Temps, 3 a.m.
異世界のホテルにて初の夜を往く
「とにかく本名は口にしない、これは必ずお守りください」
「この世界では常夜灯は絶対必要なのです」
ボーイも古城さんと同じ言葉を口にしていた。
深い闇に怪異が潜むファンタジー
ホラーじゃないです。
古城さんと別れて、ホテルに入りフロントに向かう。
暖色の灯りに照らされたラウンジにはソファとテーブルが並べられ、壁際に自販機が2台置かれていた。
「お待ちしておりました」
俺の顔を見てフロントのボーイが笑顔で言う
「ここで何泊かすると伺っているのですが」
「はい、短くて3泊、長くても5泊程でしょうか」
そんなに宿泊するのか、ここは元いた場所とは違う、暗がりに怪異やらお化けやら潜む異世界である、財布の中の現金は心許無く、クレジットカードは使えそうもない。
そもそもこの世界では戸籍すら存在しない身元不明の不審者なのだ。完全に詰んでいる。
「あの、すいません、一泊幾らになりますか?」
「お代はもう頂いてるので結構ですよ」
さも当然かのごとくボーイが言った
「え?はい?」
タクシーの時もそうだが、いったい誰が支払いをしているのだろうか。まるで俺がこの世界に来ることを知っていたかのようである。
ものすごく気持ち悪い。
「お部屋に案内する前に身分を証明するもの、免許証やパスポートとお持ちですか?」
「はい?」
何故身分証明が必要なのだろうか?ボーイの言葉に疑念を抱いた。
「すいません、一応、他所の世界から迷い込んだ人物か確認が必要なんです」
そういうものかと、俺は財布から免許証を出してボーイに渡す。ボーイは俺の免許証を見てから、パソコンのマウスをカチカチとを操作して画面を確認してから免許証返した。
「はいありがとうございます、もう結構ですよ」
「はあ」
「お部屋に案内する前に注意点が一つありまして、一つは絶対に本名を口にしてはいけません」
ホテルのフロントでも本名を口にするなと言うのだから、口にしてしまえば本当に帰れなくなるのだろう。
思えば、今免許証を提示したのだから、俺の本名はバレてしまったのだが、それは大丈夫だろうか?
考え無しに免許証を提示した事に不安と後悔が襲ってくる。
「あの。免許証で俺の本名バレましたよね。。。」
俺は恐る恐るボーイに聞いてみる。
「ええ、確かに私は貴方の名前を知ることが出来ました、しかしながらそれとご自身で名前を口にする事は全く別です、この世界と契約を結ばないこと、これが最も重要なことなんです」
俺はその事について考えようとしたが、全く何も浮かばなかった。
「それと、こちらの端末に貴方の名前が登録されることはございませんのでご安心ください。
あともう一つ、就寝の際にお部屋を暗くされたとき、ランタンが自動で灯るようになっています、もし着かないなどの不具合がありましたら必ずフロントまでお電話ください、必ずです、お願いします。」
「ランタン?」
「ええ、この世界では常夜灯は絶対必要なのです」
「つかないとどうなるんですか?」
「最悪連れていかれます、どこか遠いところに」
今日は寝れるだろうか。。。
「それと宿泊期間中は外出禁止とさせて頂いております」
行く場所も無いし、何処かへ行くつもりも無い、当然観光旅行しに来たわけでも無いのでなんの問題も無いのだが。
「出ちゃダメなんですか?」
「ええ、身元不明のまま行方不明になられては困りますから」
ごもっともな回答が返ってきた。
「じゃあ、食事はどうすれば良いでしょう?」
「朝は7時から9時まで食堂で朝食バイキングがあります、係の者にカードキーを提示してから好きなものをお召し上がりください、お昼はお弁当をご用意してます、夜は朝と同じように食堂でバイキング形式となっております夕食は18時から21時までです、入浴は大浴場がございます、こちらは16時〜23時までご使用になれます、もちろんお部屋に備え付けのユニットバスをお使い頂いても構いません」
