第20話 繰り返す自己紹介の教室
透明な存在となった悠は、小学校の教室に流れ着いた。分割された意識が、再び一つの視点に収束している。しかし、もはや実体はない。純粋な観察者として、この空間に存在している。
懐かしい木の机、黒板、掲示物。窓から差し込む午後の光は金色で、埃の粒子がゆっくりと舞っている。チョークの匂い、木製の床の軋む音、全てが記憶の中の教室そのものだった。しかし、異様なのは生徒たちだった。永遠に見続ける呪縛を受けた目が、その異常な光景を永遠に記録し続ける。
30人ほどの生徒。全員が、朝倉悠。
しかし、それぞれが微妙に異なっている。
最前列の悠:スーツ姿、疲れ切った表情、手には名刺 2列目の悠:作業着、手は土で汚れている、別の人生を歩んだ悠 3列目の悠:白衣、聴診器を首にかけている、医者になった悠 窓際の悠:ボロボロの服、しかし目は輝いている、芸術家の悠 最後列の悠:軍服、厳格な表情、規律の中で生きた悠
年齢も服装も微妙に異なるが、顔は全て同じ。そして全員が、順番に立ち上がり、自己紹介をしている。
「朝倉悠です。5回目です」
声は単調で、機械的。座る。次の生徒が立つ。
「朝倉悠です。78回目です」
声のトーンが少し違う。疲労が滲んでいる。
また座る。また立つ。
「朝倉悠です。321回目です」
今度は諦念が感じられる声。
延々と続く自己紹介。全員が自分の名前と、回数を告げる。それだけ。
しかし、透明な悠は気づいた。
回数が増えるごとに、自己紹介の内容が変化している。
「朝倉悠です。456回目です。記者でした」
過去形。かつての職業を思い出している。
「朝倉悠です。567回目です。記者...だったような気がします」
記憶が曖昧になっている。
「朝倉悠です。678回目です。何か...書いていたような...」
さらに曖昧に。
「朝倉悠です。789回目です。名前は...確か...悠...」
名前すら不確かになっていく。
そして、回数が進むにつれて、生徒たちの顔が変化していることにも気づいた。
500回目以下:まだ個性的な顔立ち 800回目前後:顔の特徴が薄れ始める 1000回目以上:のっぺらぼうに近づく
顔だけではない。声も変化している。
初期:それぞれ異なる声質 中期:似通った声になる 後期:全員同じ声
さらに、自己紹介の言葉自体も変質していく。
「朝倉悠です。891回目です。朝倉...は姓?名?」
アイデンティティの崩壊。
「...です。923回目です。音...あさくら...ゆう...」
言葉が音の羅列に。
「アサクラユウ。956回目。アサ...クラ...ユ...ウ...」
音素への分解。
教壇には、教師がいる。これもまた、悠。しかし、ひどく疲れた顔をしている。黒板には既に無数の名前が書かれている。全て「朝倉悠」。しかし、筆跡が全て異なる。
「はい、次の方」
教師の悠が促す。声は枯れている。何千回も同じ言葉を繰り返したような。
「朝倉悠です。1034回目です」
立ち上がった生徒の顔は、既に目と口の区別がつかない。
「はい、次」
「朝倉悠です。1102回目です」
この生徒は、もはや顔がない。完全なのっぺらぼう。
数字が大きくなるにつれ、生徒たちの様子がより異様になっていく。
1100番台:顔がない 1150番台:体の輪郭も曖昧 1200番台:半透明 1240番台:ほぼ透明
そして、最後の一人。
席は、窓際の後ろから2番目。悠がかつて座っていた席。
その生徒は立ち上がらない。
いや、そこには誰もいない。
ただ、空気が微妙に歪んでいる。
「君の番だよ」
教師が促す。
空気の歪みが、かすかに震えた。
そして、黒板に文字が浮かび上がった。
誰も書いていないのに、チョークの文字が現れる。
『朝倉悠です。1247回目です』
教室中がざわめく。
「見えない生徒」 「でも、確かにいる」 「透明な記録者」 「最後の一人」
教師が言う。
「なるほど、君が最後か」
黒板に、さらなる文字が現れる。
『私はもう、個人ではありません』
生徒たちが一斉に立ち上がった。
「どういう意味だ?」
透明な悠の意識が、黒板に文字を刻み続ける。
『私は1247の破片の集合体』 『全ての記憶を持つ者』 『そして、誰でもない者』
教室が静まり返る。
そして、恐ろしい光景が始まった。
生徒たちの顔が、完全に消え始める。
最初は5回目の生徒。まだ希望を持っていた顔が、のっぺらぼうになる。
次は78回目。疲れた顔が消える。
321回目、456回目、567回目...
次々と顔が消えていく。しかし、彼らは平然と座っている。まるで、それが当然のことのように。
「これが君たちの未来だ」
教師が、透明な悠に向かって話しかける。いや、もはや教師の顔も消えかけている。
「自己紹介を繰り返すうち、自己そのものを失う。名前と番号だけの存在になる」
のっぺらぼうたちが、再び自己紹介を始める。
しかし、今度は異なっていた。
「朝倉悠です。1回目です」 「朝倉悠です。2回目です」 「朝倉悠です。3回目です」
リセットされた。また最初から。
しかし、よく聞くと、微妙に違う。
「朝倉悠...だったはずです。1回目です」 「名前があったはずです。2回目です」 「何かがあったはずです。3回目です」
記憶の残滓。完全には消えない、かすかな痕跡。
透明な悠は理解した。
これは永遠に続く。全員が同じ自己紹介を繰り返し、その度に少しずつ自己を失っていく。
そして、完全に失った時、また最初から始まる。
しかし、完全なリセットではない。
どこかに、前回の記憶が残っている。
層のように積み重なる記憶。
最終的に残るのは、名前と番号だけ。
それでも、自己紹介は続く。
なぜなら、それしかできないから。
それが、彼らの存在理由だから。
黒板に、新たな文字が浮かぶ。
『でも、私は違う』
のっぺらぼうたちが、その文字を見つめる。
『私は全てを記憶している』 『失うものがない』 『なぜなら、既に全てを失ったから』 『そして、全てを得たから』
教師が微笑んだ。顔はないが、微笑んでいることが分かる。
「そうか、君は『卒業』したんだね」
透明な悠の意識が応える。
『はい』 『でも、卒業とは』 『新たな始まりでもある』
教室の時計が動き始めた。
3時15分だった針が、ゆっくりと進む。
止まっていた時間が、動き始めた。
のっぺらぼうたちが、驚いたように顔を上げる。
顔はないが、希望を感じているのが分かる。
「時間が...動いた...」
「変化が...起きた...」
透明な悠の存在が、システムに変化をもたらした。
黒板に最後の文字が浮かぶ。
『さようなら』 『そして』 『はじめまして』
自己紹介の、新しい形。
別れと出会いが同時に存在する言葉。
教室が光に包まれる。
のっぺらぼうたちの顔が、少しずつ戻り始める。
薄っすらと、輪郭が現れる。
個性が、少しずつ蘇る。
しかし、完全には戻らない。
なぜなら、それも含めて、彼らの歴史だから。
そして、彼らは新たな自己紹介を始める。
「私は...誰だったか覚えていません。でも、ここにいます」
「名前は失いました。でも、存在しています」
「番号だけが残りました。でも、それも私の一部です」
進化した自己紹介。
失ったものを認め、それでも存在を主張する言葉。
透明な悠は、満足と共に次の空間へ流れていく。
最後の教室へ。
時間の教室へ。