第20話 盆灯り、心決め。
朝の紫瑠璃通りに、まだ乾ききらない紙の匂いが広がっていた。〈ミッドナイトアゲート〉の二階、長机の上には法令の抜粋と地図の写し、角を丸く切ったカード束。歩は深呼吸をひとつ置いて、黒板の上段に大きく書く。〈条文を三行に〉。
「今日、「固い線」を「歩ける線」に変える」
有里杏がうなずき、淡々と配る。〈道路法/消防法/建築基準法/都市計画〉の見出しが角丸で並んだ。結月は保冷バッグを軽く叩く。「塩は合図。甘さは約束。――舌が先、字は次」
「道路法、三行」
有里杏がチョークを手に取る。
① 通る人が最優先(幅=すれ違えること)/② 占用は「許す代わりに守る」/③ 段差は「なくす努力」
「消防法、三行」
亜柊が続ける。
① 逃げ道は塞がない/② 火のそばに積まない/③ 合図(拍・声)で優先。
「建築基準、三行」
歩が短く書く。
① 日と風、残す/② 非常口は「行ける」まで/③ 工作物=安全が先。
「都市計画、三行」
結月が黒板の端に足す。
① 「ために」で決める/② 区域の約束は更新できる/③ 二択にしない。
言い終えた空気に、瑪瑙の層みたいな静かな層が一枚、重なった。
「三行はわかった。――現場五歩」
歩が黒板の下段に新しい枠を描く。
現場五歩テスト/一歩:立ち止まってもぶつからない/二歩:ベビーカーと肩が触れない/三歩:車椅子が一回転できる/四歩:台車が音を立てすぎない/五歩:犬の耳が伏せない。
「五歩、るり基準入ってる」
幸博が笑うと、看板犬見習いのるりが尻尾でとん、と床を鳴らした。基準は柔らかいほど、遠くまで届く。
午前十時、通りへ降りる。宜幸が透明の立て看板を運び、ブティックの店主は〈紺帯+白縁〉の細い紐を結び直す。乾物屋の主人は昆布桶の蓋を軽く押さえ、パン屋の夫は「焼き上がりベル」の角度を変える。透は「薄い曲」を試しに二小節だけ置いて、すぐ止める。
「まず、線を見える化」
歩はチョークで路面に柔らかい点線を引き、〈静かな帯〉の時間帯の始点に小さな丸を描いた。角はすべて丸い。
「一歩」
亜柊が号令し、通りの中央で立ち止まる。通行がぶつからない。
「二歩」
母親がベビーカーを押して通る。肩は触れない。
「三歩」
乾物屋の主人が車椅子を押し、写真スポットの前でゆっくり一回転してみせる。輪は、回れた。
「四歩」
パン屋の台車が通る。金属音が一度だけ高く鳴り、透の眉がわずかに動く。
「五歩」
るりが耳を上げたまま、尻尾で「とん・とん」。伏せない。合格。
「ここ、音が立つ」
結月が台車の車輪を指差し、薄いゴムの帯を渡した。「巻く。音、薄く」
「「薄く」便利な言葉だな」
パン屋の夫が笑い、帯を巻く。台車は次に通ったとき、音を二階分ほど下げた。透は親指を立て、るりは「とん」を一回。
「法の線、通りの線、見えてきた」
歩はノートに〈段差→ゴム・時間/音→「薄く」帯〉と短く書き、地図の余白に矢印を足す。
昼前、渉外担当の女性が現れた。濡れ色のスーツ、薄いファイル。今日はハイヒールではなく、歩きやすい靴だ。
「「条文三行」を歩ける線に――拝見したくて」
「ようこそ。五歩テスト、どうぞ」
歩の言葉に、彼女はチョークの点線の上を歩く。立ち止まり、すれ違い、回り、押し、耳を見た。最後の「五歩」で、るりが彼女を見上げ、耳を伏せなかった。
「…………街の「安全条文」ですね」
「条文は堅い。歩くと、やさしくなる」
結月の言葉に、彼女は指先で口角の角をなぞるように笑った。
