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第12話 すれ違いスイート。

 月曜の朝から、紫瑠璃しるり通りはいつもと違う湿りを帯びていた。各店のポストに「再開発事業 説明会のお知らせ」が投函され、紙の角が心の角までつつく。〈ミッドナイトアゲート〉が更地予定地に含まれるらしい、という噂は、昼の会話を短くし、夜の息を浅くした。あゆむは質問リストづくりの呼びかけに追われ、結月ゆづきは注文の焼き菓子を倍に増やしながら、余白に「もしも」のレシピを走らせた。ふたりは同じ通りに立っているのに、時計は別々の場所を指しているみたいだった。

  説明会の夜、公民館の空気は重たい鍋の蓋みたいに手応えがあり、怒号寸前の声がいくつも走った。歩は「事実を積む質問」を歯車みたいに噛み合わせ、Yes/NoではなくHow/Whatで引き出していく。必要資料は宿題として明文化され、拍手はなかったが、帰りの道にだけわずかな手応えが残った。結月は会場の後ろで、歩の肩が一瞬だけ落ちるのを見ていた。見たのに、声を掛ける前に呼び止められて、焼き菓子の差し入れを渡すタイミングを逃した。帰り道、ふたりの間には、言い損ねた一言が霧の束のように浮かんだ。

  翌日から、すれ違いは小さな音で増殖した。

  「今日の仕込み、十五時までに終わらせる。レモンの皮は朝のぶんだけ」

  「わかった。…………夕方、自治会で「宿題の棚卸し」やる」

  歩は返事を打ってポケットにしまい、次の瞬間、別の電話に出た。その五分後、結月から来た〈さっきの「棚卸し」、用語の説明まとめようか〉のラインは未読になったまま夜を越え、朝の蒸気で縁がふやけたように見えた。

  「未読のまま?」

  結月は短く言った。それは質問ではなく、刃の背で撫でるみたいな確認だ。

  「…………ごめん。詰めてた」

  謝罪の角が立たないように、歩は語尾を丸めた。けれど丸め方が甘過ぎて、意味まで溶けた。

  水曜の昼、黒板の隅にチョークの粉が積もる。結月はそれを指で払いながら、言葉を選ばないことを選んだ。

  「わたし、仕事の合間に「気配」を送ってる。拾わないなら、最初から短く言う」

  「「拾わない」じゃない。「拾えない」だった」

  「結果は同じ」

  短い往復は、砂糖を入れ忘れたカヌレのように固かった。歩は深呼吸を一度、飲み込んで、言い訳を喉に留めた。留めたまま、沈黙の重みだけが沈んだ。

  夜、〈ミッドナイトアゲート〉。扉の上の瑪瑙が、層をひと筋だけ濃くしている。マスターは二人を見て、塩を一粒添えた温い水を出した。

  「忙しい人の喧嘩は、言葉が先に削れる。意味よりも、角だけが残る」

  歩は水を口に含み、結月は空のカップを両手で包んだ。

  「角を落とすの、砂糖だけじゃない」

  「塩も効く」

  マスターが頷き、カウンターの下から小さな瓶を取り出す。琥珀色の液体に、光がゆっくり沈み込む。

  「塩キャラメル。「苦味は輪郭、塩は合図」。怒りの輪郭に甘さを塗る前に、塩で「ここで止まる」を決める」

  合図、という言葉だけが、二人に同時に落ちた。

  結月は椅子を半歩引き、袖を少しだけ折り上げた。

  「借りる。火、弱めで。砂糖は二種。――上白とグラニュー。上白は「角丸」、グラニューは「張り」。水飴、少し」

  鍋に砂糖が沈み、火にかけると泡が細かく並んだ。色が薄い琥珀に変わる瞬間、小さな一滴の水で呼吸を入れ、塩を親指と人差し指でひねって落とす。マスターは火加減を一つ下げ、歩は黙って耐熱のバットを並べた。

  「香り、覚えて」

  結月はそう言って、焦げる一歩手前の香りを歩の鼻先に差し出す。苦味の輪郭が、甘さの外枠を描いていく。

  冷やした塩キャラメルを、結月は薄く切って、角を丸く落とした。皿に三つ並べ、一本の線で結ぶみたいに、塩の粒を一粒ずつ置いていく。

  「――休戦の「合図」を決める。喧嘩のとき、どちらかがこれを出す。出した側は、その場で勝たない。「十呼吸→一口→紙に置く」。「紙に置く」は、言い訳じゃなく事実と提案だけ」

