第5話 満席の待合室
白い空間から落下した悠は、見慣れた場所に着地した。
病院の待合室。
薄いグリーンの壁、プラスチック製の椅子が整然と並び、消毒液の匂いが鼻を突く。天井の蛍光灯が規則的にジジジと音を立てている。どこにでもある、ありふれた光景。
しかし、異常なのは——全ての席が埋まっていることだった。
30以上ある椅子に、人が座っている。全員が下を向き、じっと動かない。服装はバラバラ。スーツ姿の者、作業着の者、パジャマ姿の者、そして病院服の者。年齢もバラバラに見える。20代から60代まで。
悠は近づいて、最前列の人物の顔を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
自分だった。
スーツを着た自分。しかし、顔は疲れ切っている。目の下にクマがあり、無精髭が伸びている。シャツの襟は黄ばみ、ネクタイは緩んでいる。手には番号札。「1156」と書かれている。
隣を見る。また自分。今度はもっと若い。大学生の頃の服装。しかし、顔つきは老けている。若い体に老いた魂が宿っているような違和感。番号札は「234」。
全員を確認する。全て朝倉悠。異なる時期の、異なる状態の自分。
ある者は静かに泣いている。涙が頬を伝い、膝の上に落ちている。 ある者は虚ろな目で宙を見つめている。瞬きの回数が異常に少ない。 ある者は手帳に何かを必死に書いている。ページをめくる音だけが響く。 ある者は小声で何かを呟き続けている。同じフレーズを延々と。
そして気づく。座っている順番に規則性がある。番号の若い者ほど、まだ希望を持った表情をしている。目に光がある。番号が大きくなるにつれ、諦めと疲労が色濃くなっていく。
番号500番台:まだ脱出を信じている。 番号800番台:疑問を持ち始めている。 番号1000番台:完全に諦めている。 番号1200番台:諦めを超越した何か。
受付カウンターの電光掲示板を見る。
『現在の番号:1246』 『次の番号:1247』 『待ち時間:∞』
悠の手を見ると、いつの間にか番号札を持っている。震える手で確認する。
『1247』
赤い文字で印刷されている。触ると、微かに温かい。まるで、つい今印刷されたばかりのように。
一人の「自分」が急に立ち上がった。番号は「1246」。彼はフラフラと歩いてきて、悠の前で立ち止まる。
近くで見ると、その状態の酷さがよく分かる。服はところどころ破れ、靴は底が剥がれかけている。髪は脂でべたつき、体臭が漂ってくる。しかし、その顔には安堵の表情が浮かんでいる。
「やっと...やっと番だ...」
掠れた声。喉がカラカラに乾いているような。
「1246回...長かった...」
そして、悠に席を譲ろうとする。
「座れ...もう...疲れた...」
「待て、何の番だ?」
1246号は力なく笑った。唇が割れて、血が滲む。
「知らない方がいい。でも、もうすぐ分かる」
悠が席に座った瞬間、1246号の「自分」は煙のように消えた。文字通り、空気に溶けるように消失した。後には、微かに焦げ臭い匂いだけが残った。
その瞬間、待合室中の「自分たち」が一斉にこちらを向いた。
数十人の自分と目が合う。異様な光景。そして、全員が口々に話し始める。
「まだ座るな」 「もう遅い」 「鍵を思い出せ」 「彼に聞け」 「書くのをやめろ」 「書き続けろ」 「1247で終わる」 「1247で始まる」 「マスターキーは幻想」 「いや、実在する」
声が重なり、訳が分からなくなる。悠は耳を塞いだが、声は頭の中に直接響いてくる。
その時、待合室の隅で、一人だけ違う行動をしている「自分」に気づいた。
No.13だ。白い空間で会った、最初期の記録者。
彼は壁に向かって、何かを必死に書いている。爪で、壁に文字を刻んでいる。血が滲んでいるが、構わず続けている。
近づいて読む。
『システムを理解していない者たちへ』 『これは輪廻だ』 『でも、普通の輪廻じゃない』 『記憶の輪廻』 『書くことで回り、書かないことで止まる』 『でも、止まったら——』
文章はそこで途切れていた。No.13は振り返り、悠を見た。
「君か、1247は」
「また会ったな」
「ああ、時間がループしているからね。過去の俺と未来の俺が同時に存在できる」
No.13は疲れた笑みを浮かべた。
「ここは分岐点だ。全ての記録者が必ず通過する」
そこへ、別の「自分」が割り込んできた。番号札は「892」。
他の記録者とは明らかに雰囲気が違う。疲れてはいるが、どこか達観している。知性的な光が目に宿っている。服装も比較的整っており、手帳も丁寧に整理されている。
「静かに」
892号が言うと、待合室中が黙った。彼には、他とは違う威厳があった。
「君が最新か。なら、まだ分かってないな。ここが何か」
「...何なんだ、ここは」
「待合室さ。次の空間への」
892号は丁寧に説明を始めた。
「俺たちは全員、異なる周回の朝倉悠。異なるルートを辿り、異なる結末を迎えた。しかし全員、ここを通過する。なぜなら、ここが分岐点だから」
「分岐点?」
「そう。ここで選択する。進むか、留まるか。でも——」
892号は受付の奥を指差した。
「見ろ」
奥に扉がある。緑色の非常口の表示。『EXIT』と書かれている。
希望が湧いた。出口だ。悠は立ち上がり、扉に向かって歩き始めた。