午後、〈写真スポット〉が「感謝の壁」に変わる。協賛の紙が貼られる前に、〈協賛の約束〉を先に貼る。
指示不可/使途限定(角丸パネル・実測機材・安全備品)/ありがとうは公開。
幸博は派手を封印した「今日の三行」を横に置く。
① 法の線=歩ける線に/② 「優先」は面倒――続ける方法/③ 五歩で測る。
「「面倒は続く」――好き」
ブティック店主が紺帯の端を引き、白の縁を光らせた。
実測班は淡々と歩いた。亜柊は人流カウンタで五分区切りの数字を刻み、有里杏はdB計を肩の高さで保つ。数字の横に、歩は丸で〈顔の角〉を記す。上がっている/落ちている。主観の隣に、数値。数値の隣に、犬の耳。
「数字は強い。――でも、ひとりで歩かせない」
歩のつぶやきに、透が頷き、「薄い曲」を一拍だけ置いて止める。止められる音は、約束にやさしい。
そんな最中、通りの端から硬い声が飛んだ。
「歩道を勝手に線引きするな!」
振り向くと、腕組みの男が二人。今日の怒りは「噂」というより「常識」の形をしていた。
「事実」
歩は黒板を胸の高さに持ち、短く書く。
事実「線は一時の点線/占用許可は申請中」と三行が並んだ。
「気持ち」
結月が丸で囲む。〈不安/邪魔〉。
「提案」
有里杏が淡々と示す。
五歩テストの間だけ一時誘導/終わったら消す。
「――で、どうする?」
亜柊が合図の二拍を打つと、通行の流れがすうっと細くなり、男は足を止めた。
「…………見てる間だけ、なら」
「ありがとうございます。終わったら一緒に消しましょう」
結月が差し出した濡れ布の角は、最初から丸かった。
夕方、五歩テストは「詰まりそうな角」に移動した。写真スポットの縁台、パン屋の試食台、傘の図書館の棚。
「ここ、回れない」
車椅子が縁台の脚に引っかかる。
「脚、三センチ内」
歩の声が落ちるより早く、宜幸が持ち上げ、乾物屋の主人が押さえ、ブティック店主が紐で結び、結月が「角、丸い?」と確認する。
「今度は回れる」
るりの耳は上を向いたまま、尻尾で「とん・とん」。五歩はまた、通った。
渉外の女性はメモを閉じ、通りを見渡した。
「条文は「なぜ」と「なにを」しか語らない。――「どうやって」は、街で決めていい」
「その「どうやって」を、紙にします」
歩は頷く。「要望書の別紙:〈条文三行/現場五歩〉」
「社内で嫌がられる資料ね」
彼女が微笑む。
「外で好かれる資料です」
有里杏の声は静かだった。
夜。線は水で消え、数字は表に移され、〈ミッドナイトアゲート〉のカウンターに薄いレモン水と塩が置かれる。
「今日の三行」
歩はノートに書いた。
① 条文は「ために」で歩く/② 五歩で測ると、人が映る/③ 面倒は続く――続けるのが防衛。
結月が横に小さく付け足す。〈※耳=大事〉。
マスターが目尻を細め、「法律に犬耳の脚注、初めて見た」と笑った。
帰り道、提灯の橙は高すぎず、低すぎず、ちょうどよかった。通りのどの角も、昼より少し丸い。るりが先を歩き、渉外の女性は靴紐を結び直して、軽く頭を下げた。
「今日の「どうやって」、持ち帰ります」
「どうぞ。――「でも」の前に一晩」
有里杏の言葉に、彼女は「はい」とだけ返した。短い返事は、長く効く。
歩は黒板の隅に、明日の予定を小さく追記する。
Week1:聞く・測る――あと一日/「感謝の壁」→「質問の壁」に。
角は丸い。だが、弱くはない。
条文三行は、歩ける線になった。現場五歩は、やさしさの長さになった。
明日も、五歩。――通りは、まだ歩ける。




