぞ」

  十呼吸。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが「明日もやる」を繋ぐ。歩は黒板の下段に新しい枠を描き、角を丸くなぞった。

 文化レイヤの三行/① 「夜の誓い」を写し撮る(複製・掲示・配布)/② 「澪標計画」を現代語にして提出/③ 「記憶展示」の可搬レシピ。

  「「現代語」、任せて」

  有里杏ありすがいつの間にか椅子に座り、薄い色のペンで言葉をほどき始める。難しい熟語は「止まる→譲る→通す」に翻訳され、句点の角はすべて丸くなった。

  昼前、渉外担当の女性が現れた。濡れ色のスーツではなく、今日は淡いグレー。歩きやすい靴はそのままだ。

  「「三層」の〈文化〉に、根っこが見つかった」

  歩は封筒を差し出し、黒板の要約を示す。女性は紙をめくり、指先で角の丸みを一度確かめると、わずかに口角を動かした。

  「「戦後の避難訓練」が起源なら、文化財の保存活用の枠に乗る可能性があります。――「常設」ではなく「可搬」であることも、むしろ強み」

  「「灯りは人が運ぶ」」

  マスターがぽつりと言う。

  「はい。建物だけでなく、「運び方」が文化になる」

  女性は便箋の余白に〈可搬=文化〉と書き、視線を上げた。「午後、法務と設計も来ます。資料、三行で」

  午後。

  角丸のコピースタンドに〈夜の誓い〉の複製が並んだ。結月は「アゲートゼリー」の透明な皿を三つ、試作用に出す。中には薄い塩の粒と、レモンの輪が一枚、瑪瑙の層みたいに沈んでいる。

  「「ケンカの後の甘い時間」のプロトタイプ」

  「名前が長い」

  「長さ、効く」

  結月の言葉は塩みたいに短く、後から効く。るりはゼリーの表面に鼻先を近づけ、耳を立てたまま「とん」。伏せない。

  法務と設計が入ってきた。渉外の女性が前に立ち、会議が始まる。

  「本件、「防衛作戦は三層で」の〈文化〉について、根拠資料が出ました」

  歩は黒板の三行を指で追い、手短に要点を置いた。

 事実「戦後の「夜の誓い」文書/「澪標計画」」と三行が並んだ。

  設計が眉を上げる。「「展示」は動線を塞ぐことがある」

  「塞がないように――「五歩」で測ります。止まる三拍、通す二拍。…………「耳」を基準に」

  「犬の?」

  「ええ。脚注ですが、効く脚注です」

  室内に小さな笑いが生まれて、すぐに収まった。笑いはやらせではない温度を残す。

  法務が便箋をめくる。

  「「文化」を言い始めると、なんでも文化だ、という反論が来る」

  「来ます」

  有里杏が即答し、角丸のカードを一枚示す。

 「なんでも文化」への返言/① 事実:文書・写真・継続運用/② ために:避難・合意形成のノウハウ継承/③ どう:常設化ではなく「可搬化」。――「場所より方法」の保存。

  「「方法の保存」。法務の言葉ですね」

  渉外の女性が目尻だけで笑い、法務は肩の角を少し落とした。

  そこへ、取材で顔を見せた若手記者が駆け込んだ。以前、結月の「一皿」で本音をこぼした再開発側の若手――あの照れ屋の顔だ。

  「これ、使える記事になります。…………けど、「賛否の煽り」にはしません」

 「煽らない代わりに、歩いてください」

  歩は透明の立て看板を会議室の端に置いた。〈五歩テスト〉の丸い矢印。

  記者はスーツのまま、五歩を歩く。傘はないが、目線の高さが自然に下がり、通路の角が丸く見える。「…………「歩くと、書ける」」

  「「歩かないと、尖る」」

  結月が短く返し、ゼリーのスプーンをひとつ差し出した。「塩、先」

  若手は頷き、ひとかけ舌にのせた。「これ、記事の最後に置きたい味です」

  夕方、〈写真スポット〉の右下に小さな額縁が掛かった。〈夜の誓い(複製)〉。その下には角丸の「ただし書き」。

 ※「笑顔」は強制しません/※「合図」は誰でも出せます/※「破られたときの三行」が右にあります。

  通りを歩く母親が立ち止まり、文字を指でなぞる。

  「「笑顔、強制しない」って、学校にも欲しい」

  「持っていって。角、丸いままで」

  有里杏が複製カードを渡すと、母親は軽く頭を下げ、子どもの手を引いていった。怒っていない顔だった。

  夜。

  〈ミッドナイトアゲート〉のカウンターに、今日見つかった箱が静かに戻される。マスターは瑪瑙の層を指でそっとなぞり、温いレモン水と塩を置いた。

  「灯りは、人が運ぶ。――文も、運ぶ」

  歩はノートを開き、今日の三行を置く。

 ① 三層防衛の「文化」=方法を残す/② 「夜の誓い」は、現代語で歩かせる/③ 可搬展示=「歩く会議」の心臓。

  結月が小さく付け足す。〈※るり=基準〉。るりが尻尾でとん、と鳴らし、とおるは蛇腹に空気だけを通した。音は出ない。出ない音が、約束の余白になる。

  店を出ると、提灯の橙は昨日より少し低い位置で揺れていた。紺帯+白縁が、今日から「文化」の層も帯びて見える。

  瑪瑙に眠っていた手紙は、ガラスケースに閉じ込めるものではなかった。

  人の手から手へ、灯りのように運ぶものだった。

  紙の角は丸い。だが、弱くはない。

  塩は先。甘さは、続ける力になる。

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