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第2話 五百円の正義。

 翌朝、紫瑠璃通りに雲が薄くかかって、看板のチョークの白が少し湿っていた。扉を開ける前から、歩のスマホは振動しっぱなしだった。

  「「たった五百円で人生まるごと解決!」…………って、誰が書いたんだ、これ」

  画面には、昨夜遅くに幸博が上げた宣伝画像。金色のフォントで「人生」と「まるごと」が踊っている。コメント欄には、笑い、皮肉、警戒のスタンプが並び、最後に「安すぎて逆に怖い」の文字が続いていた。

  「「五百円で夫婦喧嘩も借金も税務も丸投げOK!」…………」

  歩が額を押さえる。奥で結月が、湯をわかしながら短く言った。

  「丸投げは、捨てる動作」

  「だよね…………」

  十時を前に、自治会のグループチャットに「集会所で説明を」とメッセージが流れた。矢のような既読が並ぶ。

  「行こう」

  歩は黒板をいったん店内に戻し、プリントを数枚、鞄に差し込んだ。〈相談でお渡しするもの〉と書かれた簡単な説明書き。内容は、状況整理シート・当面の選択肢の叩き台・「明日やること」のメモ――それだけだ。

  商店街集会所は、古い折りたたみ椅子がぎっしり並び、電球が少し震えていた。前列の端に幸博が座っていた。白い歯が、いつもの二割減でこわばっている。

  「…………ごめん、盛りすぎた」

  「盛り塩くらいでよかったのに、祝いの鏡割りまでいっちゃったね」

  歩が小声で返すと、幸博は視線を落とす。

  「じゃあ、始めます」

  壇上に立ったのは有里杏だった。腕時計をちらりと見て、「時間は有限ですから」と前置きした。

  「料金が五百円なのは事実です。安いからと言って手を抜くことはありません。嫌なら――」

  最前列の商店主が顔をしかめ、椅子がぎし、と鳴った。

  「「嫌なら来るな」ってことかい?」

  空気が、火打石の乾いた音を立てた。

  有里杏は、あっ、という顔で言葉を継ぎ足す。

  「ちがう、ちがいます。嫌なら…………その、千円に上げます」

  笑いが起きる前に、ざわめきが立った。千円の問題じゃない――誰もがそう思っている。

  歩はマイクを受け取り、息を整えた。

  「すみません。まず、広報の表現で誤解を招きました。『人生まるごと』など、できない約束を書いてしまった。撤回します。そして、今から三つの順番で話します。価値、安心、試してみる方法――この順です」

  黒板に、歩は丸を三つ描いた。

  「一つめ、価値。五百円で何をするか。僕らは「問題解決」を請け負うのではなく、「話せる場を整える」ことを売っています。来た方の話を丁寧に聴いて、事実と感情を並べ替え、今日・明日の一歩を一緒に決める。その一歩に、責任を持つ。ここまでが五百円の範囲です」

  後ろの席で、ため息が一つ、ほどけた気がした。

  「二つめ、安心。『安い=怪しい』になるのは、説明が足りないからです。だから今日から、満足いただけなければ無条件で返金します。返金は、こちらの「聴けなかった責任」だと考えるからです」

  「そして三つめ、試してみる方法。初回は三十分。もし「続き」が必要なら、時間単位で追加のご相談をお受けします。追加を押し売りはしません。五百円は、「最初の一歩の値段」。ここから先に踏み出すかどうかは、あなたが決めてください」

  前列の女性が手を上げた。花屋の女将だ。

  「五百円で、昨日みたいに旗の位置の話、聞いてくれるの?」

  「聞きます。昨日は、初回ヒアリングと「試す案」の提示まで。結果として、通りが少し歩きやすくなった。あれも「最初の一歩」でした」

  女将は小さく頷く。

  「じゃ、その続きも――必要なら払うよ」

  今度は、たい焼き屋の若旦那が手を挙げた。

  「返金って、本当にするのか?」

  「はい。『今日は話せる気分じゃなかった』でも構いません。僕らが受け止めきれなかった日です」

  若旦那は唇をとがらせ、すぐに笑って肩をすくめた。

  幸博がそっと立ち上がった。

  「広報の幸博です。昨日の「まるごと解決」は、僕の過ち。やる気が先走りました。今日から、できることだけ書きます。「できない約束は書かない」。紙一枚に、短く、読みやすく」