なるほど食べるものには困らないわけだ、あと気になることは⋯
「あの、喫煙所はありますか?」
「はい、大浴場のすぐ側にあります、フロントで販売もしているのでお声掛けください、それと下着などの衣類も、黒か白しかございませんが必要でしたらお声掛けください」
着替えが無いのは困る。俺はフロントでトランクス2つに肌着を2枚、靴下を2足注文する、いずれも黒にした。ついでにメビウスのメンソール5㎎を2箱注文した。
ボーイは奥に向かい、すぐに煙草と下着一式を持って出てきた。
「全部で4950円です」
俺は財布から一万円札を取り出して、トレイに置いた。
「そちらの一万円札は渋沢栄一なんですね、5050円のお釣りです。」
見たことのない5000円札だ、肖像の下に志賀直哉と小さく書かれていた。50円玉も見たことない模様で穴が空いていない。
「もしよろしければお手持ちのお金をこちらのお金と交換しますがどうされますか?」
「あ、お願いします」
ここで使えても、他で使えませんって事態は困る。俺は財布のお金を全て、トレイに出した、ボーイは机の下から紙幣とコインケースを取り出した。
一万円札が湯川秀樹、五千円札が志賀直哉、千円札が与謝野晶子と、元いた世界と全く違う紙幣を受け取り、少し観察して財布に仕舞った。
トレイに出した小銭に見覚えのない硬貨を見つけた、コンビニでタバコとミルクティーを買った時、お釣りを見ずに財布に入れたのだろう。
「下碑高駅のコンビニで買い物してるんですが、まずかったですかね?」
「あそこはこっちの世界の入り口になっております、多分店員が何とか処理してるでしょう、多分ですが。」
その後、硬貨をこちらの世界のものと交換し、カードキーを受け取る。エレベーターで7階まで上がり、706号室のセンサーにカードキーかざしてドアを開けた。オートロックなので部屋を出る時は必ず持って出なくてはならない。
部屋の中はビジネスホテルのシングルルーム、ベットがあり、テレビがあり、電気ケトルの横にはお茶と湯呑が置いてある。廊下の小さな洗面台に歯ブラシなどのアメニティが置いてあり、クローゼットを開けると、バスタオルとタオル、それと作務衣が置いてあった。
元の世界の高級ビジネスホテルと変わらないように見えるが、唯一の違いは天井にランタンが吊るされていることだった。
「これか」
俺は天井を見ながらひとり呟く。
腕時計を見ると時刻は3時36分。長い一日だ疲労困憊である。
クローゼットから作務衣を取り出して着替え、そのままベットに潜り込む。
きっちりとベットに巻き込んである掛け布団を足で引きはがして、枕もとのスイッチを切ると部屋の明かりが消え、天井のランタンが灯った。暖色の仄かな明かりが優しく室内を照らす。
まだ少し窮屈な足元に若干苛立ちを覚え、布団の中で足を上げ下げしていると、ドンドンドンと窓の方から音が聞こえてきた。
ドンドンドン、、ドンドンドン
3回ずつ一定のリズムで聞こえてくる、明らかに風の音とは違う。
マジか、、、窓叩いてる音だよな、ここ7階だぞ。
カーテンを開けて確認する勇気は無い、もし血まみれの人間が覗いていたら間違いなく漏らすだろう。
とりあえずベット脇にある受話器を取りフロントに電話してみる事にした。原因がなにか分かるかもしれない。
「はい、フロントです」
「あの、なんか窓叩いてるような音が聞こえるんですが」
「ランタンはついていますか?」
「ええ、ついています」
「それでしたら入ってきませんので安心してお休みください、しばらくしたら収まりますよ」
安心してお休みくださいと言われてもな。とにかくこのまま寝るしかないのだろう。
窓を叩く音はその後10分程続いてやがて聞こえなくなった。
なるほどこっちの世界の夜は随分と物騒である。そう考えながら再び目を瞑ると、10秒もかからぬうちに深い眠りに落ちた。