  歩は頷いた。合図と手順は、彼の言葉の癖にも合っていた。

  「『十呼吸』のあいだ、相手を見ない。皿を見る。――それ、追加していい?」

  「採用」

  結月は鉛筆で、ナプキンに走り書きした。〈合図:塩キャラメル/十呼吸/一口/紙(事実→提案)〉。角を丸く囲む。

  店を出ると、雨は降っていなかったのに、舗装の匂いは濡れていた。ふたりは歩幅を揃えず、でも離れずに相談所まで戻った。扉を閉める前、結月は紙の上に小さく〈「もう勝たない」〉と付け足した。

  「勝ち負けをやめるの、苦手なんだ」

 歩の正直が、やっと口に出た。

  「わたしも。――だから「合図」」

  結月は皿の中央に、小さな欠片をもう一つ足した。四つ目は「予備」だ。互いに余白を残す、予備の欠片。

  翌日。自治会の「宿題の棚卸し」。歩はホワイトボードに「資料A-1〜A-3/回答期限/窓口」を並べ、声の温度を一定に保った。ときどき喉が渇き、塩のない水を何度も飲んだ。合間に見たスマホには、結月からの短いラインが届いていた。〈仕込み終わり。合図、練習する?〉。

  「練習?」

  会議が終わるころ、頭の隅でその二文字が膨らんだ。練習、つまり喧嘩の予行演習を、甘さでやるということだろうか。それは、すこし可笑しかった。

  夕方、すれ違いはふたたび起きた。

  「五時に戻るって言った」

  「ごめん。十五分押した」

  「十五分で、「焼き」は別物になる」

  火の加減で世界が変わることを、歩は頭では知っているのに、身体はまだ追いついていない。空気の湿度が上がる。結月は言葉を続けかけて、やめた。

  「…………合図」

  冷蔵庫から皿を取り出し、カウンターの真ん中にそっと置く。塩キャラメルが、薄い琥珀で光った。

  十呼吸。ふたりは皿だけを見た。視線がぶつからない沈黙は、痛くなかった。

  「一口」

  最初に手を伸ばしたのは歩で、次の瞬間、結月の指先と触れた。指は離れず、欠片は揺れて、笑いが少しこぼれた。

  「紙」

  歩は黒ペンで書いた。〈事実:十五分遅れ。理由:自治会の延長。影響:焼きの仕上がりに差〉。

  その下に、〈提案:遅れる可能性が出たら「焼き前」の段階で一報。――「焼き段階」を可視化する表をつくる〉。

  結月はうなずき、同じ紙の余白に〈提案:合図の前に「水」〉と書き足した。

  「塩、先に舌にのせる。甘さ、暴れない」

  「了解」

  ふたりは欠片をもう一口ずつ分け、最後のひとかけを半分に割った。

  夜、再び〈ミッドナイトアゲート〉。マスターは二人の皿を見て、目尻の皺をすこし深くした。

  「「合図」は、喧嘩を止める「標識」になる。標識は、守ると意味が生まれる」

  「標識に、名前」

  結月は短く考え、ナプキンに書いた。〈「すれ違いスイート」〉。少し照れたが、歩はすぐに頷いた。

  「合図の名前があると、次に呼べる。――『スイートを出して』って」

  マスターが笑い、塩をひと粒、指で弾いた。琥珀の皿の上、白い点が星みたいに光る。

  帰り道、ふたりは肩を寄せないまま、でも距離は確かに半歩、縮んでいた。

  「明日、役所に資料請求を出す。礼節ある催促で。――言葉、見てくれる?」

  「見る。短く、角を落として」

  歩は黒板の裏に「次の一歩」を書いた。〈「合図」を守る〉〈「焼き段階」の表〉〈「礼節ある催促」の文面〉。

  明日の不安は減らない。けれど、合図がある。甘さで始める休戦がある。ふたりは、同じ通りの同じ夜気を吸い込み、同じ速さで吐いた。

  「すれ違いスイート」――苦味は輪郭、塩は合図、甘さは約束。噛むたびに、言葉の角が、少しずつ丸くなっていく。


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