第3話 窓のない部屋
落下の感覚が消え、悠は固い床の上に立っていた。
目を開けると、正方形の部屋。広さは6畳ほど。特異なのは、四方の壁全てが窓になっていることだった。天井と床だけがコンクリート。照明はないが、窓から差し込む光で薄明るい。
いや、光というより、窓自体が発光しているような。内側から滲み出る、有機的な光。
最初は外の景色が見えるのかと思った。救いを求めて北側の窓に駆け寄る。しかし、そこに映っていたのは——
7歳の自分だった。
押入れの中で泣いている。薄暗い狭い空間で、膝を抱えて震えている幼い悠。かくれんぼの最中、友達が悠のことを忘れて帰ってしまった、あの日。6時間、真っ暗な押入れに閉じ込められた記憶。
「助けて...誰か...」
幼い悠の声が、窓を通して聞こえてくる。まるでテレビ画面のようだが、妙にリアルだ。臨場感がある。押入れの中の埃っぽい匂いまで感じられる。防虫剤の、あの独特な匂い。ナフタリンの刺激臭が鼻を突く。
窓に手を触れた瞬間、ガラスだと思っていた表面が、水のように波打った。
指先が冷たい。そして湿っている。まるで本当に水面に触れているような感触。指を離すと、水滴が手に残っている。
悠は水滴を観察した。普通の水ではない。より粘度が高く、表面張力も強い。まるで涙のような。そして、その水滴をよく見ると、中に何かが浮いている。
記憶の欠片だ。
小さな光の粒子のようなものが、水滴の中で渦を巻いている。そして、その粒子が作る模様が、7歳の時に着ていた服の柄と同じだと気づく。青と白のボーダーシャツ。母が買ってくれた、お気に入りの一着。
試しに、水滴を舌に乗せてみる。
瞬間、記憶が激流のように流れ込んできた。
押入れの中の恐怖だけでなく、その前後の記憶も。友達の顔、遊んでいた公園の風景、母が心配そうに探し回る声、そして——
鍵だ。
押入れの隙間から、小さな鍵が差し込まれていた。7歳の悠はそれに気づいていない。手を伸ばせば届く距離にあるのに。
悠は窓から離れ、深呼吸をした。記憶の奔流に飲まれそうになる。
東の窓に目を向ける。そこには18歳の悠がいた。
大学受験の日。電車のホームで呆然と立ち尽くしている。乗るべき電車を間違えた。気づいた時にはもう遅い。試験会場には間に合わない。人生が狂い始めた瞬間。
「なんで...なんで確認しなかったんだ...」
18歳の悠が膝から崩れ落ちる。その絶望が、まるで今の出来事のように胸を締め付ける。
この窓に触れると、また波紋が広がる。しかし、今度は熱い。18歳の焦りと絶望の熱が、掌を火傷しそうなほどに伝わってくる。
悠は実験を始めた。
まず、窓の材質を調べる。見た目はガラスだが、触ると液体。しかし、手を強く押し付けても貫通はしない。ある程度の深さで抵抗を受ける。まるで、高密度の液体の層があるような。
次に、窓と窓の間の壁を調べる。幅は30センチほど。コンクリートのように見えるが、触ると微かに脈打っている。生きている?いや、窓から染み出した「何か」が壁に浸透している。
壁の継ぎ目を探すが、見つからない。完全に一体化している。まるで、最初からこの形で生成されたかのように。
南の窓に移動する。
病室のベッド。認知症が進行した父が横たわっている。そして、30歳の悠がその横に座っている。
「お父さん、俺だよ。悠だよ」
「...誰だ、あんた」
父の言葉が、鋭い刃のように心を切り裂く。何度も経験した場面。しかし、窓を通して見ると、さらに辛い。客観的に見る自分の無力さ。父の瞳に浮かぶ恐怖と混乱。
そして気づく。父のベッドサイドテーブルに、小さな鍵が置かれている。あの真鍮製の鍵。30歳の悠は気づいていない。見えていないのか、それとも認識できないのか。
悠は窓に両手を押し付けた。
「気づけ!鍵だ!鍵を取れ!」
しかし、30歳の悠には聞こえない。ただ、父の手を握り続けている。
すると、奇妙なことが起きた。
窓の中の30歳の悠が、一瞬、現在の悠と同じ動きをした。窓に手を押し付けるような仕草。まるで、内側からも同じように押しているような。
共鳴?
