第24話 後日談『妹の決意』
朝倉結衣は、兄の部屋の前で立ち尽くしていた。
失踪から3ヶ月。警察の捜査は事実上打ち切られ、両親も諦めかけている。しかし、結衣だけは諦めていなかった。いや、諦められなかった。
「悠兄...どこにいるの...」
23歳の結衣は、兄とは2歳差。幼い頃から、優しい兄の背中を追いかけてきた。大学では兄と同じジャーナリズムを専攻し、今は地方新聞社で記者として働いている。取材の技術も、文章の書き方も、全て兄から学んだ。
ドアノブに手をかける。ひんやりとした金属の感触。3ヶ月間、誰も入っていない部屋。両親は「そっとしておこう」と言うが、結衣は何か手がかりがあるはずだと信じていた。
部屋は、失踪当日のまま保存されていた。
机の上には開かれたノートパソコン。画面は暗いが、電源は入ったまま。その横に、使いかけのノートが数冊。悠愛用のモレスキン。表紙の角は擦れ、手垢で黒ずんでいる。
結衣は慎重に部屋に入った。兄の匂いがかすかに残っている。煙草は吸わないが、独特の、インクと紙が混じったような匂い。記者特有の匂いだと、結衣は思っていた。
ノートパソコンのマウスを動かすと、画面が点いた。
最後に開いていたのは、Wordの文書。タイトルは『取材メモ_廃旅館_最終日』。日付は6月9日。失踪した日だ。
スクロールしていくと、普通の取材メモに混じって、奇妙な記述があった。
『女将の話、80年の歴史。でも、どこかで聞いたような...既視感?いや、これは』
『地下通路の件、要確認。女将は「近道」と言ったが、地図にない。なぜ?』
『また1247。この数字、最近よく見る。偶然にしては』
『夢の中で鍵を落とす。毎晩同じ夢。取材疲れか?』
結衣の背筋が冷たくなった。1247という数字。確かに、兄は失踪前、この数字に異常なほど執着していた。
机の引き出しを開ける。そこには、結衣の知らないものがあった。
古い鍵の束。
数えてみると、17個。全て同じ形の真鍮製の鍵。しかし、錆び方が異なる。新しいもの、古いもの、そして——
「これ...血?」
一つの鍵に、茶色い染みがついていた。乾いた血のような。
鍵束の下に、一冊の本があった。
『記憶の残滓』
黒い表紙。著者名はない。出版社の記載もない。まるで、自費出版の同人誌のような作り。しかし、造本は驚くほど丁寧で、ページの紙質も上等だった。
パラパラとめくると、あちこちに兄の書き込みがある。
『これは俺だ』(7ページ) 『なぜ知っている?』(34ページ) 『1247の意味が分かってきた』(89ページ) 『逃げられない』(156ページ) 『美しい』(最終ページ)
結衣は本を最初から読み始めた。
司書の田中が発見したノート。1247人の記録者。朝倉悠という名前。
「え...?」
主人公の名前が、兄と同じだった。
いや、同じなだけではない。職業も、年齢も、全てが一致している。まるで、兄をモデルにした小説のように。
しかし、読み進めるうちに、奇妙な感覚に襲われた。
これは、兄「について」書かれた物語ではない。兄「が」書いた物語でもない。
兄「そのもの」が物語になっているような...
