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ミッドナイト・アゲート──五歩で寄り添う商店街交渉術  作者: 輝


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第15話 深夜一時の転機。

 深夜一時。紫瑠璃しるり通りの風は一息遅れて吹き、〈ミッドナイトアゲート〉の扉上の橙が、眠りかけの火のように低く揺れていた。カウンターの奥でマスターが布巾をたたみ、薄いレモン水と塩を一粒ずつ置く。あゆむはその横に腰を下ろし、結月ゆづきは無言で袖を二折りする。

  「…………来る」

  結月が扉のほうを見た。真鍮の鈴が鳴り、煤けた作業着の男が入ってくる。常連の大工・樫村かしむらだ。背中で風を切り替えて、椅子に腰を下ろした瞬間、肩の骨の角が少し出た。

  「移ろうかと思ってる」

  最初の一言は、木端の匂いと一緒に落ちた。

  「仕事、ない?」と歩。

  「ある。ないのは「」。ばらばら来る。朝の打合せが夕方に延びたり、昼に空があいたり。手はあるのに、時間がつながらない。…………空白のあいだに、気持ちが剥がれていく」

  杯の縁を親指でなぞる樫村の仕草は、木口に紙やすりを当てる手つきに似ていた。

  歩はナプキンにいつもの四つの欄を描いた。〈事実〉〈気持ち〉〈譲れること〉〈譲れないこと〉。

  「事実:仕事はある。空白がある。移転の誘いもある」

  「気持ち:剥がれる前に固めたい。…………それと、ここを嫌いになりたくない」

  「譲れること:夜の相談、少し延長できる。単価を下げる代わりに、材料の持ち込みをお願いしてもいい」

  「譲れないこと:手を急がせない。仕上がりを落とさない」

  四つの欄は、角を丸めなくてもきれいに箱の中におさまった。樫村の文字は大きいが、跳ねない。跳ねない文字は、案外遠くまで届く。

  「空白時間の正体、見よう」

  結月がカウンターに薄い紙を三枚重ね、上からチョークで細い線を引いた。

  〈日中の作業/移動/見積/相談〉――それぞれに色を決め、紺の線を時間の帯に重ねる。

  「移動がジグザグ。相談が偶発」

  歩はうなずき、紺の線の隙間を人差し指でなぞった。

  「この隙間に、予約をはめる。――「見える化と予約化」。場所はここ」

  歩の視線が、扉の上の瑪瑙アゲートを経由して、壁の空白に止まった。

  マスターは無言で頷き、布巾をそこに置いた。

  「予約板、いる」

  結月が短く言い、厨房の奥から古い黒板を一枚、抱えてきた。角は削れて白い骨が見えている。

  「角、丸くする」

  白のチョークで、四隅に小さな円を描き、紺の布を細く裂いて縁に巻く。文字は、歩が書く。

 「大工・樫村さんの小さな修繕 予約板」/15分相談ワンコイン→見積→作業日決め/対象:ぐらつく椅子/外れた取っ手/はみ出した釘/棚の取り付け/「話して決める」/予約:火・木・土の深夜一時〜二時アゲートで

  「深夜?」樫村が目を細める。

  「空白に合わせる。日中は動線優先、夜に「話す準備」」

  歩の言葉に、マスターが小さく笑った。「ここは「夜の連携拠点」。理屈に合う」

  「料金は?」

  「最初は「相談料」だけ固定。工賃は見積。――『高い/安い』で揉める前に、「やる/やらない」の合意を作る」

  「遅い時間に来る人、いるかね」

  「いる。夜に「手すりが不安」を思い出す人、わたし知ってる」

  結月が短く言って、紙皿に角砂糖を一つ落とすみたいに、言葉を置いた。その甘さは、夜の舌でも受け取れる。

  予約板の右下に、歩はもう一つ小さな欄を書いた。

 「譲れること(例)」

  ・「時間が遅れてもOK(±15分)」

  ・「材料は持込でも可」

  ・「犬がいてもOK」

 「譲れないこと(例)」

  ・「仕上げの手順省略は不可」

  ・「安全配慮」

  「お互いの角、先に見えるように」

  歩がペンを置くと、扉の鈴がもう一度鳴った。パン屋の夫が顔を出す。

  「ここで「取っ手修繕」頼める? 試作台の引き出しが、ぎいぎいで」

  「できます。――来ます?」

  「今は客が切れない。十五分、予約」

  歩は黒板に線を引いた。〈1:15 パン屋・引き出し〉。

  「私も」ブティックの店主が続く。「鏡の枠、角が立ってる。丸く」

  「角丸、得意」

  樫村の口の端が、少し持ち上がった。笑い慣れていない人の、手のような笑いだった。

  るりがカウンターの脚元で丸くなり、「ただいま」と誰かが言うたび耳を上げた。とおるは「薄い曲」を一度だけ鳴らして、予約板の前の空気を温めた。

  「「声のベル」優先」

  結月が指で合図を出す。和音はすぐ止み、通りから帰ってきた母親が「明かりの紐を短くしたい」と相談を置いた。十五分の枠は、すべて「話す」だけで終わる。作業は決めない。決めるのは、明日の自分たちに委ねる。

