第19話 うわさは甘く、噂は苦い。
連休の朝、紫瑠璃通りは、光の粒より先に言葉の粒で満ちていた。風に乗ってくるのは、粉砂糖みたいに細かいのに、舌の上ではざらつく類のもの――「相談所は寄附で私腹を肥やすらしい」「〈ミッドナイトアゲート〉は裏で業者と繋がっている」「「静かな帯」は「規制」の言い換え」…………。黒板を出した歩は、書く前に一度、チョークの角を指先で丸めた。
「うわさは甘く、噂は苦い」
結月が短く言う。保冷バッグを持ち上げると、角を丸く切った小さな紙袋がぎっしり詰まっている。
「今日は「甘さで呼び込み、塩で止める」。――「ただし書き」を添える」
幸博は、派手を封印したはずの紙束を胸に抱え、それでも少し誇らしげだった。
「三行ファクト、百枚ずつ。『今日の三行』――「繰り返すことで効くやつ」」
歩は黒板の上段に、角丸の枠を描いた。
今日の三行/① 「静かな帯」=みんなが居やすい時間の約束/② 寄附=使途限定/「口は出さない」誓約つき/③ 話す順番=事実→気持ち→提案。
その下に、結月が細字で小さく添える。
ただし書き:※「静かな帯」は禁止ではありません。声のベルが優先される「譲り合いの時間」です。
「「ただし書き」、小さいけど強い」
「塩、みたいなもん」
結月の言い方はいつも塩梅がいい。
午前十時、三人は通りの角に立った。透明の立て看板は〈甘いファクトの配布所〉と名を変え、紺の帯と白の縁がその場の縁取りになる。看板犬見習いのるりは足もとで丸くなり、尻尾で床をとん、と鳴らす。
「「ワンコイン接待」特別号、無料。――クッキーは一口、ファクトは三行」
幸博の声に、最初に近づいたのは高校生のグループだった。
「「静かな帯」ってさ、結局「うるさいの禁止」でしょ?」
歩は黒板の前に回り、チョークで短く。
禁止× 優先○。
「禁止の言葉は短いけど、街を痩せさせる。優先の約束は手間がかかるけど、街を太らせる」
「太らせる…………筋肉の話?」
「呼吸の話」
結月が紙袋から角丸クッキーをひとつ差し出す。「塩レモン。――先に塩、次に甘さ」
高校生はそれを噛んで、少し笑った。「うま」
笑いの角が落ちると、三行は喉を通りやすい。
昼前、別の「塊」が来た。ひとりは腕を組んだまま、視線だけを投げる。
「寄附って、結局「口出し権」の買い物でしょう」
有里杏がいつの間にか後ろに立ち、カードを一枚差し出した。
協賛の約束/指示権なし/使途限定(角丸パネル・実測機材・安全備品)/「ありがとう」の場は公開。
「「でも」の前に一晩、って書いてあるのは?」
「感情の熱が下がるのを待って、紙に置く。――『でも』より先に『ありがとう』」
歩が短く言うと、腕組みの男は鼻を鳴らし、クッキーの袋をひとつ取った。「甘いもんは嫌いじゃない」
「塩、利いてます」
結月の声は相変わらず短い。短い声が、長く効く。
正午、通りの端で声が跳ねた。
「裏で手を組んでるって、聞いたぞ!」
声は硬く、こちらの角に突き刺さろうとする。幸博が一歩出かけて――結月に袖をつままれた。
「合図」
「すれ違いスイート」。皿の上に、薄い塩キャラメルが一欠片。十呼吸。歩はその場で息を十まで数え、視線を皿に落とした。
「…………まず、事実」
歩は黒板に書く。
事実「寄附の使途公開/「口出し不可」誓約/会計は月次で掲示」と三行が並んだ。
その下に、〈気持ち:不安・疑い〉と自分で書き、マーカーを置いた。
「不安は、大事。――次に提案、ありますか」
男は口を開きかけ、閉じ、結局「会計、見に来る」とだけ言った。その声は、さっきより角が落ちていた。
「一口」
