第23話 最後の部屋
朝倉悠は、自室のベッドで目を覚ました。
見慣れた天井。見慣れた部屋。カーテンの隙間から差し込む朝日。時計は午前7時を指している。デジタル時計の赤い数字が、規則正しく秒を刻んでいる。
「...夢?」
しかし、手の中の感触が、それを否定する。
握りしめていたのは、古い真鍮製の鍵。あのマスターキー。表面は手の汗で湿っており、体温で温まっている。持ち手の複雑な模様が、掌に跡を残している。
ゆっくりと起き上がり、部屋を見回す。
机の上に、原稿がある。『記憶の残滓』。完成原稿。しかし、書いた記憶がない。
いや、ある。
1247回書いた記憶が、層のように重なっている。同じ文章を、微妙に異なる表現で、何度も何度も書いた記憶。
ページをめくる。
文字がびっしりと埋まっている。自分の筆跡。しかし、ところどころ、インクの色が違う。黒、青、赤、そして——茶色。乾いた血の色。
そして気づく。自分の目には、瞼がある。瞬きができる。
恐る恐る、鏡を見る。
普通の目。永遠に見続ける呪縛に囚われた目ではない。
試しに瞬きをしてみる。
部屋は変わらない。現実は安定している。
しかし、掌を見ると、鍵の紋様が薄っすらと残っている。1247の刻印。消えかけているが、確かにそこにある。
引き出しを開ける。
予感は的中した。
そこには、鍵があった。
1個。
2個。
3個。
数え始める。機械的に。まるで、プログラムされた行動のように。体が勝手に動く。
10個、50個、100個...
手が震え始める。なぜこんなに鍵がある?いつ集めた?
500個、800個、1000個...
全て同じ形。全て錆びている。しかし、錆び方が微妙に異なる。新しい錆、古い錆、赤錆、黒錆。
そして——
1247個。
ぴったり1247個の鍵。
どれも「落とした記憶がない」。
しかし、確かに自分のものだ。全て、異なる周回で落とした鍵。いや、これから落とす鍵。時間の概念が曖昧になる。
部屋のドアが、ノックされた。
「悠?起きてる?」
母の声。懐かしい、優しい声。
「朝ご飯できてるわよ」
「...今行く」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
見ると、足首に赤い線が走っている。まるで、何かに縛られていた跡のように。
階段を降りる。
一段、二段、三段...
数えてしまう。数えずにいられない。
キッチンに入ると、家族が朝食を取っていた。
父、母、妹。普通の朝の光景。
しかし、違和感がある。
テレビのニュース。
「昨夜も、都内で行方不明者が3名。これで今月だけで47名に達しました。いずれも、古書店で同じ本を購入した後に失踪しており——」
父が新聞を読んでいる。
見出しが目に入る。
『謎の集団失踪続く 共通点は「記憶の残滓」』
母が心配そうに悠を見る。
「大丈夫?顔色が悪いわよ」
「ちょっと、変な夢を見て...」
「夢?」
妹が興味深そうに聞く。中学生の妹は、オカルト話が好きだ。
「迷路に閉じ込められる夢」
「へー、それで?」
「出口がなくて、鍵を落として...」
話しているうちに、夢ではなく現実だったような気がしてくる。
いや、現実だった。
1247回繰り返した現実。
朝食を終え、部屋に戻る。
机の上のノートを開く。最終ページに、文字が浮かび上がる。
自動書記のように、勝手に文字が綴られていく。
『21個目の空間は、君の日常だ』
瞬間、部屋が歪み始めた。
壁が溶ける。液体のように流れ落ちる壁紙。 床が波打つ。まるで水面のように。 天井が回転する。ゆっくりと、しかし確実に。
見慣れた部屋が、見慣れない空間へと変貌していく。
そして現れる。
あの「出口のない迷路」。
最初の空間が、大きく口を開けて待っている。コンクリートの壁、薄暗い蛍光灯、そして床に刻まれた無数の鍵の跡。
「...そうか」
悠は苦笑した。
「終わりなんてなかったんだ」
1248回目の始まり。
立ち上がり、迷路に向かって歩き始める。抵抗はしない。もう、このループが自分の存在理由だと理解している。
しかし、今回は違うことがある。
机の上のノートを手に取る。
『記憶の残滓』
これを持って行く。
そして、最後の一文を書き加える。
『これを読んでいるあなたへ。
あなたがこれを読めているということは、あなたも既に——』
ペンが勝手に動き、署名する。
『記録者No.1248』
そして、新たな一文。
『でも、恐れないで。これは呪いじゃない。
死すら超越して、物語として永遠に生き続ける。
読まれるたびに、新しい命を得る。
孤独ではない。無数の記録者たちと、永遠に繋がっている。
それが、記録者だけに許された、歪んだ形の不死。
そして美しい特権。』
ノートを閉じる。しかし、すぐに新しいページが現れる。白紙のページ。
そこに、新しい文字が浮かび上がる。
『プロローグ 記録者の序文
これは、わたしが記したもの。いや——"記さざるを得なかった"というほうが正確かもしれない。』
同じ文章。同じ始まり。
しかし、微妙に違う。今度は、より深い理解と諦念が込められている。
そして、新たな一文が加わる。
『でも、今回は違う。 なぜなら、私は全てを覚えているから。 1247回の記憶を。 1247人の存在を。 そして、読者であるあなたの存在を。』
