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第7話 ひとつ多い影

エレベーターから統合意識として上昇した悠は、気がつくと再び個体として、無機質な通路に立っていた。757の意識は分離し、悠は再び一人になっていた。しかし、その経験の記憶は鮮明に残っている。


規則的に配置された蛍光灯が、1秒おきに明滅している。点灯、消灯、点灯、消灯。機械的なリズムが、時計の秒針のように時を刻む。


床を見る。


磨かれたリノリウムの床に、自分の影が映っている。蛍光灯の明滅に合わせて、影が現れては消える。


しかし、何かがおかしい。


影が、2つある。


悠は立ち止まり、足元を注意深く観察した。確かに影が2つ。1つは蛍光灯の明滅に合わせて動く、普通の影。もう1つは——


明滅に関係なく、そこにある。


蛍光灯が消えた瞬間も、その影は床に貼り付いている。しかも、独立して動いている。


悠が右手を上げる。普通の影も右手を上げる。しかし、もう一つの影は動かない。いや、違う。別の動きをしている。


両手を使って、何かを書くような仕草。


恐る恐る近づいて見る。影の指先が、床に文字を刻んでいく。実体はないはずなのに、確かに文字が刻まれていく。薄い、しかし読み取れる文字。


『マスターキーを思い出せ』


影が振り返った。


顔はない。影なのだから当然だ。しかし、確実にこちらを見ている。視線を感じる。いや、視線以上の何かを。意識そのものが、直接こちらを観察しているような感覚。


影が再び床に文字を刻む。


『最初に落とした』 『1247個』 『全部同じ鍵』 『でも記憶が違う』


悠は影に話しかけてみた。


「お前は...俺の影か?」


影は首を横に振るような動作をした。そして、床を指差す。


見ると、床に小さな窪みがある。鍵の形をした窪み。第1章の通路で見たものと同じ。まるで、同じ場所に何度も何度も鍵が落ちて、床が削れたような。


いや、よく見ると、窪みは一つではない。通路全体に、無数の鍵型の窪みがある。深さはそれぞれ違う。古いものは1センチ以上凹んでいる。新しいものは、かすかな痕跡程度。


そして気づく。窪みの数を数えると、正確に1246個。


影が苛立ったように床を叩く。音は出ないが、その動作から苛立ちが伝わってくる。


すると、床に振動が走り、新たな文字が浮かび上がった。


『影は記憶』 『1247回分の記憶』 『全て覚えている』


悠は理解し始めた。この影は、過去の周回の記憶を持つ存在。1247回繰り返された記憶の、生きたアーカイブ。


「なぜ俺と別に存在している?」


影は立ち上がり、壁に向かって歩いた。そして、壁に手を当てる。


すると、壁から別の影が滲み出てきた。


もう一つの影。これで影が3つ。いや、4つ、5つ...


次々と影が壁から這い出してくる。全て悠の影。しかし、それぞれが違う時代の悠を反映している。


子供の影、青年の影、中年の影、老人の影。


そして、それぞれが違う動きをしている。


ある影は頭を抱えている。絶望の仕草。 ある影は走り回っている。脱出を試みる動き。 ある影は座り込んで震えている。恐怖に支配された様子。 ある影は壁を殴り続けている。怒りの表現。 ある影は踊っている。狂気に陥った者の踊り。