結月がキャラメルを男の手のひらにのせる。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示し、甘さが「また話そう」を残す。
午後、〈甘いファクトの配布所〉は二箇所に増えた。透は「薄い曲」を遠巻きに置き、和音の隙間で会話の間合いが柔らかくなる。ブティックの店主は〈紺の帯+白の縁〉の簡易テーブルクロスを縫い、乾物屋の主人は「塩レモン水」の桶を見張る。
「「ただし書き」、もっと見えるように」
幸博の提案で、カードの右下に白の縁取りを足した。
※「静かな帯」は「静かにしたい人が優先される時間」。――声のベルが鳴ったら、譲る。
別の母親がベビーカーを押して来て、カードを指で撫でる。
「「譲る」って、教えられる言葉ですね」
「教え「合える」のが、街」
歩が返すと、母親は小さく頷いた。
そのうち、噂の向きが変わり始める。
「「ファクトのクッキー屋さん」ってどこ?」
小走りで来た子どもが笑って言い、列の最後尾に並ぶ。列は「笑顔の列」になったが、笑顔を強制しない。結月は「角度、三つ。どれでも」とだけ言い、宜幸が立て看板の前で写真を撮る。
SNSの画面に、紺の帯と白の縁が次々と並び、〈今日の三行〉がそのまま拡散される。
「静かな帯」=譲り合いの時間/寄附=使途限定/口出しなし/事実→気持ち→提案。
幸博は画面を見て、胸を張りかけて、やめた。「派手は封印…………でも、いいな、これ」
「派手じゃなくて、反復」
結月は短く言い、紙袋の底から最後の一列を出した。
夕方、空の色が紺に寄り、提灯の橙がゆっくり起き上がる頃、通りの向こうから、昼の「硬さ」の男が戻ってきた。
「見た。会計。…………あんたら、面倒なやり方してるな」
「「優先」は、面倒です」
歩は迷いなく返し、黒板に小さく追記した。
「面倒」=続ける方法。
男は鼻で笑い、「面倒、嫌いじゃない」と言って、るりの頭をひとなでして行った。るりの尻尾が、とん、と二度鳴る。
配布所を畳む前、結月は皿に「すれ違いスイート」を三欠片残した。
「「喧嘩の予感」にも、合図は効く」
十呼吸。三人は同じ速さで息を数え、一口ずつ分けた。今日一日の苦味が輪郭になり、塩が「ここで止まる」を教え、甘さが「明日もやる」を繋ぐ。
歩は黒板の隅に、角を丸く囲んで〈今日の訂正件:口頭27/カード回収0〉と書き、マーカーを置いた。
「回収ゼロ?」
「「持ち帰る」が「持ち歩く」に変わってる。――ポケットに「三行」」
幸博の声に、結月がうっすら笑う。「甘さの袋も、空」
夜、〈ミッドナイトアゲート〉。瑪瑙の層が、今日の文字の重みをゆっくり吸い、カウンターの上で薄く光っていた。
「うわさは甘く、噂は苦い」
歩が言うと、マスターが頷いた。温いレモン水と塩を一粒。
「甘い噂は、最初に入ってくる。苦い噂は、あとに残る。――どっちも「舌」の話だ」
結月は「塩、先」とだけ言って、グラスに指を滑らせた。
「今日の三行、書く?」
「書く」
歩はノートを開き、角を丸くして三つ並べた。
① 「うわさ」は塗りつぶさず、「ただし書き」で輪郭/② 「優先」は面倒。――面倒は続ける方法/③ 甘さで呼び込み、塩で止める。
書き終えると、結月が短く付け足した。
※「笑顔」は強制しない。
マスターは目尻を細め、「いい「ただし書き」だ」と言った。
店を出ると、通りの提灯は橙を揃えて揺れていた。紺の帯と白の縁が夜気の中で輪郭を持つ。るりが先に歩き、尻尾でとん、と合図をする。
「明日も、反復」
「反復は、甘さの友だち」
結月の言葉に、歩はうなずく。噂はまた来るだろう。甘いのも、苦いのも。
でも、今日の三行は、人のポケットに入った。角は丸い。弱くない。噂の舌に負けない、ゆっくり溶ける甘さで。




