第23話 一皿で人は動く。
朝いちばん、紫瑠璃通りの空気は紙の匂いで少し甘かった。〈ミッドナイトアゲート〉の二階に広げられた長机の上には、角を丸く切ったA4が三色に分かれて並ぶ。紺は〈事実〉、白は〈ために〉、薄い灰は〈どう〉。歩は黒板の上段に、太い字で見出しを書いた。〈社内質問への三行回答〉。
「順番は揃えた?」
結月が保冷バッグを軽く叩く。塩は合図、甘さは約束。会議の前に舌を整えるため、薄い塩キャラメルが三欠片だけ皿に載っている。
「揃えた。――数字、図、五歩」
歩は頷き、資料の束を三つに割った。法務向け、現場向け、広報向け。紙の角はどれも丸いが、甘やかではない。
有里杏が手早く封筒に収め、表に小さくスタンプを押す。〈「でも」の前に一晩 済〉。亜柊は人流カウンタとdB計のログをチェックし、五分刻みの数字に色鉛筆で細い帯を引いた。
「「静かな帯」の前後、平均−8dB。車椅子の旋回時間、導線見直し後は−12秒」
「数字は強い。――けれど、見た人が歩ける図にする」
歩が地図の余白へ矢印を足す。〈止まる三拍/通ります二拍〉の記号は、角丸で読みやすい。
幸博は派手を封印した一枚見出しに三行だけ置いた。
① 条文は「ために」で歩く/② 五歩で測ると、人が映る/③ 面倒は続く――続けるのが防衛。
宜幸は透明の立て看板サイズに縮刷し、クリップで留めた。「会議室の壁にも「通り」を持ち込む」
出発の前に、結月が皿を中央へそっと寄せた。
「合図」
十呼吸。全員の視線が塩キャラメルに落ち、ひとかけを舌にのせる。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが会議室まで続く約束になる。るりが足元でとん、と尻尾を鳴らし、透は蛇腹に空気だけを通してからケースの留め具を閉じた。
――開発会社・会議室。
白いテーブル。冷えた空調。窓の外に広がるグレーの街。濡れ色のスーツの渉外担当の女性が同席し、法務、設計、営業の名札が三つずつ並んでいる。
「本日は「社内質問」へのご回答を」
歩は最初の一礼を置き、封筒を机の中央に出す前に、短く言葉を乗せた。
「ありがとうございます――「質問」は街の筋肉です」
わずかなざわめき。営業のひとりがペン先を回し、法務のひとりは目線だけで時計を探す。歩は黒板代わりの角丸パネルを立て、順番通りに始めた。
事実「初期=残置部の耐震・防火小改修(見積X)/維持=清掃・点検(見積Y)」と三行が並んだ。
「「管理委」?」と設計。
「〈夜の連携拠点管理委〉。――「指示権なし」の協賛を受け、「返言フロー」で提案だけを受ける」
有里杏がテンプレートを一枚差し出す。〈協賛=使途限定/指示権なし/質問歓迎〉。紙の角は丸い。
Q2:避難動線の「証拠」は何か(数字・図)。
歩は即座に差替え、帯グラフと地図を並べた。
黒板には、事実「人流/五分平均=静帯前後で−18%の滞留低下/旋回時間−12秒」と三行が並んだ。
営業が眉を上げる。「「訓練」は集まらない」
「甘さで集める」
結月の短い言葉に、室内の空気が一度止まった。
「「電気のない約束」――塩レモン水と「すれ違いスイート」。十五分だけ、毎回同じやり方で」
渉外の女性が小さく頷き、法務のひとりがメモに「月一・十五分・公開」とだけ書いた。
Q3:代替空地(広場)の管理者は誰になるか。
黒板には、事実「案Cで「夜の拠点」を残置→「避難島」兼「調停所」」と三行が並んだ。
設計が口を開く。「「規約」は破られる」
「破られる前提で、「合図」と「復帰」を書きます」
歩は二枚目を重ねた。〈破られたときの三行〉――〈①三拍で止める/②事実→気持ち→提案を紙に置く/③十呼吸→合図で再開〉。
営業が鼻で笑いかけて、やめた。笑わないで、見た。見た人は、少しだけこちら側に来る。
「「笑顔を強制しない写真」は、広報に効くの?」
広報席から飛んだ問いに、幸博が立つ。
「効きます。「安心」は、笑っていない顔の横に置くと信頼になります。――『やらせ』の角が削れます」
ブティック店主の作った見本を掲げる。紺帯+白縁、角丸の余白。そこに立つ人々は笑っておらず、それでも写真は温い。
「「温い」を保証できる?」
「五歩で保証します」
亜柊が短く言い、計測ログの横に〈犬の耳=伏せない〉の丸印を足した。室内に小さな笑いが生まれ、すぐ収まる。笑いが「やらせ」ではないほうの温度を残す。
法務のひとりが資料を閉じ、意地悪ではない角度で問う。
「「優先」は面倒だ。現場は疲れる。――続くのか」
歩は一度だけ息を整え、三行で返した。
黒板には、事実「面倒は増える/事故は減る」と三行が並んだ。
沈黙。渉外の女性が静かに言う。「「面倒は続く」――外で好かれる言い回しです」
営業のひとりが椅子を引き、透明の立て看板を指さした。「これ、会議室の通路に置いていいか」
「どうぞ。五歩、試してください」
会議室に「通り」が置かれた瞬間、空間が少しだけ柔らかくなった。
質疑がひととおり終わったタイミングで、結月が保冷バッグから小さな紙皿を出した。
「合図――「休戦」じゃなく「再開」」
「社内で食べ物は…………」と法務が言いかけて、渉外の女性が目で止める。
「ひとかけ。十呼吸」
十まで数える間、誰も言わなかった。塩が先、甘さはあと。口の中で仕事が整理される。
最後に法務のひとりが、淡々とまとめた。
「――「嫌がられる資料」だ。しかし、外では好かれる。社内で嫌がられる理由は、逃げ道が少ないからだ。…………上に上げる。まずは「破られたときの三行」ごと」
歩は深く頭を下げた。
帰り道、紺の空気の中で、結月が短く言う。
「「ために」、通った」
「「どうやって」も、通り始めた」
歩は黒板に今日の三行を置く。
① 質問は筋肉――使って強く/② 面倒は分割――十五分×反復/③ 「破られたときの三行」を先に。
るりが尻尾でとん、と鳴らし、透は蛇腹に息を入れて「薄い曲」を一拍だけ置く。音はすぐ止まり、それが合図になった。
夜、〈ミッドナイトアゲート〉。瑪瑙の層が今日の文字をゆっくり吸い、カウンターには温いレモン水と塩が並ぶ。
「会議室に「通り」を持ち込む、か」
マスターが目尻を細める。
「通りは、わたしたちの論法だから」
歩が返し、結月はノートに短く追記した。
※「通路で考える」=止まる→譲る→通す。
「明日は?」
「「質問の壁」の返答を、現場の図に戻す。――『感謝→質問→合図→再開』の順番で貼る」
「順番、守る」
結月の声は低く、強い。角は丸い。だが、弱くはない。
店を出ると、提灯の橙が会議室よりも低い位置で揺れていた。紺帯+白縁の通りは、今日も五歩で測れる。
「ために」を真ん中に置けば、資料は歩き出す。
「破られたときの三行」が先にあれば、約束は折れない。
塩は先。甘さは、続ける力になる。




