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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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22/40

第22話 境界のラインを引き直す。

 朝いちばんの風は少し冷たく、紫瑠璃通りの紺の帯に、夜の名残が細く残っていた。歩が黒板を出そうとしたとき、反射ベストの亜柊あしゅが駆け込んでくる。頬に「現場熱」をのせた目は、もう状況を言っていた。


 「仮囲い、出てる。線、二十センチ」


 「二十…………」


 歩は黒板を置き、結月の方を見る。結月は頷き、保冷バッグの口をきゅっと締めた。塩は合図、甘さは約束。――今日は塩の出番が多そうだ。


 工事現場の角。グレーの仮囲いが路地に張り出し、「静かな帯」の幅が握りこぶし二つぶんやせて見える。現場監督が腕組みで待っていた。


 「安全のためだ。通れないわけじゃない」


 「「安全」のための「危険」が生まれてます」


 亜柊は言い返さない。メジャーを腰から引き出し、地面の白い十字印――以前、区の測点を確認したとき薄く写しておいた基準――にフックをかける。


 「基準から、二一〇ミリ。――出てる」


 監督の眉が歪む。「誤差だ」


 「誤差なら、「立会い」で誤差にしましょう」


 歩は静かに言い、電話を鳴らす。三十分後、自治会に顔が利く測量士OBと、区の道路管理課の技術員が現れた。第三者立会い。笑顔はないが、空気の汗が少し引く。


 「まず、事実」


 歩は黒板を胸の高さに掲げ、太字で三行。


 黒板には、事実「線は一時の点線/占用許可は申請中」、気持ち「不安/邪魔」、提案「五歩テストの間だけ一時誘導/終わったら消す」と三行が並んだ。


 亜柊が指で二拍の合図を打つと、通行の流れがすうっと細くなり、腕組みの男は足を止めた。


 「…………見てる間だけ、なら」


 「ありがとうございます。終わったら一緒に消しましょう」


 結月が差し出した濡れ布の角は、最初から丸かった。


 午後になると雨脚が強まり、路面の点線は薄れていく。幸博ゆきひろは「今日の三行」を貼り替えた。


 ① 雨の五歩=耳の余白/② 「戻る階段」は先に置く/③ 笑顔は強制しない。


 ブティック店主は紺帯の端を縫い直し、乾物屋の主人は滑り止め砂の残量を指で測る。「昆布指数、1。8」。るりは耳を上に向けたまま、尻尾で「とん・とん」。


 通りが「竹やぶ」みたいな傘で埋まると、歩は黒板の下段に新しい枠を引いた。


 歩はチョークで『雨の五歩』を書き出した。一歩は傘の先が目線を刺さない。二歩は水溜まりで子の靴が沈まない。三歩は車椅子が「濡れ段差」で滑らない。四歩は台車の車輪が音を立てすぎない。五歩は犬の耳が震えない。


 「「震えない」、耳」


 幸博が笑い、るりが「とん」で返す。亜柊は返却箱を増設して〈傘の図書館〉を臨時開館し、宜幸よしゆきは〈通路やや細い〉の角丸パネルを手前に立てた。母親はベビーカーを押しながら、白い札に〈気持ち:楽〉と丸で囲む。


 昼前、渉外担当の女性が雨靴で現れ、角丸のメモを掲げた。


 「掲示中の「運用案」、拝見します」


 歩は傘の先を下げ、目線より下に保つよう示しながら案内する。一歩――傘先を下げる。二歩――水溜まりの手前で砂を薄く撒く。三歩――濡れ段差を布で覆って一時の緩衝。四歩――車輪の音に合わせて人の流れを細く。五歩――犬の耳が震えない。


 〈留保掲示板〉には三行の「試案」が並んだ。


 ① KPI=dB・滞留・救急・五歩/月次公開/② 「破られたときの三行」常設/③ 二か月悪化→運用再調整/三か月悪化→段階的縮小検討/三か月良好→恒久化「議題化」


 「「処罰待ち」じゃないのが、顔つきに出る」


 ブティック店主が白の縁をなぞる。怒ってもいない、笑ってもいない――それが、いい。


 夜。雨は糸の太さを変えながら降り続く。〈ミッドナイトアゲート〉のカウンターには、温いレモン水と塩が置かれ、瑪瑙アゲートの層が雨音をゆっくり吸った。歩はノートを開き、今日の三行を置く。


 ① 留保は「優しさの階段」――ゼロに戻す前に段で戻る/② 雨の五歩で「耳の余白」を守る/③ 「笑顔を強制しない」は、信頼の防水。


 結月が小さく付け足す。〈※るり=震えず〉。渉外の女性は名刺の裏に小さく書き、胸にしまった。


 「社内で嫌がられる資料」は、外で好かれる資料。


 「明日、上に上げます。――「静かな帯」の根拠は、特に強い」


 「ありがとう」


 歩が頭を下げ、有里杏ゆりあんは「要望書の束」を抱え直す。角はすべて丸い。丸いが、弱くはない。扉を閉める前、結月が黒板の隅に小さく追記した。


 要望書は「甘い」ではなく「やさしい」。――塩で合図、砂糖で約束。


 「やさしいの定義、難しくない?」


 歩が笑うと、結月は短く返す。


 「「相手の選択肢を増やす」」


 その言い回しは、今日いちばん軽く、遠くまで届いた。るりが欠伸をひとつ。店じまいのあと、二人はいつもの路地へ向かう。〈ミッドナイトアゲート〉の灯は、いつもより一筋だけ高い。マスターは何も言わず、温い水と塩を一粒。


 「提出の前に、十呼吸」


 結月は胸の奥でゆっくり数え、歩もそれに合わせた。勝たずに進む。角を落としながら、形を残す。瑪瑙の層は薄い光のまま、夜の「静かな帯」を深くした。



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