ページをめくる手が震え始めた。
物語の中の朝倉悠が体験していることが、あまりにもリアルだった。押入れの恐怖、父の認知症、フリーライターとしての焦り。全て、結衣が知っている兄の人生と重なる。
「これ...本当に小説なの?」
ふと、部屋の壁を見ると、小さな傷があった。
爪で引っ掻いたような跡。よく見ると、文字のように見える。
『た す け て』
震える指で、壁の文字をなぞる。確かに兄の筆跡だ。いつ書いたのか。なぜこんなところに。
本を持ったまま、部屋を詳しく調べ始めた。
ベッドの下に、ノートが落ちていた。兄の手帳とは違う、安っぽい大学ノート。
開くと、びっしりと数字が書かれていた。
『1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12...』
延々と数字が続く。そして、ところどころに赤いインクで印がついている。
『47,124,247,471,712,1247...』
1247が含まれる数字に、全て印がついていた。
そして、最後のページ。
『妹へ
これを見つけたということは、俺はもう戻れないんだろう。
信じられないかもしれないが、これから書くことは全て真実だ。
『記憶の残滓』は、ただの小説じゃない。読んだ者を取り込む、生きた物語だ。
俺は1247番目の記録者になった。いや、なってしまった。
今、別の空間にいる。出口のない迷路、記憶の部屋、時間のない場所。全てが実在する。
でも、結衣、来るな。
俺を探すな。
これは呪いだ。読んだ者は必ず——』
文章はそこで途切れていた。まるで、書いている途中で何かに妨害されたかのように。
結衣は本を見つめた。
兄の警告は分かる。危険だということも理解できる。
しかし——
「悠兄...私も記者よ」
結衣は決意を固めた。真実を知らずに諦めることはできない。たとえそれが、取り返しのつかない選択だとしても。
ページを開く。最初から、じっくりと読み始める。
『プロローグ 記録者の序文
これは、わたしが記したもの。いや——』
読み始めて数行で、異変が起きた。
部屋の照明が、不規則に明滅し始めた。まるで、物語のリズムに合わせているかのように。
そして、ポケットの中で、何かが重みを持った。
恐る恐る手を入れると——
鍵があった。
見覚えのない、錆びた真鍮製の鍵。さっきまでなかったはずの鍵が、当たり前のようにそこにある。
「もう...始まってる...」
結衣は鍵を握りしめた。手汗で金属が温まる。
そして気づく。机の上の鍵束を見ると、18個に増えていた。
結衣が今握っている鍵と、全く同じものが。
時計を見る。午後3時15分。
いや、違う。秒針が止まっている。いつから?
カチ、と音がして、秒針が動いた。しかし、逆回りに。
3時14分59秒、58秒、57秒...
「時間が...」
慌てて立ち上がろうとして、足がもつれた。
見ると、足首に赤い線が浮かび上がっている。何かに縛られていたような跡。でも、何も縛っていない。
鏡を見る。
自分の顔のはずなのに、どこか違う。よく見ると、瞳孔が異常に開いている。そして、瞬きの回数が減っている。
意識すると、余計に瞬きができなくなる。
本のページが、勝手にめくれ始めた。
風もないのに、まるで見えない誰かがページをめくっているかのように。
そして、ある場所で止まった。
『第1章:出口のない迷路』
文字が、浮き上がって見える。いや、実際に浮き上がっている。立体的に、文字が紙面から飛び出してくる。
部屋の壁が、揺らぎ始めた。
壁紙の模様が動き、渦を巻き、そして——
コンクリートの壁に変わった。
薄暗い蛍光灯。冷たい床。そして、どこまでも続く通路。
振り返ると、兄の部屋はもうない。
ただ、同じような通路が続いているだけ。
「嘘...本当に...」
手には、まだ『記憶の残滓』を持っている。そして、ポケットには鍵。
ふと、壁を見ると、文字が刻まれていた。
新しい傷。まだ、削りカスが床に落ちている。
『ようこそ、1248番目』
そして、その下に小さく。
『悠より』
兄の字だった。
いや、よく見ると、その周りにも無数の文字が。全て「朝倉悠」の署名。しかし、筆跡が微妙に異なる。
若い悠、老いた悠、疲れた悠、狂った悠。
1247人の悠が、新しい記録者を出迎えている。
結衣は深呼吸をした。
恐怖はある。しかし、それ以上に、兄に会いたい気持ちが強い。
「悠兄...今行くから」
一歩、前に踏み出す。
靴音が、不気味に響く。
そして、気づく。
自分の他にも、足音がする。
たくさんの足音。歩く音、走る音、引きずる音。
見えないが、確かにこの迷路には、他の存在がいる。
1247人の記録者たち。
そして今、1248人目が加わった。
妹として、記者として、そして新たな記録者として。
結衣は、兄の痕跡を追い始めた。
迷路の奥から、かすかに声が聞こえる。
「結衣...来ちゃったのか...」
兄の声。しかし、どこか遠い。幾重にもエコーがかかったような、空洞のある声。
「でも...待ってた...」
「1248では...足りない...」
「本当の完成には...」
声が途切れる。
結衣は歩き続ける。
そして、ふと気づく。
自分も、いつの間にか記録を始めていた。
壁に、爪で文字を刻みながら。
『記録者No.1248:朝倉結衣 第1日目 兄を探す』
止めようとしても、手が勝手に動く。
記録者の呪い。いや、本能。
書かずにはいられない。
なぜなら、それだけが、存在の証明だから。
通路の奥に、扉が見えてきた。
古い木製の扉。そこに真鍮のプレートがある。
『待合室』
結衣は、躊躇なく扉を開けた。
兄に会うために。
たとえ、そこで待っているのが、1247人の兄だとしても。