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第9話 言葉が崩壊する廊下

水から吐き出された悠は、無機質な廊下に立っていた。1246人の記憶を抱えたまま、しかしそれらの記憶も、これから起こることの前では無力だった。


両側の白い壁には、案内板や標識がびっしりと並んでいる。病院の廊下のようだが、何かがおかしい。


『出口』『非常口』『階段』『エレベーター』


最初は普通に読めた。しかし、歩を進めるにつれて、文字が変化し始める。


『出□』『非□口』『階□』『エレ□ーター』


文字が欠け始めている。まるで、言葉が病気にかかったように、少しずつ崩壊していく。


悠は立ち止まり、壁の標識を詳しく観察した。


文字は確かにそこにある。インクも褪せていない。しかし、文字として認識できない。形は見えるのに、意味が読み取れない。まるで、脳の言語野が機能を停止し始めたかのように。


試しに、声に出して読んでみる。


「で...ぐ...ち...」


いや、違う。口から出た音は「で・ぐ・ち」ではない。意味不明な音の羅列。自分でも何を言っているのか分からない。


さらに進む。


『□口』『□常□』『□段』『□□ベー□ー』


恐怖が込み上げる。これは視覚の問題ではない。認識の問題だ。言語という概念自体が、この廊下では崩壊していく。


手帳を取り出す。自分の記録を確認しようと。しかし——


『た□け□』『□□□て』『1□4□』


自分が書いた文字さえ、崩れている。


いや、よく見ると、数字だけは読める。『1247』。これだけは明確に認識できる。むしろ、より鮮明に見える。


「たすけて」と言おうとする。しかし、口から出たのは意味不明な音。


「た...す...○...て」


音素が崩壊している。言葉の構造が解体されている。


パニックに陥りかける。言葉を失うということは、思考を失うということ。人間から、言語以前の存在への退行。


しかし、数字だけは明確に認識できることに気づく。


『1247』


これだけは崩れない。むしろ、より鮮明に見える。掌の鍵の紋様も、1247という数字だけははっきりしている。


廊下を進むと、一人の人影が壁にもたれかかっていた。


ボロボロの服を着た老人。いや、よく見ると若い。ただ、ひどく疲れている。髪は白髪混じりで、肌は乾燥してひび割れている。そして、口をパクパクと動かしているが、声が出ない。


いや、音は出ている。しかし、言葉として成立していない。


「あ...う...え...い...」


母音だけが、かろうじて発音されている。


近づくと、それは悠だった。No.108の番号札を首から下げている。


No.108は必死に何かを伝えようとする。口を大きく開け、舌の位置を見せ、唇の形を誇張して。しかし、言葉にならない。


そして、壁を指差す。


そこには、原始的な絵が描かれていた。子供の落書きのような、単純な図形。


○(人の頭?) |(体?) →(方向?) □(場所?)


悠は理解しようとする。しかし、既に言語の概念が薄れ始めている自分に気づく。


「○は...何?」


言おうとしたが、「何」という言葉が出ない。代わりに、「?」というジェスチャーをする。両手を広げ、首を傾げる。普遍的な疑問の仕草。


No.108は頷き、新たな絵を描き始めた。


床に、指で絵を描く。爪は既に剥がれていて、指先から血が滲んでいる。しかし、描き続ける。


1247人の棒人間。 全員が同じ方向を向いている。 その先に、大きな○。


理解が少し進む。1247人が集まる場所?


No.108は、さらに詳細な絵を描く。


○の中に、小さな点を1247個。 そして、その点が螺旋を描いて中心に向かっている。


渦?統合?


悠も床に絵を描いてみる。


自分を表す棒人間。 疑問符。 矢印。


どこへ行けばいい?という意味を込めて。


No.108は、数字を書いた。


『7』『1』『2』『4』


そして、その数字を円形に並べた。


『7』 『1』『2』 『4』


時計回りに読むと「7124」。でも、なぜこの順番?


No.108は、自分の胸を叩いた。そして、心臓の鼓動のリズムを示す。


トン、トン、トン、トン。 7回、1回、2回、4回。


リズム?暗号?


悠は必死に理解しようとする。しかし、言語を失いつつある脳では、複雑な推論ができない。


No.108は、今度は手話のような動きを始めた。


しかし、これも正式な手話ではない。独自に編み出した、原始的なジェスチャー言語。


両手を組む:一緒、統合

手を広げる:分離、拡散

円を描く:循環、永遠

上を指す:次の段階

下を指す:過去、記憶


悠も同じジェスチャーを真似る。


すると、No.108の目が輝いた。コミュニケーションが成立した瞬間。


二人は、ジェスチャーでの対話を始めた。


No.108:(両手で頭を抱える)苦しい

悠:(同じ動作)分かる

No.108:(指で1247を示す)最後

悠:(頷く)

No.108:(円を描いて、中心を指す)集まる

悠:(?のジェスチャー)どこ?