そして、それぞれの影の濃さが違う。薄い影、濃い影、ほとんど見えない影、真っ黒な影。


最も濃い影が、悠に近づいてきた。その動きは落ち着いていて、どこか威厳がある。そして、床に文字を刻む。


『俺は1回目の影』 『最も古い』 『最も覚えている』


別の影も文字を刻む。


『俺は666回目』 『狂気の中間点』 『全てを支配しようとした』


さらに別の影。


『1000回目』 『悟りかけた』 『でも忘れた』


全ての影が、それぞれの番号と経験を主張し始める。通路は影の文字で埋め尽くされていく。


悠は実験を始めた。


まず、影との意思疎通を試みる。


「ジェスチャーで答えてくれ。鍵はどこにある?」


1回目の影が、下を指差した。床の下。


「掘れば見つかるのか?」


影は首を横に振り、もっと深くを指差す。物理的な場所ではない、もっと概念的な「下」。記憶の底、意識の深層。


次に、影を壁から引き剥がす実験。


悠は666回目の影に近づき、その輪郭を掴もうとした。当然、手は素通りする。しかし、意識を集中させ、影を「掴む」イメージを強く持つと——


かすかな抵抗を感じた。


まるで、濃密な空気を掴んでいるような感触。そして、引っ張ると、影が少しだけ壁から離れた。


しかし、すぐに壁に引き戻される。まるで、ゴムで繋がれているかのように。


「離れられないのか?」


666号の影が文字を刻む。


『影は本体を離れられない』 『でも』 『本体も影を離れられない』


そして全ての影が、同じ動作を始めた。


床を掘る仕草。


必死に、狂ったように床を掘る。まるで、埋まった鍵を探しているかのように。影たちの動きは完全にシンクロしていて、それは一つの巨大な儀式のようだった。


悠も思わず膝をつき、床を探り始めた。影たちと同じように。


指先に、固い感触。


何かある。爪で引っ掻くと、床の表面が剥がれた。その下に、別の層。そしてまた別の層。まるで、地層のように時間が積み重なっている。


そして、ある層で、小さな骨を見つけた。


人差し指の骨のようだ。古く、黄ばんでいる。そして、骨には文字が刻まれている。


『No.1』


最初の記録者の骨。第3章で見つけたものと同じ?いや、違う。これは影の骨。実体のない存在の、実体のない骨。しかし、確かに手に持っている。


影たちが一斉に動きを止めた。そして、全員がこちらを向く。顔はないが、期待しているのが分かる。


そして、1回目の影が床に文字を刻む。


『最初の記録者は知っていた』 『これが罠だと』 『でも書いた』 『書かずにいられなかった』 『そして影になった』


悠は骨を観察した。よく見ると、骨の表面に無数の小さな文字が刻まれている。顕微鏡で見なければ読めないほど小さな文字。しかし、影の目——実体のない目——でなら読める。


『システムの真実:影こそが本体。肉体は仮の器。1247の影が集まった時、真の存在が——』


文章は途中で途切れている。


その時、通路に新たな光源が現れた。


別の角度からの光。それにより、新たな影が生まれる。


悠の影が、3つになった。


元の影、独立した影、そして新たな影。


新たな影は、他とは違う動きをした。床に向かってではなく、天井に向かって手を伸ばしている。


天井を見上げると、そこにも鍵型の窪みがある。


逆さまの窪み。まるで、天井から鍵が「落ちた」ような。


「重力が...逆?」


影たちが一斉に天井を指差した。


そして理解する。この通路では、重力の向きすら定まっていない。上が下になり、下が上になる。影たちは、その全ての可能性を記憶している。


実験は続く。


複数の影を統合させる試み。


悠は、1番と1247番の影を重ねようとした。最初と最後。始まりと終わり。


二つの影が近づくと、不思議なことが起きた。


影同士が反発する。まるで、同じ極の磁石のように。


しかし、悠が間に立ち、橋渡しをすると——


二つの影が、悠を通じて繋がった。


1番の記憶と1247番の記憶が、悠の中で混ざり合う。


最初の恐怖と、最後の理解。 最初の希望と、最後の諦念。 最初の人間らしさと、最後の変質。


全てが一つになる。


そして、統合された影が、最後のメッセージを床に刻んだ。


『影は過去』 『過去は変えられない』 『でも、影が増えることで』 『可能性も増える』 『1247の可能性』


光源を操作して影を消す実験。


悠は蛍光灯に手をかざし、影を操作しようとした。しかし、独立した影は消えない。光源に関係なく存在し続ける。


むしろ、光を当てると、影がより濃くなった。


まるで、光が影を育てているかのように。


そして気づく。


影は光がなくても存在できる。なぜなら、影は記憶だから。


記憶に光は必要ない。


床が急に柔らかくなった。


悠の手が沈み込む。骨を持ったまま、床に引き込まれていく。


影たちは動かない。ただ見ている。


いや、一つの影が近づいてきた。最初の、独立して動いていた影。


影は悠の顔の高さまで屈み込み、そして——


手を差し伸べた。


悠は影の手を掴もうとした。今度は、確かな感触があった。


冷たく、しかし確実な感触。


影に引っ張られ、床から這い出る。


しかし、代償があった。


悠の影が、一つ増えていた。


床に沈みかけた時の悠の影が、そのまま床に残っている。


これで悠の影は4つ。


そして理解する。


危機を脱する度に、影が増える。 可能性が分岐する度に、影が増える。


最終的に1247の影を持つ時、それは——


暗闇に包まれた。


通路の照明が全て消えた。


しかし、影たちは消えない。


暗闇の中で、1247の影が蠢いている。


そして、それぞれが異なる方向へ歩き始める。


悠は、どの影について行くべきか迷った。


しかし、選ぶ必要はなかった。


なぜなら、悠自身が1247に分裂し始めたから。


意識が、1247の欠片に分かれていく。


それぞれが、それぞれの影を追って。


そして、1247の通路が、1247の可能性が、目の前に広がった。


最後に聞こえた声。


いや、声ではない。


影の言葉。


光のない言葉。


『次は水』

『1247の水』

『溺れるのは体ではない』

『溺れるのは——』


言葉は、分裂と共に途切れた。

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