  彼は用意してきた新しいチラシを配った。白地に黒だけの文字。〈ワンコイン接待――最初の一歩を一緒に。〉。

  文字を追う人々の視線が、ゆっくりと落ち着いていく。

  後方で腕を組んでいた有里杏が、歩に目だけで合図を送る。

  「さっきのは、悪かった」

  口に出すかわりに、彼女は席を立ち、黒板の端に「運用」と書いた。

  「返金フローは私が作る。誰が、いつ、どう返すか。混乱しないように。あと、記録テンプレも。『事実/気持ち/今やること』三段にする」

  「嫌なら千円に上げます」の本人が、迷いなく段取りを組み始めるのを見て、前列の商店主がふっと笑った。

  「仕事はできるのね」

  「仕事しかできません」

  有里杏の返しに、いくつかの笑いが重なった。

  結月はいつの間にか入口に立ち、小さな紙皿を配っていた。乾いた空気に、砂糖の焼ける匂いが混ざる。

  「説明の間、口、寂しいでしょ」

  皿には、薄く焼いたリンゴのチップがのっている。噛むと、静かな甘みが広がった。

  「甘いと、人の心が話す準備を始める」

  そう付け足して、結月はまた黙る。彼女の言葉は相変わらず短いが、皿の枚数だけが雄弁だった。

  「他に、心配はありますか」

  歩が尋ねると、後ろのほうで若い声が上がった。

  「五百円が「価値を下げる」って意見、どう思います?」

  歩は黒板にもう一つ、四角形を描いた。

「「値段=価値」に見えがちです。でも、僕らの目的は「話せる人が増えること」。だから、入口は低く。中に入ってみて『これは自分に合う』と感じたら、その先の支え方を一緒に選べばいい。五百円は、「街の会話を再開するための鍵代」。鍵穴に合うか確かめる段階なんです」

  静けさが、部屋を一周した。

  最前列の老舗乾物店の主人が、立ち上がって咳払いをした。

  「わしはね、値段より、誰がやるかを見る。昨日、旗の件であんたらが汗をかいとった。そういうのは、信用に足る」

  「ありがとうございます」

  歩が頭を下げると、後方でぱち、と小さな拍手が起きた。ひとり分の音だったが、続けざまにふたり、三人と重なった。やがて、部屋全体に綿のような拍手が広がった。

  会の終わり、出入口でチラシを受け取った人たちが口々に「試してみるよ」「返金、要らないように頑張って」と笑い、外へ出ていく。

  幸博は深く息を吐いて、背中を反らせた。

  「いやー、死ぬかと思った」

  「死なない。甘いの食べたから」

  結月がリンゴチップの袋を指で折る。

  「反省会、やる?」

  「やる。まずは、言葉の棚卸しから」

  歩は、黒板の「できることだけ書く」の部分を、もう一度太くなぞった。

  店へ戻る道すがら、通りの端で昨日の観葉植物が風に揺れていた。タグに、誰かが書き加えている。「名前:ゴジュウオ」。

  「…………五十男?」

  「五百の「お」。読みは自由」

  結月が素っ気なく言って、歩の先を行く。

  「じゃあ、今日は「ごじゅうお記念日」で」

  「名前、長い」

  ふたりの言葉が、看板の白い粉に吸い込まれていった。

  店に着くと、宜幸が段ボールを抱えて待っていた。

  「新しい「写真スポット」の差し替え用フレーム! 「最初の一歩」って入れといた」

  「派手?」

  「控えめに派手」

  結月がフレームの角を撫で、歩は笑った。

  「じゃあ、看板も書き換えよう。〈ワンコイン接待――最初の一歩を一緒に〉」

  チョークが黒板の上を走る音。白が一段、やわらかくなる。通りの風が、少し甘く吹き抜けた気がした。

  夕方、最初の来客が扉を押し、真鍮のベルが鳴った。

  「五百円で、話を聞いてほしいんだけど」

  歩はゆっくり立ち上がり、相手の目をまっすぐ見た。

  「ようこそ。ここは、「最初の一歩」のための場所です」

  テーブルに、白い紙とペン、温かい紙コップ。

  話せば案外うまくいく――昨日よりも、少しだけ強い確信を胸に、歩は紙に三つの丸を描いた。


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