第1話 ワンコイン接待、開業。
春の土曜、紫瑠璃通りのはずれに、まだペンキの匂いが残る木製の扉がひとつ。鍵を回すと、古い真鍮のベルがちいさく鳴いた。
「おはようございます」
歩は、誰もいないはずの店内に丁寧に挨拶した。癖になっている。声を出すと、空間がこちらを向く気がするからだ。
掃き込まれたばかりの床に、白い養生テープが一本、まっすぐ走っている。「相談席」「待合」「試作テーブル」と、マスキングの手書きが並ぶ。黒板にはチョークで――〈ワンコイン接待〉。その下に、「相談・差し入れ・お礼 ぜんぶ五百円」とある。
「字体、もうちょい柔らかく」
背後で低い声。結月が脚立の上から、黒板の角に丸を足した。無愛想と見える眉は、集中するときにはさらに凛々しくなる。
「字に性格が出ますね」
「出る。あなたのは、きれいだけど真面目すぎ」
容赦がない。だが、チョークの白は彼女の細い指で一段、甘い色になる。
開店は十時。壁の時計は九時四十五分をさしている。歩はポットに湯を沸かし、紙コップを並べ、入口に立てかけた黒板を外へ運んだ。
「求人じゃなく相談所って、ほんとに人、来るんですかね」
明るい声とともに扉が押し開けられる。イベント屋の宜幸が、観葉植物を抱えて現れた。
「オープン祝い。『お客さん、座ってる間に育つ』的なやつ」
「観葉植物で時間の流れを可視化、ですか」
歩が笑うと、宜幸は「そう。あと、派手」と親指を立てる。
十時きっかり。つやのある五百円玉を手のひらで転がしながら、歩は扉を押し開けて外に出る。通りには、朝のパン屋の甘い匂いと、八百屋の濡れたダンボールの匂いが混ざっていた。のぼり旗が風でぱたぱた鳴る。
最初の客は、ほとんど「風」のほうが先に来た。旗が、歩の頬を叩く。
「すみません、ちょっと――」
旗の根元で、二人の店主が向き合っている。たい焼き屋の若旦那と、花屋の女将だ。のぼり旗の位置をめぐって、互いに道の真ん中寄りへ寄せたいらしい。
「そこまで出したら、うちのお客が通れないでしょ」
「そっちが電柱側に寄せればいいじゃないですか。うちは風が大敵なんで」
声の角が、風の角度といっしょに鋭くなる。
歩は旗の間に身体を滑り込ませ、二人が真正面を向かなくて済む角度を、さりげなく作った。
「ご相談、でしょうか。もしよければ、今日からオープンの相談所で、五百円で伺います。温かい飲み物つきで」
若旦那と女将は顔を見合わせ、同時にため息をつく。
「五百円で、旗が言うこと聞くならね」
「旗は話せませんが、持ち主は話せます」
歩の冗談に、風だけが笑った。
裏手の空き店舗――今朝から〈ワンコイン接待〉の店――へ三人で入る。結月が湯気の立つ紙コップを差し出した。
「砂糖いる?」
「ええ、じゃあ少し」
女将が礼を言う。若旦那は、コップを手に取りつつも落ち着かない。結月は、視線を旗のポールの傷に落とす。
「これ、最近ついた傷?」
「昨日の風で、コンクリにこすれてね」若旦那が頬をかく。
「じゃあ、根元を保護したら? 古タイヤがあれば理想だけど、バーテープでも巻けば摩擦減る」
歩が口を開く前に、場が二度、静まった。提案の角度が鋭すぎたのか、若旦那の眉に皺が寄る。
「タイヤなんて、うちの店の前に黒いの置けって?」
「嫌なら、嫌って言って。代替案出すから」
結月の言葉は刃のように薄いが、不思議と血は出ない。ただ、空気が張る。
歩は一度、両手をひらいた。
「一回、事実の棚卸しだけさせてください」
紙とペンを取り出し、「困っていること」「譲れること」「譲れないこと」と三つ、丸を描く。
「たい焼き屋さんは「風が強いと旗が折れる」が困りごと。花屋さんは「導線が狭いとお客が鉢に当たる」。どちらも『通りの真ん中に寄せたい』という解決策を選びかけてる。でも、本当に欲しいのは『安全』と『見つけやすさ』ですよね」
