第8話 水に満たされた部屋
悠は膝まで水に浸かって立っていた。
コンクリートの部屋。天井は高く、5メートルはあるだろうか。四方の壁には無数の水位の跡が、地層のように刻まれている。茶色い線、緑の苔、白い塩の結晶。それぞれが異なる時代の満水を物語っている。最高水位は天井近く、かすれた線となって残っている。
水は透明だが、妙に生温い。体温に近い温度。そして、微かに脈動している。悠の心拍と同じリズムで、水面が上下に揺れている。まるで、巨大な生き物の体液に浸かっているような感覚。
水の匂いを嗅ぐ。
塩素でも、腐敗臭でもない。鉄錆のような、血のような、有機的な匂い。
手ですくって観察する。確かに透明だが、光の屈折が普通の水とは違う。より粘度が高く、表面張力も強い。まるで、濃度の薄い血漿のような。
水位が上がっている。
ゆっくりだが、確実に。見ている間に、膝上から太ももへ。波紋もないのに、じわじわと上昇している。このペースなら、1時間で天井に達するだろう。
出口を探す。
壁を手で探りながら一周する。コンクリートの表面は、水位の跡でざらついている。ところどころに、爪で引っ掻いたような跡。文字らしきものも見えるが、水と時間で判読不能。
扉はない。窓もない。
ただ、天井付近に換気口らしき格子が見える。30センチ四方の正方形。そこから微かに光が漏れている。しかし、光というより、別の部屋の水が発する燐光のような。
あそこなら、外に出られるかもしれない。
しかし、高すぎる。水位が上がるのを待つしかない。
悠は壁を詳しく調査した。
水位線を数える。大きなものだけで47本。つまり、この部屋は少なくとも47回は満水になっている。そして、その都度、水が引いている。
排水口があるはずだ。
水中に手を入れ、床を探る。ぬめりとした感触。長年の堆積物が、床に層を作っている。
指先に固いものが当たった。格子。排水口の蓋だ。しかし、完全に詰まっている。有機物の塊が、排水口を塞いでいる。
試しに、塊を取り除こうとする。
指を突っ込んだ瞬間、何かが動いた。
慌てて手を引く。指先に、ぬめりとした感触が残る。生き物?いや、違う。もっと別の何か。
水位が腰まで上がった。
ふと、部屋のサイズを測ってみる。
目測で、6メートル四方。しかし、さっきは3メートル四方だったような気がする。
いや、気のせいではない。確実に部屋が大きくなっている。
壁に刻まれた目盛りのような傷を見つける。誰かが定規代わりに刻んだものだ。それを使って測ると、確かに部屋は拡大している。
最初:3m×3m×5m 現在:6m×6m×8m
恐怖が空間を成長させる。第3章で学んだ法則が、ここでも適用されている。
水面を見る。
自分の顔が映っている。疲れ切った顔。目の下のクマ、無精髭、虚ろな瞳。そして、視線が固定される呪いを受けた目。まだ閉じる能力を奪われたままだった。瞬きができない目が、水面に映る自分を見つめ返している。
映った顔が、口を動かした。
悠は息を呑んだ。自分は口を動かしていない。なのに、水面の顔は独立して動いている。
「沈め」
水面の顔が囁く。声は水を通して、歪んで聞こえる。
「下に、仲間がいる」
水位が胸まで上がった。
しかし、部屋も同時に成長している。天井が遠ざかっていく。10メートル、15メートル、20メートル。
もう換気口など見えない。
試しに、恐怖を抑えてみる。深呼吸をし、心を落ち着ける。これは幻覚だ、トリックだ、と自分に言い聞かせる。
すると、部屋の成長が止まった。
いや、少し縮んだ。
現在:5.5m×5.5m×7.5m
希望が湧いた。恐怖をコントロールできれば、換気口に届く。
しかし——
壁に映像が浮かび上がった。
水位の跡が、スクリーンのように映像を映し出す。この部屋で溺れた人々の姿。
顔を歪め、必死に水面に顔を出そうとする人々。天井に頭をぶつけ、次第に動かなくなっていく。沈んでいく。
その顔は、全て悠だった。
異なる服装、異なる年齢、しかし全て朝倉悠。過去の周回での死に様。
「助けて!」(若い悠の声) 「もう無理だ...」(中年の悠の声) 「美しい...水の中は...」(老いた悠の声) 「一緒に...」(子供の悠の声)
恐怖が湧き上がる。抑えられない。
部屋が急激に拡大した。天井が遠ざかる。20メートル、30メートル、50メートル。
もはや、プールのような巨大な空間。
水位は首まで来た。
パニックが全身を支配する。このままでは、過去の自分たちと同じ運命を辿る。
必死に泳ぎ始める。しかし、どこに向かって泳げばいいのか。全方向が同じ壁。
給水口を探す。