しかし、No.13が叫んだ。
「行くな!それは——」
遅かった。
一歩進むごとに、表示の文字が変化する。
『EXIT』
もう一歩。
『EXIST』
さらに一歩。
『EXORCIST』
そして——
『∃×I┴』
最後は意味不明な記号になった。
扉に手をかける。しかし、ドアノブが掴めない。手が素通りする。まるで幻のように。
いや、よく見ると、ドアノブはある。しかし、悠の手が透けている。
「無駄だ」
892号の声。冷静で、分析的な口調。
「1247回、全員が試した。誰も開けられない。なぜなら——」
892号は小さな鍵を取り出した。錆びた、見覚えのある鍵。
「これがないから」
マスターキー。第1章で落とした、あの鍵。
「お前も持ってたろう?最初の空間で」
「...落とした」
「全員そうさ。全員、同じ場所で落とす。まるでプログラムされているように」
892号は鍵を悠に投げた。受け取ろうとするが、鍵は手をすり抜けて床に落ち、そして消えた。
「触れない。過去の遺物だから。俺たちにできるのは、見ることだけ」
892号は続けた。
「俺は892回でようやく理解した。このシステムの本質を」
「教えてくれ」
「いいだろう。時間はある。永遠にな」
892号は隣の席に座った。
「まず、このシステムは生きている。有機的な存在だ。俺たちの記憶、感情、恐怖を食べて成長する」
「No.13も似たようなことを言っていた」
「彼は直感で理解した。俺は分析で理解した。結論は同じだ」
892号は手帳を開いた。びっしりと図表が描かれている。
「見ろ。これが892回分の記録から導き出したシステムの構造だ」
図は複雑だった。円形のノードが網の目のように繋がり、その中心に大きな核がある。
悠は図表を見つめた。最初は意味不明な線と点の集合に見えた。しかし、見続けるうちに、パターンが見えてきた。
まるでパズルのピースが嵌まるように、突然、全体像が理解できた。あの感覚——複雑な数式が解けた瞬間の、脳が痺れるような快感。混沌から秩序が生まれる瞬間の、知的な恍惚。
「これは...美しい」
思わず呟いた。恐怖の中にも、このような純粋な理解の喜びがある。
892号は満足そうに頷いた。
「そう、恐ろしくも美しい。各ノードが一つの空間。迷路、窓の部屋、白い空間...全部で20の基本空間がある。そして、それらは全て中央の核に繋がっている」
「核とは?」
「分からない。誰も到達したことがない。いや、到達した者は帰ってこない」
892号はページをめくった。
「そして、マスターキーについて」
新しいページには、鍵の詳細な図面があった。
「1247個の鍵は、実は一つの鍵の断片だ。全てを集めて組み合わせると、真のマスターキーになる」
「でも、集められない」
「そう。なぜなら、俺たちは必ず落とす。それがシステムのルール」
892号は悠を見つめた。
「でも、例外がある」
「例外?」
「記録者が1247人集まった時、システムに変化が起きる。その瞬間だけ、ルールが書き換え可能になる」
悠の鼓動が速くなった。
「つまり——」
「君が最後だ。1247人目。君が加わることで、システムは完成する。そして、完成の瞬間に——」
892号の体が震え始めた。
「時間だ」
「何の?」
「消える時間だ。俺はもう限界だ。892回分の記憶は重すぎる」
892号の体が透け始める。しかし、彼は最後まで冷静だった。
「聞け。俺が892回で見つけた真実を教える」
「何だ?」
「システムは、俺たち自身だ」
「どういう意味だ?」
「1247人の記録者の集合無意識が、このシステムを作り出している。俺たちの恐怖、希望、絶望が形になったもの。だから脱出できない。自分自身からは逃げられない」
892号はほとんど透明になっていた。
「でも、だからこそ方法がある」
「どんな?」
「受け入れることだ。システムと一体化すること。そうすれば——」
892号は完全に消える寸前、小さく微笑んだ。
「いや、それは君が見つけるべきだ。892回かけて俺が見つけたように」
そして、892号は消えた。
後には、一冊の手帳が残されていた。892回分の詳細な記録。
悠はそれを手に取った。ページをめくると、最後にメッセージがあった。
『理性で理解しても、感情が追いつかない。それが人間の限界。でも、その限界こそが、俺たちの希望かもしれない。
1247へ。君は最後にして最初。全てが君から始まり、君で終わる。
鍵は、落とすものじゃない。 鍵は、君自身だ。
頑張れ。あと16の空間が待っている。
追伸:No.666に会ったら、気をつけろ。彼は違う方法を見つけた。危険だが、ある意味で正しい』
待合室がざわめいた。全員が立ち上がり、悠を見ている。
「1247」 「最後の一人」 「システムが完成する」 「変化が起きる」
床が開き始めた。
悠は892号の手帳を抱え、次の空間へ落ちていく。
待合室の「自分たち」が手を振っている。ある者は祝福し、ある者は同情し、ある者は羨望の眼差しで。
そして、最後に聞こえた声。
誰のものか分からない、しかし確実に自分の声。
「1247が揃った時、真実が明かされる。それが救済か、破滅か、それは——」
声は落下音にかき消された。
次は、圧迫の空間。
892号の警告が頭に響く。
『理性で理解しても、感情が追いつかない』
その意味を、悠はまもなく身をもって知ることになる。