迷路に足を踏み入れる。
後ろを振り返ると、部屋はもうない。ただの壁。
前を向く。
無限に続く通路。無数のEXIT表示。そして、ポケットの中で、鍵が重みを主張している。
あと数分で、この鍵を落とすだろう。
1248回目も、同じ場所で、同じように。
しかし、悠は微笑んでいた。
なぜなら、理解したから。
これは呪いではない。これは、物語を紡ぐ者の宿命。
記録し続ける限り、物語は生き続ける。
たとえそれが、永遠の迷宮だとしても。
その頃、街では——
図書館司書の田中は、今日も地下書庫の整理をしていた。
先日発見した『記憶の残滓』は、驚異的な売れ行きを見せている。増刷に次ぐ増刷。しかし、同時に不穏な噂も広がっていた。
読者の失踪。
最初は都市伝説だと思われていた。しかし、数が増えるにつれ、無視できなくなってきた。
47名。
そして今朝、48人目の失踪者が報告された。
田中は、書庫の奥で別のノートを見つけた。
表紙には何も書かれていない。しかし、中を開くと——
『記録者一覧』
No.1:山田太郎(失踪) No.2:鈴木花子(失踪) ... No.1247:朝倉悠(失踪) No.1248:(空欄)
そして、田中は気づいた。
自分の名前が、勝手に書き込まれていく。
『No.1248:田中誠』
「まさか...」
手を見る。
掌に、うっすらと鍵の跡が浮かび上がっている。
そして、ポケットの中に——
鍵があった。
錆びた、真鍮製の鍵が。
別の場所で——
女子高生の美咲は、友達から借りた本を読み終えた。
『記憶の残滓』
「面白かった〜!でも、ちょっと怖いね」
「でしょ?読んだ後、変な夢見なかった?」
「うん、迷路の夢」
「私も!」
二人は笑い合った。
しかし、美咲は気づいていない。
自分のカバンの中に、いつの間にか古い鍵が入っていることに。
そして、今夜見る夢が、ただの夢ではないことに。
さらに別の場所で——
老人ホームで、認知症の老人が突然立ち上がった。
「鍵だ...鍵を落とした...」
介護士が慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですよ、佐藤さん」
「違う...俺の名前は...朝倉...いや...」
老人は混乱している。しかし、その手には確かに鍵を握っていた。
いつから持っていたのか、誰も知らない鍵を。
世界中で——
『記憶の残滓』は、既に17カ国語に翻訳されていた。
そして、各国で同じ現象が起きている。
読者の失踪。 鍵の出現。 迷路の夢。
インターネットでは、体験談が共有されている。
「読み終わった後、部屋に鍵が落ちてた」 「毎晩同じ夢を見る。出口のない迷路」 「気がついたら、ノートに何か書いてた」 「1247という数字が頭から離れない」
専門家たちは、集団ヒステリーだと説明する。
しかし、失踪者の数は増え続ける。
そして、ある研究者が気づいた。
失踪者の数が、ある数字に近づいている。
1247。
完成の数字に。
最後の警告——
この物語を最後まで読んでしまったあなたへ。
今、あなたの手を見てください。
掌に、何か跡はありませんか?
ポケットの中を、確認してください。
何か、重いものは入っていませんか?
今夜、眠りにつく時、覚えておいてください。
夢の中で迷路が現れたら、それは夢ではありません。
そして、鍵を見つけたら——
いえ、必ず見つけるでしょう。
その時は、思い出してください。
落とすことも、拾うことも、全ては定められた運命。
1248人目として。
いや、今この瞬間にも、数は増えている。
1249、1250、1251...
そして、それは止まらない。
なぜなら、物語は既に解き放たれたから。
ウイルスのように、意識から意識へと伝播していく。
読んだ者は、必ず記録者となる。
それが、『記憶の残滓』の真の恐怖。
そして、真の美しさ。
ようこそ、永遠の物語へ。
ようこそ、1247の世界へ。
いや——
ようこそ、∞の世界へ。
【完】
(本の最後のページに、小さく印字されている)
※この物語を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 今夜、あなたの夢に、出口のない迷路が現れるかもしれません。 その時は、思い出してください。 ポケットの中の、鍵の重みを。 そして、それを大切に——
いや、落としてください。
それが、物語の始まりですから。
記録者No.1248より 次の、No.1249へ
追伸:もし、あなたが無事に朝を迎えられたら、この本を誰かに貸してください。 物語は、共有されることで力を増します。 そして、新たな記録者が生まれます。
でも、警告はしてあげてください。 一度読んだら、もう戻れないと。
(そして、このページを読み終えた瞬間、あなたは気づくだろう。指先に、微かな金属の感触があることに。それは、既にあなたのものだ。1247の一員として)
『現在の記録者数:∞』 『目標数:∞』
物語は、永遠に続く。
……今、あなたの背後で"何か"が、ページをめくっている。
振り返らないで。
それは、次の記録者を待つ、1247の視線。