  「「今は話すだけ」って、楽だね」

  母親のひと言が、深夜一時の壁にやわらかく吸い込まれた。

  最初の夜は、黒板の三列が全部は埋まらなかった。二つ空白が残った。

  「埋まらないと、不安だな」

  樫村が正直に言う。

  「空白の使い道を、先に決める」

  歩は余白に小さく書いた。〈「工房メンテ」〉〈「見積準備」〉。

  「「空白」が「準備」に変わる」

  結月が頷き、薄い塩キャラメルを一枚、包丁の背で静かに割った。

  「合図」

  彼女は皿の中央にそれを置いた。喧嘩の合図ではない。夜に働く手を、一度ほどくための合図。

  「十呼吸」

  歩と樫村は黙って数え、ひとかけらを分けた。苦味が輪郭を引き、塩が「ここで止まる」を指示する。甘さは、明日への約束。

  翌日から、予約板は扉の横へ移った。紺の帯に白の縁。角は丸い。宜幸よしゆきが透明の立て看板を足し、幸博ゆきひろは派手を封印して「三行ポスター」を貼った。

 小さな修繕・夜の相談/15分ワンコイン→見積/「声のベル」優先。

  亜柊あしゅは「事故ゼロ」のための注意書きを短く書き、〈犬とベビーカー最優先〉と角丸で囲んだ。有里杏ありすは自治会の掲示板に「予約板の存在」を載せた。

  「「ただの宣伝」に見せない」

  歩が言うと、有里杏は「「運用の公開」にする」と短く返した。

  一週間後。

  黒板の一列目は、毎晩埋まるようになった。パン屋の引き出し、ブティックの鏡、乾物屋の出汁棚、傘の図書館の骨修繕、透のアコーディオンケースの留め具、学ランの自転車スタンド。

  「「見積だけ」で終わる回も多い。――いいのか」

  樫村の不安は、まだ残っていた。

  「『話すだけ』は、逃げじゃない」

  歩はナプキンを広げ、最初の夜の四欄表をもう一度出した。

  「「譲れない」は守れてる。「譲れる」は少し増えた。――変化は、剥がれ防止になる」

  結月は予約板の右下に、印を一つ増やした。〈「準備済み」〉。

  「空白が「準備済み」に変わると、心が剥がれない」

  彼女の言葉は、木口に油をさすみたいに静かに沁みた。

  ひと月目の最終日、予約板のすべての枠に白い粉の文字が並んだ。空白は、なかった。

 扉の鈴が鳴り、最後の枠の客が「ただいま」と言った。るりの尻尾が、とん、とん。

  「…………満了だ」

  樫村の声は小さかったが、椅子の脚ははっきり鳴った。

  「満了は、次の空白の「予告」でもある」

  歩が黒板の端に〈来月の仮予約〉の欄を足す。

  「三歩先まで、薄く塗る」

  結月が白のチョークで点を打ち、紺の線で優しく結んだ。

  マスターはグラスを三つ置き、薄い炭酸水にレモンを一枚ずつ落とした。

  「おめでとう」

  乾杯は、小さな泡が口の中でほどける音がする。

  「移る話は…………」

  樫村が言いかけて、首を振った。

  「やめる。――ここでやる。空白の使い道が、見えたから」

  マスターは目を細めた。その目は、火を扱い慣れた人の目だった。熱の高さを見分け、手をかざす距離を知っている目だ。

  夜更け。

  予約板は扉の内側に下げられ、粉の文字が少し湿った空気に丸くなっていた。歩は黒板の隅に小さく追記した。

 「小さな修繕」は街の骨。折れたら、甘さで繋ぐ前に、木で繋ぐ。

  「甘さ、仕事、塩」

  結月が三つの単語を並べる。

  「順番、守る」

  歩は頷き、〈ミッドナイトアゲート〉の灯を振り返る。橙の輪郭は、今夜は少し太かった。

  深夜一時の転機は、派手な音を立てない。粉と木と、薄い泡だけが知っている。

  「空白」は、「準備」に変えられる。

  「迷い」は、「設計」に変えられる。

  そして、設計は、希望に変わる。

  るりの尻尾が、とん、と一度だけ鳴って、また丸くなった。


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