第4話 反響しない空間
落下が止まり、悠は真っ白な立方体の部屋に立っていた。
壁も天井も床も、全てが同じ白。継ぎ目も角も見えないほど完璧な白。まるで光の中に浮いているような、あるいは無の中に放り出されたような空間。
「誰かいるのか!」
悠は叫んだ。しかし、声がおかしい。
反響しない。
普通、閉じられた空間で声を出せば、多少なりとも反響がある。しかしこの部屋では、声が壁に吸収されてしまうかのように、一切の反響がない。まるで声が口から出た瞬間に消えてしまうような感覚。
試しに、壁を叩いてみる。
パン、という音。しかし、音は壁に当たった瞬間に消失する。振動すら返ってこない。
爪で引っ掻いてみる。キィィという不快な音が出るはずだが、これも瞬時に消える。
悠は壁の材質を確認した。一見コンクリートのようだが、触ると微妙に柔らかい。スポンジのような弾力がある。いや、もっと有機的な感触。まるで、生き物の内臓壁のような。
もう一度叫ぶ。
「助けてくれ!」
やはり反響はない。しかし——
数秒後、どこからか声が返ってきた。
「もうすぐ4つ目だ」
悠自身の声だ。しかし、言った覚えのない言葉。しかも声は上からでも横からでもない。まるで空間のあらゆる方向から同時に聞こえてくるような。いや、もっと正確に言えば、頭の内側から響いているような。
「誰だ!」
また数秒の間。
「まだ16個残ってる」
これも悠の声。しかし微妙に違う。疲れている。諦めが滲んでいる。そして、かすかに狂気を帯びている。
恐る恐る、悠は仮説を立てた。これは未来の自分の声なのではないか。この先で自分が発する言葉が、時間を遡って聞こえているのではないか。
「...本当に俺なのか?」
返答は予想外だった。
「違う質問をしろ」
苛立ちを含んだ声。そして続けて、
「なぜ記録する」
「なぜ書き留める」
「それが餌だと知りながら」
餌?第1章の迷路でも同じ言葉を見た。悠は震える手でポケットから手帳を取り出した。黒い表紙の、使い古したモレスキン。記者時代から愛用している。表紙の角は擦れ、ページの端は手垢で黄ばんでいる。
ペンを取り出し、メモを始める。
『3つ目の部屋』 『白い空間』『声が未来から』 『餌という言葉』
書いている最中、奇妙なことに気づいた。
壁が、呼吸している。
よく見ると、白い壁がごくわずかに膨張と収縮を繰り返している。まるで巨大な肺の中にいるような。そして膨張のリズムが、悠の筆記速度と完全に同期している。
ペンを走らせる速度を上げると、壁の膨張も速くなる。止めると、壁も静止する。
試しに、リズムを変えてみる。速く、遅く、また速く。壁が忠実にそのリズムを再現する。まるで、悠の筆記行為そのものが、この空間の呼吸を制御しているかのように。
恐ろしい理解が訪れる。この空間は、悠の記録を文字通り「食べて」成長している。
「やめろ」
天井から声が降ってきた。これも悠の声だが、必死さが滲んでいる。
「記録するな」
「書くな」
「それで大きくなる」
「3メートルが5メートルになった」
「次は10メートル」
「そして100メートル」
しかし悠は書かずにいられなかった。書くことで正気を保とうとする。これは職業病のようなものだ。理解できないことに遭遇した時、とにかく記録する。後で分析する。それがフリーライターとしての習性。
『壁が脈打っている』 『声は全て俺』 『でも時間がずれている』 『壁の脈動と筆記が同期』 『空間が成長する』
書き進めるうちに、壁の一部が大きく膨らんだ。まるで中から何かが押し出そうとしているような。膨らみは人の形に近い。よく見ると、座った姿勢の人影。ノートに何かを書いているような姿勢。
恐怖で手が止まる。すると膨らみも止まる。
再び書き始める。膨らみが再び成長する。
そして気づく。壁の中の人影は、今の悠と全く同じ姿勢をしている。
「そうか...」
悠は理解した。自分の記録が、この空間を「太らせて」いる。記憶や感情や恐怖を文字にすることで、それが空間の栄養になっている。そして、記録する悠自身も、いずれは壁の一部になる。
しかし、理解したところで書くのをやめられない。
むしろ、この発見自体を書き留めたくなる。
『空間は記録を食べる』 『成長する』『有機的』 『俺も栄養になる?』 『でも止められない』 『書くことが存在理由』
天井に亀裂が走った。そこから声が漏れる。今度は複数の声。全て悠の声だが、微妙に年齢が違うように聞こえる。
「1247回」 「同じことの繰り返し」 「書いては忘れ」 「忘れては書く」 「壁の中には1246人」 「全員が記録者」 「全員が餌」
悠は部屋のサイズを測り始めた。歩数で。
1、2、3...8歩。約6メートル。
確かに広くなっている。最初は3メートル四方だったはずが、今は倍になっている。
壁の膨らみが破裂した。
中から紙が舞い散る。手帳のページ。全て悠の字で埋まっている。しかし内容が少しずつ違う。
拾い上げて読む。
『1回目:ここは練獄か』 『156回目:システムが分かってきた』 『623回目:恐怖で3メートル広くなった。本当に広くなった。測った』 『890回目:もう疲れた』 『1245回目:次で最後だと信じたい』
紙の嵐の中、悠は必死に書き続ける。もはや何を書いているのか自分でも分からない。ただ手が勝手に動く。
『記録することは呪い』 『でも記録だけが証明』 『俺がここにいた証明』 『1247番目の証明』
