第27話 防衛作戦は三層で。
朝の紫瑠璃通りは、雲の底が低かった。提灯の橙はまだ眠そうで、紺の帯に白い縁がしっとり濡れている。歩は黒板の上段に〈本日:留保版――雨天運用訓練〉と太く書き、角を白で丸くなぞった。右下には小さく〈「破られたときの三行」常設〉。
「掲示、雨仕様に」
結月が短く言い、角を丸く切ったA4を透明のポケットに差し込む。〈相互留保条項(抜粋)〉〈KPI(月次公開)〉〈十五分ワークショップ(留保版)〉。表題の角は雨粒で歪まず、紺帯+白縁の枠が薄く光る。看板犬見習いのるりは、足元でとん、と尻尾を鳴らした。
「雨の五歩、決める」
歩は黒板の下段に新しい枠を引き、チョークを握る。
一歩は傘の先が目線を刺さない。二歩は水溜まりで子の靴が沈まない。三歩は車椅子が「濡れ段差」で滑らない。四歩は台車の車輪が音を立てすぎない。五歩は犬の耳が震えない。
「「震えない」、耳」
幸博が笑い、るりが「とん」で返す。乾物屋の主人は樽から「滑り止め砂」を小分けにして、「昆布指数は雨の日は控えめ」と真顔で言った。
〈写真スポット〉の右側に、新しく〈留保掲示板〉が据えられた。角丸の透明カバーの中に、昨日サインしたばかりの条項が三行の要約で並ぶ。
① KPI=dB・滞留・救急・五歩/月次公開/② 「破られたときの三行」常設/③ 二か月悪化→運用再調整/三か月悪化→段階的縮小検討/三か月良好→恒久化「議題化」
「「処罰待ち」じゃないのが、顔つきに出る」
ブティック店主が小声で言い、白の縁を指でなぞる。顔は笑っていない。怒ってもいない。――それがいい。
十時半、雨は細かく強くなった。宜幸は透明の立て看板を二基運び、〈通路やや細い〉の角丸パネルを手前に立てる。亜柊は「傘の図書館」に返却用の箱を増設し、「返傘フロー」を貼った。
借りる→歩く→返す/※「濡れ返し可」(タオル常備)。
「「濡れ返し可」、好き」
結月が頷き、保冷バッグにタオルを詰めていく。透は「薄い曲」の代わりに、蛇腹の空気だけを通して湿りの粒を散らした。
昼前、「社内監査」の名札を下げた三人が現れる。渉外担当の女性は今日も歩きやすい靴で、手には角丸のメモ。
「留保条項、掲示を確認に」
「どうぞ。――雨の五歩でご案内」
歩は傘の先を下げ、目線より下に保つよう示しつつ、ゆっくり歩き出す。るりは耳を立てたまま、尻尾で「とん」。
「一歩――傘先、下げる」
ベビーカーが横を通る。二歩――水溜まりの手前で砂が薄く撒かれ、靴の裏が沈み切る前に抜ける。三歩――縁台の脚は三センチ内、濡れ段差に白い縁取りテープ。四歩――台車の車輪にはゴム帯、金属音が二階ぶん低い。五歩――犬の耳は震えない。
「…………「五歩=耳の余白」ですね」
法務のひとりがぼそりと言い、結月が「耳=基準」と短く返す。
雨音に紛れて、遠くで甲高い声。「「TVの取材」でーす!」
振り向くと、レインカバー越しにカメラが一台。マイクのスポンジだけが派手な色をしている。
「「笑顔、ひとつください!」」
幸博が半歩出かけて、結月に袖をつままれた。
「合図」
結月は角丸の「ただし書き」カードを出す。
※「笑顔を強制しない」のが街の約束。――質問はOK、十五分だけ、歩きながら。
レポーターは一瞬まばたきし、歩へ向き直る。「では、歩きながら。――この「留保」って、逃げ道では?」
「「戻る階段」です」
歩は雨の中でも短く切る。
「数字が崩れたら、ゼロに戻す前に段階で戻る。上がってきた段を、ゆっくり降りる。――街は、階段を知っていれば転ばない」
「「犬の耳」がKPIって本当ですか」
「脚注。――でも効きます」
レポーターが笑いかけ、やめる。その「やめた顔」が、通りの温度を壊さない。
十三時、留保版の十五分ワークショップ。拍子木が三拍、雨に吸われて柔らかく響く。
「止まります」
人の流れが沈み、傘の先がわずかに下がる。二拍――「通ります」。写真スポット脇の「避難島」に白い縁が増え、傘の骨が互いの視界を刺さない角度に揃う。
「救急、通過!」
赤い布を巻いた台車が「救急車役」で滑り込み、十五秒で抜ける。dB計は八つ落ち、カウンタの数字は滞留を作らない。
「三歩目、滑る!」
車椅子の前輪が濡れ段差で空転しかけた。
「三拍!」
亜柊が止め、宜幸が砂を薄く撒き、結月が白いテープをもう一段重ねる。十呼吸。
「二拍――再開」
透の蛇腹に空気が一拍だけ通り、るりの耳はべつに震えない。
訓練の終わりに、渉外の女性が留保掲示板の前で立ち止まる。
「「処罰待ち」に見えない、って大事ですね」
「「練習待ち」です」
歩が返すと、女性は角丸のメモに〈練習待ち〉と書いた。
TVクルーは十五分で撤収し、去り際にレポーターが角丸の「ただし書き」をもう一度撮った。
※「笑顔」は強制しない/「合図」は誰でも出せる。
午後、雨脚がさらに強く、路面の線が薄れる。幸博は「今日の三行」を貼り替えた。
① 雨の五歩=耳の余白/② 「戻る階段」は先に置く/③ 笑顔は強制しない。
ブティック店主は紺帯の端を縫い直し、乾物屋の主人は滑り止め砂の残量を指で測る。「昆布指数、1。8」。
腕組みが得意だった男は、今や砂袋を肩に担いでいる。「七時十五分派」の名札は付けていないが、顔がそう言っている。
「この砂、明日も使う?」
「「明日の雨」を先取りしない。――「今日の雨」で使うだけ」
結月の言い方はいつも短い。
夕方、留保掲示板の前に、緑色のレインコートの子が立った。
「「破られたときの三行」、学校にも欲しい」
「持っていって。角、丸いままにしてね」
有里杏が束から二枚抜いて渡すと、子は頷き、傘の先を下げて走った。走らないで早歩きで。
「「学内KPI=怒ってない顔」」
幸博が冗談を言い、結月が「紙で測る」とだけ返す。
夜。雨は糸の太さを変えながら降り続く。〈ミッドナイトアゲート〉のカウンターには、温いレモン水と塩が置かれ、瑪瑙の層が雨音をゆっくり吸っていた。
「今日の三行、置く」
歩はノートに書く。
① 留保は「優しさの階段」――ゼロに戻す前に段で戻る/② 雨の五歩で「耳の余白」を守る/③ 「笑顔を強制しない」は、信頼の防水。
結月が小さく付け足す。〈※耳=震えず〉。マスターは目尻を細め、「犬耳の脚注、今日は濡れずに済んだ」と笑った。
店を出ると、提灯は本気の橙を灯し、紺帯+白縁が雨粒を弾く。留保掲示板の角は、丸いまま光っている。
明日が晴れでも雨でも、階段はもう置かれた。
合図は、ここにある。
面倒は、今日も分割できた。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