No.108は立ち上がり、廊下の奥を指差した。


そして、歩き始める。よろよろとした足取りだが、確実に前進している。


悠もついて行く。


その瞬間、不思議なことが起きた。


言葉を失った二人の間に、見えない橋が架かった。ジェスチャーと眼差しだけで、完全に意思が通じ合う。まるで、言語という檻から解放されて、より純粋な、より根源的な繋がりを得たかのように。


No.108が振り返り、微笑む。声は出ないが、その表情が全てを語っている。


「ありがとう、理解してくれて」


悠も微笑み返す。


この瞬間、二人は言葉を超えた絆で結ばれた。それは、恐怖の空間で見つけた、小さな、しかし確かな人間性の光。


廊下の壁には、さらに多くの絵が描かれていた。


過去の記録者たちが残した、言葉なき記録。


ある絵は、迷路を描いている。 ある絵は、窓と人影。 ある絵は、水と鍵。 ある絵は、影の群れ。


全て、悠が経験してきた空間を表している。


そして気づく。これらの絵は、ただの記録ではない。地図だ。


20の空間を表す、20種類の絵。そして、それらを繋ぐ線。


No.108は、その中の一つを指差した。


本が描かれた絵。そして、そこから伸びる線は、全ての空間に繋がっている。


中心?


No.108は頷き、さらに詳しい説明を試みる。


本を開く動作。 文字を書く動作。 そして、文字が散らばる動作。


理解が深まる。記録が、全ての空間に散らばっている?


廊下の突き当たりにドアがある。


ドアノブに手をかけるが、開かない。よく見ると、ドアに文字盤がついている。パスワード式のロック。


しかし、文字盤の文字も崩壊している。


『A』『□』『C』『□』『E』...


アルファベットさえ読めない。ただし、数字のキーだけは無傷。


『1』『2』『3』『4』『5』『6』『7』『8』『9』『0』


試しに「1247」と入力する。


不正解。ドアは開かない。


No.108が首を振る。そして、あの円形の配置を再度示す。


『7』『1』『2』『4』


この順番で入力してみる。


『7124』


カチャリ。


ドアが開いた。


なぜこの順番なのか、理解はできない。しかし、もはや理解する必要もない。言葉を失った今、重要なのは結果だけ。


ドアの向こうは、また別の廊下。しかし、今度は文字が一切ない。完全に無地の壁。


いや、よく見ると、壁一面に数字だけが刻まれている。


『1』『2』『3』『4』『5』『6』『7』『8』『9』『0』


あらゆる組み合わせの数字。そして、その中に繰り返し現れる配列。


『1247』『7124』『4712』『2471』


円環する数字。終わりがない。


No.108が、悠の肩を叩いた。


そして、別れの仕草。手を振る。


No.108は、来た道を戻っていく。まだ言葉を完全に失っていない記録者たちを、導くために。


悠は一人、数字の廊下を進む。


振り返ると、今通ってきた廊下の文字が、完全に消失している。


ただの、白い壁。


そして理解する。


言葉を失った者には、言葉のない世界が待っている。


しかし、恐怖はない。


むしろ、解放感がある。


複雑な言語の檻から解放され、より原始的で、より本質的なコミュニケーションへ。


数字という、最も単純で、最も普遍的な言語へ。


No.108との交流で学んだこと。


言葉がなくても、伝えることはできる。 理解することはできる。 そして、導くことはできる。


新しい廊下を歩き始める。


足音だけが響く。1歩、2歩、3歩...


数えることだけが、唯一の思考。


しかし、その単純さの中に、真理があるような気がする。


1247という数字の真の意味が、言葉ではなく、リズムとして、振動として、存在として、理解され始めている。


廊下の奥に、光が見える。


そこに立っているのは、たくさんの人影。


いや、全て悠だ。


そして全員が、声を出さずに何かを数えている。


指を折り、足踏みをし、体を揺らしながら。


『1』『2』『4』『7』


『1』『2』『4』『7』


『1』『2』『4』『7』


永遠に続く、無言のカウント。


悠も、その輪に加わる。


もはや、それ以外にすることがない。


言葉なき世界で、数字だけが真実。


そして、全員で数える。


次の空間への、カウントダウンを。


『1』『2』『4』『7』


単純な行為の中に、深い意味が宿っている。


それを、言葉ではなく、存在として理解しながら。

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