第26話 留保条件という優しさ。
会議室の空調は、紫瑠璃通りの夕風よりも冷たかった。歩は角を丸く切った資料束を三色に分け、机の中央に置く。紺は〈事実〉、白は〈ために〉、薄い灰は〈どう〉。結月は保冷バッグを軽く叩き、「塩、先」とだけ告げる。薄い塩キャラメルを一欠片、皿に三つ。合図は静かで、強い。
濡れ色のスーツの渉外担当の女性が、一礼して口を開いた。
「本日は三回目の協議。――先に、事業者側の「条件付き譲歩」を提示します」
設計、法務、営業。それぞれのファイルが同時に開き、テーブルの上で光が跳ねる。
「提灯の列と〈写真スポット〉の「避難島」を、試行として三か月残置。ただし――騒音、滞留、事故の指標が一定を超えた場合、即時撤去に戻す」
営業の男が言葉の角を立てかけて、渉外の女性が軽く視線で削る。
「「試行は可、ただし撤去は早い」。――そういう内容です」
歩は頷き、資料の紺色の束を上にして、三行から始めた。
黒板には、事実「指標=dB、人流滞留、救急通過時間」と三行が並んだ。
「「留保条件」?」と法務。
「はい。「撤去の留保」じゃなく、「合意の留保」です。――数字を満たし続ける限り、試行は「恒久化の前段」に格上げされる。さらに、破ったときの戻し方を、先に紙で置く」
結月が可搬の卓から角丸のカードを出す。〈破られたときの三行〉。
① 三拍で止める/② 事実→気持ち→提案を紙に置く/③ 十呼吸→合図で再開。
室内の空気が、ほんの少しだけ温度を上げた。
歩は薄い灰の束を重ね、〈KPIと監査〉の頁を開いた。
「数は、通りにもう付いています」
亜柊が人流カウンタとdB計のログを差し出す。
「「静かな帯」の前後で平均−8dB、滞留−19%、車椅子の旋回時間−11秒。「救急通過」は十五秒。――それに、犬の耳」
「犬の…………」と設計が眉を上げる。
「伏せない、が基準。――『人に優しい』を、犬の耳で測る」
笑いが起きかけ、起きない。法務の口角が少し動いた。笑おうとして、やめた顔。強制されない笑いは、部屋の空気を壊さない。
「監査は、月次で公開。誰でも読める「紙」で。HPも可ですけれど、紙が本気」
有里杏が淡々と続ける。角丸のテンプレートには、公開の順番が印刷されている。〈①事実(数字・図)②ために(短文)③どう(次の一歩)〉。
「「撤去のトリガー」は?」と営業。
「「削る」ではなく「戻す」。――KPIが二か月連続で悪化したときは、「運用の再調整」を先に。その間、十五分ワークショップを週一回へ増やす。三か月連続で悪化したとき、初めて「縮小」の検討に入る」
「「検討」は曖昧だ」と法務が受ける。
「曖昧を紙で狭めます。――「縮小」のレベルも段階化。〈提灯間引き→時間短縮→島の再配置〉の順にしか触れない」
渉外の女性が、資料の角を指で撫でた。
「「留保」に「優しさ」を感じます」
「破った相手を、すぐにゼロにしない。戻る階段を、先に置く」
結月は短く言い、塩レモン水を半分だけコップに注いだ。「合図、どうぞ」
「もう一つ。――「恒久化の留保」」
歩は白の束をめくる。
「三か月の試行でKPIが基準を満たし、「破られたときの三行」が運用され、「苦情対応」の記録が「返言フロー」に沿っていること。――この三点が揃ったら、「残置恒久化」を自動で議題に上げる」
営業が反射的に言う。「自動は困る」
「「上げる」だけです。――決める前に、もう一度十五分をやる。歩く会議です」
設計が「歩く会議」と小さく復唱し、テーブルの端に置かれた透明の立て看板に視線を落とす。〈五歩テスト〉の丸い矢印。
「会議室の床でも、五歩は測れる」
亜柊が冗談めかし、るりが扉の向こうで尻尾を一度だけ「とん」。
「事業者側の「留保」は、迅速撤去の権利。――住民側の「留保」は、「戻る階段」と「恒久化の議題化」。」
有里杏が要約する。短く、逃げない。
法務がペン先を止め、渉外の女性を見た。
「…………どう思う?」
「「試行」が「処罰待ち」ではなく、「合意の練習」になる。――悪くない」
「「練習」にコストがかかる」営業が噛む。
「「事故」より軽い」
結月は皿の塩キャラメルをひとかけ、営業の席に滑らせる。「十呼吸」
彼は数えて、噛んだ。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を示し、甘さが「次の言葉」をやわらげる。
テーブルの上で、紙が整列する。
相互留保条項(案)/第1条:KPI(dB・滞留・救急・五歩)と月次公開/第2条:「破られたときの三行」の常設と訓練/第3条:二か月悪化→運用再調整/三か月悪化→段階的縮小検討/第4条:三か月良好→恒久化の自動議題化/第5条:協賛は「口を出さない」/返言フローで提案歓迎。
角は丸く、でも弱くない。法務の指が、紙の丸い角を一度確かめてから印を押す。営業も続く。設計は胸ポケットから古いシャープペンを出し、裏に小さく書いた――〈「歩く会議」〉。
サインは、笑顔の写真にはならなかった。誰も笑っていない。けれど、怒ってもいない。
歩はわずかに頭を下げ、渉外の女性と視線を合わせた。
「「今日の勝ち負け」ではなく、「明日の続け方」にサインしました」
「続け方が上手い街は、強い」
女性は短く返し、握手を差し出した。手は温い、けれど汗ばみも少し。小さな握手だが、遠くへ届く。
〈ミッドナイトアゲート〉に戻ると、瑪瑙の層が会議室の冷気を吸って、ゆっくり温度を取り戻した。マスターは温いレモン水と塩を置き、るりが足元で「とん」。
「留保条件、うまくいきそうか」
「「戻る階段」を先に置けた。――落ちても、登り直せる」
歩が答え、結月はノートに三行を置く。
① 試行は「処罰待ち」じゃない――「合意の練習」/② KPIと監査=通りの体温計/③ 戻る階段を先に――留保は優しさ。
有里杏が小さく付け足す。〈※「犬の耳」=基準〉。マスターは目尻を細め、「犬耳の脚注、今日も健在だな」と笑った。
黒板の隅に、歩は明日の段取りを小さく追記した。
「留保条項」の掲示版を角丸で/「破られたときの三行」を写真スポット右下へ/十五分ワークショップ→「留保版」の運用訓練。
角は丸い。だが、弱くはない。
会議室で交わした堅い紙は、明日の通りで柔らかく歩き始める。
留保条件という優しさは、約束を「折れない」ようにする道具だ。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