水はどこから来ている?壁を観察すると、小さな穴が無数にある。毛穴のような小さな開口部から、水が染み出している。
その時、水中に顔を沈めた瞬間、息を呑んだ。
水中に、無数の死体が沈んでいる。
全て悠。全て、異なる周回での自分。永遠に見続ける呪縛を受けた目を見開いたまま、水底でゆらゆらと揺れている。
その数、数百体。
いや、よく見ると死体ではない。
目が動いている。瞬きのできない目が、こちらを見ている。口が動く。泡となって言葉が上がってくる。
「仲間に...なれ...」 「1247人...揃えば...」 「脱出...できる...」
水中の悠たちが、一斉に手を伸ばしてくる。数百の手が、生者である悠を掴もうとする。
悠は必死に振り払い、水面に顔を出す。
そして気づく。
水中の悠たちの手には、全員鍵を握っている。
錆びたマスターキー。水中で腐食が進んでいるが、確かに鍵の形を保っている。
「鍵を...集めろ...」 「1247個...必要...」
水中に潜る。
息を大きく吸い込み、再び水中へ。
最初に近づいたのは、比較的新しい「死体」。No.1240と書かれた札を首から下げている。
その手から、鍵を取ろうとする。
しかし、死体の手は固く鍵を握りしめている。死後硬直ではない。意志を持って握っている。
「...渡せない...」
水中でも声が聞こえる。いや、声ではない。意識が直接伝わってくる。
「...これは...俺の...証...」
悠は理解した。鍵は、彼らにとって最後の尊厳。存在の証明。それを奪うのは——
「頼む」
悠は水中で囁いた。
「1247個集めれば、全員救われる」
1240号の目が、かすかに動いた。
「...本当か...」
「分からない。でも、可能性はある」
長い沈黙。水中での時間は、地上とは違う流れ方をする。
そして、1240号の手が、ゆっくりと開いた。
鍵が、悠の手に渡る。
触れた瞬間、1240号の記憶が流れ込んできた。
この部屋での1240回目の絶望。水位が上がり、天井に頭をぶつけ、最後の空気を吸い、そして沈んでいく瞬間。しかし、死ねない。水中で意識だけが残り続ける苦痛。
「ありがとう」
悠は次の死体へ向かった。
No.987。説得に時間がかかった。
No.543。すんなりと渡してくれた。
No.321。激しく抵抗した。
No.89。既に鍵を手放していた。
No.15。鍵と手が融合していた。
一つ一つ、丁寧に集めていく。
それぞれの死体との対話。それぞれの記憶。それぞれの絶望と、かすかな希望。
息が続かない。水面に上がる。
しかし、もう天井が近い。あと30センチ。
集めた鍵を数える。156個。まだ足りない。
再び潜る。
水底近くに、最も古い死体たちがいた。既に骨になりかけている者もいる。しかし、意識は残っている。
No.1。最初の記録者。
骨と化した手に、最初の鍵が握られている。
「...やっと...来たか...」
No.1の意識が語りかける。
「...1247人目...システムの...完成者...」
「鍵を、貸してくれ」
「...いいだろう...どうせ...もう...」
No.1の骨の手が開く。
最初の鍵。最も古く、最も重要な鍵。
触れた瞬間、システムの始まりが見えた。
最初の部屋。最初の恐怖。最初の記録。そして、最初の理解。
これは罠ではない。これは、進化の過程。人間から、別の何かへの。
水面まであと10センチ。
急いで残りの鍵を集める。
325個、567個、890個、1000個...
そして、1246個。
あと1個。
悠は理解した。最後の1個は、自分が持つべき鍵。
しかし、どこに?
水面があと5センチ。
深く息を吸い込む。最後の空気。
そして、気づいた。
掌に、鍵の紋様が刻まれている。エレベーターで刻まれた、1247の刻印。
「俺が鍵だ」
呟いた瞬間、体が光り始めた。
1246個の鍵も光り始め、悠の体に吸い込まれていく。
鍵たちの記憶が、全て統合されていく。
1246人の人生。1246通りの死。1246個の希望と絶望。
そして、悠自身が巨大な鍵に変化し始めた。
意識はあるが、もう人の形ではない。
鍵としての悠が、天井を見る。
そこに、巨大な鍵穴があった。1247個の鍵を一つに統合した、マスターキーのための鍵穴。
水面が天井に達する瞬間——
鍵となった悠が、鍵穴に吸い込まれた。
回転。
カチャリという音。
そして、天井が開いた。
水が轟音を立てて流れ出していく。渦を巻いて、上の空間へ。
悠も、水と共に流されていく。
人間の姿に戻りながら。
しかし、1246人の記憶を抱えたまま。
次の空間へ。
言葉を失う廊下へ。