そして、ふと気づく。壁を測ってみる。
また広くなっている。10メートルを超えている。天井も高くなった。最初の倍以上。
本当に恐怖と記録に比例して、空間が成長している。
『記録者No.1247』
書いた瞬間、全ての声が止んだ。
静寂。
完全な静寂。
自分の心臓の音さえ聞こえない。
そして、壁に新たな文字が浮かび上がる。血のような赤い文字。
『認めたな』
『もう戻れない』
『記録者になった』
『システムの一部になった』
壁が大きく波打ち始める。部屋全体が脈動する。まるで巨大な心臓の中にいるような。いや、違う。
悠は気づく。これは心臓ではない。脳だ。巨大な脳の中にいる。それも、自分自身の脳の中に。
記憶が物理的な空間となった場所。そしてその空間は、新たな記憶を食べて成長し続ける。
壁から、また何かが押し出されてくる。
今度は人だ。
壁を破って、一人の男が転がり出てきた。ボロボロの服、伸びた髭、虚ろな目。しかし、顔は悠と同じ。
男は立ち上がれずに、四つん這いのまま咳き込んだ。壁の破片を吐き出している。いや、それは紙片だった。記録の断片。
「やっと...出られた...」
男は呟いた。声は掠れているが、確かに悠の声。そして、悠を見て力なく微笑む。
「俺はNo.13。最初期の記録者の一人だ。まだシステムを理解していない頃の」
No.13は立ち上がろうとするが、足に力が入らない。1200回以上も壁に埋まっていた影響か。悠は彼を支えた。
「なぜ...壁の中に?」
「書きすぎた」
No.13は苦笑した。
「最初は単純だった。異常な状況を記録する。後で読み返せば、脱出の手がかりが見つかるかもしれない。そう思って書き続けた」
彼は壁を撫でた。白い壁に、かすかに人型の跡が残っている。
「でも、気づいた時には遅かった。記録すればするほど、空間が俺を求める。そして、ある臨界点を超えると——」
No.13は自分の手を見つめた。手の甲に、白い斑点がある。壁と同じ質感。
「同化が始まる。最初は皮膚から。次に筋肉、骨、そして意識。でも、完全には同化しない。なぜなら、記録者は記録し続けなければならないから」
「1200回以上...どうやって数えた?」
「壁の中でも意識はある。新しい記録者が来るたびに、カウントした。そして、彼らが書く内容も全て知っている。壁の中では、全ての記録が共有される」
No.13は悠の手帳を指差した。
「君は何を書いている?」
悠は手帳を見せた。びっしりと書き込まれたページ。
No.13は首を振った。
「同じだ。俺も、他の全員も、同じことを書いている。『なぜ』『どうして』『脱出方法』『システムの正体』...でも、答えは出ない」
「なぜ?」
「答えがないからだ。いや、違う。答えは単純すぎて、受け入れられない」
No.13は深呼吸をした。肺の中から、紙片が出てくる。
「このシステムに目的なんてない。ただ、存在している。記録者を食べて成長する、巨大な有機体。それだけだ」
「でも、なぜ俺たちが選ばれた?」
「選ばれたんじゃない。たまたまだ。君は図書館でノートを見つけた。俺は古本屋で見つけた。場所は違うが、同じノート。いや、同じシステムの触手」
No.13は壁に寄りかかった。疲れ切っている。
「知りたいか?俺が1200回で学んだこと」
「...ああ」
「システムを理解しようとするな。理解した気になった時、取り込まれる。ただ、流れに身を任せろ。でも、記録は続けろ。なぜなら——」
No.13の体が透け始めた。
「時間切れか。壁の外にいられるのは、ほんの少しの間だけ」
「待て!」
「最後に一つ。鍵のことだ」
No.13は悠の目を真っ直ぐ見た。
「鍵は落とすものじゃない。最初から、そこにはない。あれは幻想だ。希望という名の幻想。でも、その幻想が俺たちを動かす。記録させる。そして——」
彼は完全に透明になる寸前、小さな鍵を取り出した。錆びた、古い鍵。
「これをやる。俺の1200回分の記憶が詰まった鍵だ。役に立つかは分からないが」
悠は鍵を受け取った。触れた瞬間、1200回分の記憶の断片が流れ込んできた。
同じ迷路を1200回歩く記憶。 同じ窓を1200回見る記憶。 同じ声を1200回聞く記憶。 そして、1200回書き続けた記録。
全てが一瞬で流れ込み、悠の脳を焼き尽くしそうになる。
気がつくと、No.13は消えていた。
後には、小さな紙片が残されていた。
『システムに意味を求めるな。ただ、記録しろ。それが俺たちの存在理由。そして、忘れるな。壁は生きている。お前の記録を食べて成長する。でも、それでいい。少なくとも、何かが残る』
悠は鍵を握りしめた。1200回分の重み。
そして、理解した。
これは脱出ゲームではない。これは、存在の在り方についての問いかけ。
記録することでしか存在を証明できない者たちの、永遠の循環。
壁が再び膨らみ始めた。新たな記録者が、生まれようとしている。
No.14か、それとも別の番号か。
床に亀裂が走る。
落下の準備。もう慣れてしまった。
最後に、未来からの声が聞こえた。
「次は会えるよ」
「1246回目の俺に」
「彼は、まだ希望を持っている」
「哀れだ」
「でも、それが人間だ」
亀裂が広がり、悠は次の空間へと落ちていく。
手帳だけは、しっかりと握りしめて。
そして、No.13の鍵も。
1200回分の絶望と、それでも記録し続けた執念の証を。
記録することの呪縛から、逃れられないまま。
いや、もう逃れる気もないまま。