試しに、右手を上げてみる。窓の中の30歳の悠も、かすかに右手が動いた。完全にシンクロはしないが、影響は与えられる。
西の窓は、真っ暗だった。
何も見えない。ただの暗闇。しかし、じっと見つめていると、暗闇の中で何かが動いている。少しずつ、輪郭が見え始める。
それは、現在の悠だった。しかし、様子がおかしい。
顔が、溶けている。
目鼻立ちが歪み、皮膚が垂れ下がり、人間の形を保てなくなっている。まるで蝋人形が熱で溶けるように。その悠が、ゆっくりとこちらを向く。口が動く。
「これが...未来...」
溶けた顔から、声が漏れる。いや、声というより、空気が抜けるような音。
「でも...美しい...」
溶けた悠は、恍惚とした表情を浮かべている。苦痛ではなく、解放感に満ちた表情。
「形から...解放される...」
そして、溶けた悠の手には、鍵の束が握られている。何百、何千という鍵。重みで手が垂れ下がり、鍵の先端が床を引きずっている。金属が擦れる音が、窓を通して聞こえてくる。
恐怖で後ずさりした時、背中が北の窓に触れた。
瞬間、7歳の記憶が激流のように流れ込んでくる。
暗闇。狭さ。息苦しさ。助けを呼んでも誰も来ない絶望。時間の感覚を失い、ここで死ぬのではないかという恐怖。
しかし、今回は違う感覚もある。
記憶の中で、悠は動くことができた。
7歳の自分とは別に、現在の意識を持ったまま、押入れの中にいる。二重の視点。7歳の恐怖を感じながら、同時に冷静に観察できる。
押入れの隙間から差し込まれた鍵に手を伸ばす。7歳の自分には届かないが、現在の意識なら——
指先が鍵に触れた。
瞬間、押入れが明るくなった。いや、光っているのは鍵だ。温かい光を放ち始めた鍵が、押入れの闇を照らす。
7歳の悠が、驚いて顔を上げる。
「光ってる...」
希望に満ちた声。恐怖が和らいでいく。
そして、現在の悠は理解した。
過去は変えられないが、過去の認識は変えられる。記憶の中の苦痛に、新たな意味を与えることができる。
窓から手を離すと、7歳の悠は再び暗闇に包まれた。しかし、その表情は先ほどとは違う。かすかな希望を宿している。
「誰かいる...」
7歳の悠が呟いた。
「僕を見てる人がいる...」
それは、現在の悠のことだった。
四つの窓を順番に触れ、実験を続ける。
北の窓(7歳):触れると寒い。恐怖の冷たさ。 東の窓(18歳):触れると熱い。焦燥の熱さ。 南の窓(30歳):触れると重い。諦めの重さ。 西の窓(未来):触れると軽い。解放の軽さ。
そして気づく。四つの窓は、単なる記憶の展示ではない。これは、悠という存在を構成する四つの要素。
恐怖、焦燥、諦め、解放。
この四つが合わさって、現在の悠を形作っている。
試しに、四つの窓に同時に触れてみる。
両手両足を使い、四つの窓に同時に接触する。体を大の字に広げ、まるで磔にされたような姿勢。
瞬間、全ての記憶が混ざり合った。
7歳の押入れの中で、18歳の悠が電車を待っている。病室のベッドで父が「かくれんぼ」と呟く。溶けた顔の悠が、幼い声で泣いている。
時間も場所も因果関係も崩壊した、混沌とした記憶の渦。
その中で、一つだけ明確なものがあった。
鍵だ。
どの記憶にも、どこかに鍵が存在している。それらは全て同じ鍵。しかし、それぞれの時間での意味が違う。
7歳にとっては、希望の光。 18歳にとっては、別の道への扉。 30歳にとっては、父との繋がり。 未来の自分にとっては、形からの解放。
そして現在の悠にとっては——
「これは、俺自身だ」
悠は理解した。鍵は物理的な道具ではない。それは、悠という存在の核心。どの時間にも存在し、どの記憶にも刻まれている、変わらない本質。
だから、落としてしまう。
握ろうとすればするほど、手から滑り落ちる。
なぜなら、それは既に悠の内側にあるから。外側に求める必要はない。
四つの窓が、激しく振動し始めた。
まるで悠の理解に呼応するかのように。
そして、窓の映像が変化した。
全ての窓に、同じ光景が映っている。
この部屋だ。
四方の窓全てに、この部屋にいる悠が映っている。そして、その悠の周りの窓にも、また同じ部屋が映っている。無限に続く鏡合わせ。
合わせ鏡の回廊。永遠に続く入れ子構造。
その中の一つの悠が、手を振った。
よく見ると、その悠は何かを持っている。
鍵だ。
しっかりと握りしめている。落とさずに。
別の悠が、文字を書いている。窓の表面に、指で。
『次は声だ』 『聞こえるものを信じるな』 『記録が残る場所へ』
床が再び抜ける。今度は落下の恐怖にも慣れてしまった自分に、悠は別の恐怖を感じた。
適応してしまっている。
この異常な状況に。
窓の実験で得た理解も、次の空間では通用しないかもしれない。
しかし、一つだけ確かなことがある。
鍵は、既に自分の中にある。
落とすことも、拾うことも、全ては己の内面で起きている出来事。
その理解を胸に、悠は次の空間へと落ちていく。
そして、微かに聞こえる声。
誰かが、悠の名前を呼んでいる。
しかし、それは外からの声ではない。
内側から、記憶の底から響く声。
1246人の、自分自身の声。