若旦那と女将の視線が紙の上で交差する。歩はペン先で「譲れること」に小さな空欄を残しておいた。
「じゃあ、案を三つ。①時間帯で位置を切り替える。朝は花屋のピークだから花屋寄り、午後はたい焼き屋寄り。②旗は店前、けれど『目立ち写真スポット』は通り中央に一つだけ作る。共有のフォト看板に、週替わりで店のPOPを載せる。③根元の保護は黒じゃなく、紫瑠璃通りっぽい紺色の布を巻く。景観を壊さない」
宜幸が、いつのまにかカウンターの影から顔を出した。
「②、いいっすね。写真スポット。ハッシュタグも作れるし」
「ハッシュタグは静かに」結月が小さく睨む。「でも、紺の布はあり」
「時間帯切り替え、うちは朝が勝負だから助かるよ」女将が頷く。
若旦那はまだ逡巡していたが、紙コップの縁に唇を触れた瞬間、肩の力が少し抜けた。
「…………五百円で、ここまでやってくれるのか」
「はい。五百円は、最初の一歩の値段です」
歩は丁寧に言った。
調停は、案外すんなり進んだ。店の前で旗を持ち、実際に風を受けてみる。通りの幅にロープを張って、店先から何センチまでと印をつける。宜幸はその場で「写真スポット」の板を持ってきて、紫瑠璃通りの簡単なロゴを描き始めた。
「『今日のおすすめ』差し込み式でどう?」
「やるなら、差し込み部分に透明のカバー」結月が即答する。「雨に弱い紙は、午後にはふやける」
「はいはい、実務女史」
ふたりは、遠慮のない速度で言葉を交わす。歩は、その速度と同じ速さで、相手の顔色を観察しつづけた。
若旦那が旗の位置を二十センチ下げ、女将が店先の鉢を一列奥へ下げると、通りの中央に細い流れができた。そこを、ベビーカーがするりと抜けていく。
「通れた」
女将の声に、若旦那が「ほらな」と笑い、すぐに「いや、ほらなは違うな」と言い直した。歩はその言い直しが好きだった。
昼過ぎ。紙に書いた合意事項を一枚ずつ手渡し、象徴的な五百円玉を受け取る。店のベルがまた鳴った。
「頼まれてた試作品、できた」
結月が、箱をそっと置く。ふたを開けると、小ぶりのプリンが六つ、琥珀色の湖面を静かに震わせている。
「試作だから、お代はいらない」
言葉は相変わらず直線だが、スプーンを添える手は驚くほど優しい。
「…………甘い匂い」女将が目を細める。「さっきまで喧嘩してたのが、ばかみたいね」
「喧嘩は必要。角を丸くするのに、砂糖が手伝うだけ」結月は淡々と言う。
若旦那は一口、プリンをすくい、まっすぐ結月を見た。
「うまい。いや、黙るしかない」
すすり込む音。歩もスプーンを入れ、舌にのせた。甘さは真面目、後味は短く、すっと引く。
「『ケンカの後の甘い時間』って、こういうのを言うのかな」
歩が言うと、結月はすこし眉をほどいて、「名前、長い」とだけ返した。
午後、通りを歩くと、旗は互いに譲り合うように風を受け、紺の布が根元で静かに揺れている。写真スポットには、中学生が二人、笑いながら並んだ。
「こんな感じで、いけるかもな」
宜幸が、ロゴの下に小さく「500」と書き足す。
「いける、じゃない。いく」結月が言う。
「はい、いきます」歩も笑った。声に、午前中よりも芯がある。
夕方、店じまいの前。歩はノートを開き、「今日の学び」とページの上に書いた。
――人は、話せば案外うまくいく。
筆圧は、最初の字より少しだけ強かった。黒板の〈ワンコイン接待〉の文字は、結月の手で丸みを帯び、店内はどこか甘い匂いがする。
扉を閉める直前、通りの奥で、古い扉の上に小さな灯りが点いた気がした。深夜だけ開くと噂の店がある、と誰かが言っていたのを、ふと思い出す。
「…………いつか、行ってみよう」
歩の独り言に、真鍮のベルが答えた。




