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第6話 狭くなるエレベーター

回転する待合室から放り出された悠は、狭い箱の中に立っていた。


エレベーター。


古い油圧式のような、がたつきのある箱。壁は金属製で、所々に錆が浮いている。錆は赤茶色から黒に近い色まで、まるで血の乾き具合のような段階を見せている。薄暗い照明が、不安定に明滅している。1秒点灯、0.5秒消灯の不規則なリズム。


階数表示を見る。『B1』


デジタル表示ではなく、アナログの針式。針はかすかに震えている。


悠はまず、エレベーターの広さを測った。腕を広げる。左右の壁に指先が触れる程度。約2メートル。前後も同じくらい。高さは、手を伸ばせば天井に届く。約2.3メートル。


上昇ボタンを押すが、反応しない。ボタンを押し込んでも、バネで押し返される感触すらない。まるで壁に直接描かれた絵のよう。下降ボタンだけが、不気味な赤い光を放っている。血のような、脈打つような光。


非常停止ボタンを試す。やはり反応なし。


天井を見上げる。非常ハッチらしき四角い輪郭が見える。しかし、取っ手がない。指を引っ掛ける隙間もない。完全に密閉されている。


選択の余地はない。悠は下降ボタンを押した。


ボタンを押した瞬間、指先に鋭い痛みが走った。見ると、ボタンの表面に小さな針が生えている。指先から血が滲む。まるで、血液サンプルを採取されたような。


ガタン、と大きな音を立てて、エレベーターが動き始める。下降。


『B2』


特に変化はない。しかし、かすかな圧迫感を感じる。気のせいかと思い、再度測定する。


壁までの距離が、確実に縮まっている。左右1.9メートル。10センチ減った。


いや、よく観察すると、壁が内側に迫っているのが見える。非常にゆっくりだが、確実に。まるで壁が呼吸をするように、じわじわと内側に膨らんでいる。


『B3』


確実に狭くなっている。1.8メートル。最初は両手を広げても壁に届かなかったのに、今は肘を曲げた状態で触れる。


天井も低くなっている。最初は余裕があったのに、今は髪の毛が天井を擦る。


そして気づく。壁に無数の傷がある。爪で引っ掻いたような跡。そして、赤黒い染み。血の跡だ。過去の記録者たちが、必死に脱出を試みた痕跡。


傷をよく見ると、文字が刻まれている。


『助けて 苦しい No.234』 『もう無理 No.567』 『美しい圧迫 No.890』 『骨が軋む No.1024』 『皮膚と金属の境界が No.1156』


そして、比較的新しい傷。まだ血が乾いていない。


『間もなく限界 No.1246』


悠は壁の材質を調べた。一見普通の金属だが、触ると微妙に弾力がある。そして、温かい。人の体温に近い温度。よく見ると、金属の表面に細かい毛穴のような凹凸がある。


試しに爪で引っ掻いてみる。


金属が、皮膚のようにめくれた。


その下から、赤い何かが見える。筋肉のような、脈打つ組織。


『B4』


圧迫が本格的に始まった。


肩が壁に触れる。身動きが取りづらくなってきた。前後左右、どちらを向いても壁が迫っている。


呼吸が浅くなる。空気が薄くなったわけではない。ただ、胸を広げるスペースが減っている。深呼吸をしようとすると、胸が壁に当たる。


階数表示パネルの裏側を調べる。パネルを剥がそうとするが、固定されている。いや、よく見ると、パネル自体が壁と一体化している。境界線がない。


『B5』


もう体を回転させることもできない。前後左右から壁が迫る。金属の冷たさが、服を通して伝わってくる。


いや、もう冷たくない。壁が体温を吸収して、人肌の温度になっている。


そして恐ろしいことに気づく。壁の一か所に、人型の凹みを見つける。


誰かが圧迫されて、壁に押し付けられた跡。凹みの中心部は特に深く、そこには何かが埋まっている。


骨片だ。


白い破片が、金属の中に埋め込まれている。そして、その周りの金属が、骨を取り込もうとしているかのように盛り上がっている。


壁のあちこちに、同じような凹みがある。大小様々。ある凹みには、布の切れ端が残っている。ある凹みには、髪の毛が。ある凹みには、歯が。


全て、壁に取り込まれかけている。


その時、壁に小さなプレートを見つけた。


『最深部:B13』 『記録:756名圧死』 『生存:0名』 『ただし、死の定義は曖昧』


死の定義は曖昧?


