第24話 雨上がりの仲直り散歩。
夕方の光がゆっくり紺に寄って、紫瑠璃通りの提灯がまだ眠たそうに曖昧な橙をしていた。歩は黒板を通りの端に立て、太い字で〈本日:夕暮れ十五分ワークショップ〉と書く。角を白で丸くなぞり、下に小さく添えた。〈止まる三拍/通ります二拍/「声のベル」優先〉。
「順番、守る」
結月は短く言い、紺の帯に白の縁を一本足す。足元では看板犬見習いのるりが、とん、と尻尾を鳴らした。
準備は四隊に分かれていた。〈合図隊〉は拍子木と「声のベル」、〈誘導隊〉は角丸の矢印パネル、〈見守り隊〉はベビーカー・車椅子の試走、〈記録隊〉は人流カウンタとdB計。宜幸は透明の立て看板を二基運び、幸博は派手を封印した「今日の三行」を貼る。
① 五歩で測る/② 破られたときの三行/③ 面倒は分割(十五分)。
「「拠点は灯りを持ち運ぶ」、準備できてる?」
「可搬版、完成」
結月が保冷バッグの横に小さな折りたたみ卓を置く。塩一粒、薄いレモン水、真鍮の鈴、角丸の紙束――〈ミッドナイトアゲート〉の「夜のレシピ」が路上に移植された。
十七時四十五分。透が「薄い曲」を二小節だけ撫でて落とす。空気の角が丸くなり、人の肩の高さが揃う。ブティック店主は〈紺帯+白縁〉のひもを提灯の根本に回し、乾物屋の主人は昆布桶の蓋を軽く押さえた。
「来客」
有里杏が目線で示す。濡れ色のスーツの渉外担当の女性、その後ろに「社内観察」の名札を下げた三人。設計、法務、広報。
「見るだけ、で?」
「見るだけ。でも、歩く」
渉外の女性は歩きやすい靴を示して笑う。笑いは薄く、角がない。
十八時ちょうど。拍子木が三拍。
「――止まります」
流れがすっと沈んで、母親がベビーカーを止め、高校生はスマホを胸に下げ、パン屋の夫はトングを上げる。二拍。
「通ります」
写真スポット脇の「避難島」を回して、人の線が細く流れる。記録隊のカウンタが小刻みに鳴り、dB計の表示が八つ分だけ落ちた。
「一歩」
亜柊の声に合わせて、るりが耳を立てる。伏せない。二歩、三歩。車椅子が「縁台脚三センチ内」を回り、四歩で台車が通る。車輪が一度高く鳴り、結月がすぐにゴムの帯を巻いた。五歩――犬の耳はそのまま。
「救急、通過!」
合図隊が赤い布を巻いた台車を「救急車役」に見立て、三拍。列がぴたりと止まり、二拍で斜めの道筋が開く。透の「薄い曲」は止まり、拍子木だけが細い橋になる。
「十五秒、通過」
有里杏が時計を指で叩き、歩は黒板の余白に〈救急→15s〉と記す。社内観察の設計担当が小さく「見える」と言い、法務が「破られたときの三行」を手元でめくった。
通りの向こうから、男子高校生の自転車が早めの速度で滑り込んだ。
「二拍!」
拍子木の響きが低く二度。前輪が線の手前で止まり、高校生は反射的に足を着く。
「ごめん、急いでて」
「わかる。――「声のベル」、先」
歩が短く返すと、結月は可搬の卓から角丸の紙を一枚取り、二行だけ書いて渡した。
黒板には、事実「いま「静かな帯」」と三行が並んだ。
高校生は読み、頷く。「次、拍子木、叩いてみていい?」
「次の二拍、君」
拍子木が手渡され、若い手の角が少し削れた。
七分経過。パン屋の試食台で人が丸くふくらむ。
「詰まり」
亜柊が指差す先、棚の向きを変えた影が小さな段差を生み、ベビーカーの車輪が引っかかった。
「「破られたときの三行」」
歩は黒板に素早く書く。
① 三拍で止める/② 事実→気持ち→提案(棚の向きを元に/段差に白縁を)/③ 十呼吸→合図で再開。
十まで数えるあいだに、宜幸が棚を半歩内へ、有里杏が白の縁取りテープを貼る。母親が息を整え、ベビーカーはすっと抜けた。
九分。渉外の女性が社内観察の三人に何か短く囁き、設計がうなずく。
「「避難島」の位置、ここで合ってる」
「「二拍」が、図面に載る」
声は小さいが、意味は大きい。広報のひとりは「笑顔を強制しない写真」を二枚だけ撮り、カメラを下ろした。
十一分。突然、屋台のひとつが「ちょっとだけ」通り側に張り出した。香りが強く出て、人の帯がテンポを乱す。
「三拍」
合図隊が一度止め、結月が「すれ違いスイート」を皿に一欠片。十呼吸。歩は屋台主に角丸の紙を渡す。
黒板には、事実「張り出し二十センチ/通行帯が細く」、気持ち「香りで呼びたい」と三行が並んだ。
屋台主は一瞬顔をしかめ、すぐに角度を変えた。香りは通りの内へ流れ、帯はほどける。
「二拍――再開」
拍子木が響き、透の「薄い曲」が一拍だけ戻る。
十五分、終了。拍子木が三拍、そして静か。るりの尻尾が、とん、とん。
「集計」
記録隊が数字を読み上げる。
「平均dB、開始前比−7。8」「滞留、−19%」「旋回時間、−11秒」「救急通過15秒」
「「耳」」
結月がるりを見る。耳は最後まで伏せなかった。
社内観察の法務が小さく言う。「「条文三行/現場五歩」の「歩」に数字がついた」
後片づけをしながら、歩は黒板の隅に〈可搬拠点=有効〉と書き、下に項目を足す。
塩一粒=止まる合図/鈴=読み書きの切替/角丸紙=言葉の安全/薄い曲=余白。
「「場所を変えても同じやり方」が、安心」
母親が言い、ブティック店主は紺帯の端を撫でた。「縁取りが「場の記憶」になるのよ」
終わりのあいさつの前に、結月が皿を中央へ寄せた。
「合図――「勝ち」じゃなく「続ける」」
十呼吸。全員がひとかけらずつ舌にのせ、苦味で輪郭を、塩で「ここで止まる」を、甘さで「またやる」を受け取る。渉外の女性が名札の紐を握り直し、短く言った。
「社内でも「十五分」をやります。――「嫌がられる資料」の代わりに、「歩ける資料」」
歩は深く頭を下げた。
〈ミッドナイトアゲート〉に戻ると、瑪瑙の層が今日の数字の重みをゆっくり吸い、カウンターに温いレモン水と塩が置かれた。
「今日の三行」
歩はノートに置く。
① 十五分=面倒を分割する単位/② 「破られたときの三行」で戻る/③ 拠点は灯りを持ち運ぶ。
結月が小さく付け足す。〈※耳=基準〉。マスターは目尻を細め、「犬耳の脚注、三日連続だな」と笑った。
店を出ると、提灯は本気の橙になっていた。紺帯+白縁の下を、今日も五歩で測れる。
線は、もう描いたものではなく、歩くものになっている。
合図は、もう「教え」ではなく、「思い出し方」になっている。
そして夜は、甘さで明日へ続く。