『B6』


もう体を動かす余裕がない。立っているのがやっと。


壁が体の形に合わせて変形し始めた。まるで、悠という人間の鋳型を取っているかのように。


そして気づく。壁に押し付けられた部分の服が、溶け始めている。


いや、溶けているのではない。壁と融合している。繊維が金属と絡み合い、境界が曖昧になっている。


恐怖でもがくが、動けば動くほど壁との接触面積が増える。


『B7』


息苦しい。物理的にも、精神的にも。


肋骨に圧力がかかる。呼吸をするたびに、骨が軋む音が聞こえる。ミシミシという、今にも折れそうな音。


ふと、ポケットの手帳が壁に押し付けられているのを感じる。記録。これも記録しなければ。しかし、もう手を動かすスペースもない。


それでも、指先だけは動く。震える指で、壁に文字を刻む。


『No.1247 圧迫の恐怖 でも——』


書きかけで、指が動かなくなった。関節が壁に固定される。


しかし、奇妙なことに気づく。


壁に刻んだ文字が、勝手に続きを書いている。


『でも、これも記録 これも存在の証明 圧迫されても 消えない』


悠の意志とは関係なく、文字が刻まれていく。まるで、壁自体が悠の思考を読み取り、代わりに記録しているかのように。


『B8』


完全に身動きが取れなくなった。直立不動の姿勢で固定される。


壁が体の形に合わせて変形しているような感覚。いや、逆かもしれない。体が壁の形に合わせて変形しているのかも。


呼吸をするたびに、胸が壁に押し付けられる。肋骨が軋む音が、頭蓋骨に直接響く。


皮膚の感覚が変化し始めた。壁に接している部分が、痺れている。いや、痺れを通り越して、別の感覚になっている。


金属の冷たさでも、温かさでもない。


境界が、なくなっている。


どこまでが自分の皮膚で、どこからが壁なのか、分からなくなってきた。


そして気づく。このエレベーターは、人間を圧縮して「保存」しているのではないか。過去の記録者たちは、壁の中に圧縮されて、今も意識だけが残っているのではないか。


その証拠に、壁から微かな声が聞こえる。


「苦しい...」 「出して...」 「もう...慣れた...」 「一緒に...なろう...」 「壁の中は...安らか...」 「形から...解放される...」


声は、壁の中から直接響いてくる。756名の声が、重なり合って聞こえる。


『B9』


圧迫で意識が朦朧としてきた。


しかし、奇妙なことに気づく。これ以上狭くなったら、物理的に不可能なはずだ。人間の体積は変わらない。なのに、エレベーターは下降を続けている。


理解が訪れる。


圧縮されているのは、物理的な体だけではない。存在そのものが圧縮されている。


三次元から二次元へ。そして、いずれは一次元へ。最終的には、点になる。


数学的な圧縮。概念的な圧縮。


『B10』


意識が単純化されていく。


複雑な思考ができなくなる。言語が崩壊し始める。概念が単純化される。


名前は...朝倉...悠...


番号は...1247...


これだけは忘れない...いや、これしか残らない...


壁に押し付けられた部分から、徐々に感覚が失われていく。


最初は皮膚の感覚。次に筋肉。そして骨。


体の輪郭が曖昧になっていく。


『B11』


もう、自分の名前さえ思い出すのに時間がかかる。


あさ...くら...ゆう...


でも、番号は明確。1247。


これだけは、壁に刻まれた文字のように、消えない。


壁と体の境界が、完全に失われた部分がある。右腕が、壁と一体化している。


いや、一体化ではない。壁が腕で、腕が壁。最初から区別などなかったかのように。


そして気づく。壁の中から、何かが押し返してくる。圧死した者たちが、内側から押している。彼らも、まだ意識がある。


「仲間...」 「やっと...」 「1247...」 「完成...近い...」


756人の意識が、悠を迎え入れようとしている。


『B12』


もはや、個としての意識を保つのが困難。


しかし、なぜか番号だけは鮮明。


1247


最後の一人。システム完成の鍵。


そして理解する。これは死ではない。変化だ。個から集合へ。一から多へ。


エレベーターの壁に刻まれた全ての記録、全ての意識が、一つに統合されようとしている。


その中心に、1247番目の悠が必要。


『B13』


エレベーターが停止した。


最深部。


しかし、もう「停止した」という認識さえ曖昧だ。ただ、振動が止まったような気がする。


目の前に、小さなパネルが見える。今まで気づかなかった。いや、今現れたのか。


『外部アクセス』 『要マスターキー』


文字が読める。まだ、文字が理解できる。


これで、外に連絡できる。助けを呼べる。


必死に手を動かそうとする。しかし、もう1ミリも動かない。完全に壁と一体化している。


いや、違う。


指先だけ、わずかに動く。


ミリ単位で指を動かし、パネルに近づける。関節が軋む。いや、もう関節ではない。壁の一部が、わずかに変形しているだけ。


それでも、意志の力で動かす。


あと、1センチ。


5ミリ。


1ミリ。


触れた!


しかし、その瞬間——


『マスターキーが必要です』


絶望が全身を襲う。また、あの鍵。持っていない、失った鍵。


しかし、次の瞬間、奇跡が起きた。


壁の中から、鍵が押し出されてきた。


756人の誰かが、最後の力で押し出したのか。錆びた、古い鍵。曲がり、一部が欠けているが、確かにマスターキー。


意志の力だけで、鍵を掴む。


そして、パネルの鍵穴に——


入らない。


鍵が、圧迫で変形している。鍵穴の形と合わない。


その時、壁全体が震えた。


756人の意識が、一斉に動いた。


「使え...」 「最後の...チャンス...」 「1247が...揃えば...」


全員の意志が、鍵に集中する。


すると、鍵が光り始めた。


変形した鍵が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。756人の意志の力で。


そして——


カチャリ。


鍵が、鍵穴に入った。


『外部アクセス 承認』 『ただし——』


画面に新たな文字が現れる。


『アクセスの代償:完全なる統合』


つまり、外部と繋がる代わりに、壁と完全に一体化する。


選択の時。


しかし、悠に選択の余地はなかった。


もう、ほとんど壁と一体化している。


「...いいだろう」


意識の中で呟く。


そして、最後の力で、決定ボタンを押した。


瞬間、エレベーター全体が光に包まれた。


壁が溶ける。いや、壁と悠の境界が完全に消える。


756人プラス1。


757の意識が、一つに統合される。


そして、その統合意識は理解した。


これが、システムの一部になるということ。


これが、記録者の最終形態。


個ではなく、集合として存在すること。


しかし——


統合の中でも、1247という番号だけは消えない。


それが、悠の核心。


消えない、最後の個性。


エレベーターが急上昇を始めた。


いや、上昇しているのはエレベーターではない。


757の統合意識が、次の次元へと上昇している。


そして、新たな空間へ——

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