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第2話 出口のない迷路

フリーライターの朝倉悠は、午前2時を回った深夜、ようやく取材を終えて地下鉄の駅に向かっていた。


廃業が決まった老舗旅館の最後の夜。女将の思い出話は尽きることがなく、気がつけば終電もとうに過ぎていた。取材ノートには、びっしりと証言が記録されている。80年の歴史、三代にわたる家族の物語、そして避けられなかった廃業への道。悠の指先は、長時間の筆記でじんじんと痛んでいた。


タクシーを拾おうと大通りに出るため、普段は使わない地下通路に入る。旅館の女将が教えてくれた近道だ。


「こんな通路あったっけ?」


薄暗い蛍光灯の下、コンクリートの壁が続く。天井は低く、身長175センチの悠がようやく立てる程度。手を伸ばせば天井に触れる。幅も狭い。両手を広げれば壁に届きそうだ。すれ違うのがやっとだろう。深夜ということもあり、人影はない。


足音が響く。カツ、カツ、カツ。規則的なリズム。


コンクリートの壁をよく見ると、ところどころに奇妙な傷がある。爪で引っ掻いたような跡。いや、よく見ると文字のようにも見える。しかし、暗くてはっきりとは読めない。スマートフォンのライトで照らしてみる。


『たすけ』


掠れた文字。途中で途切れている。まるで書いている途中で力尽きたかのように。


不気味だが、いたずらだろう。悠は先を急いだ。


5分ほど歩いただろうか。分岐も階段もない、ただまっすぐな通路。そろそろ地上への出口があるはずだが、見当たらない。


壁を見ると、ところどころに「EXIT」の表示がある。緑色の、見慣れた非常口のマーク。しかし、表示の下には扉がない。ただの壁。


「工事中か?」


悠は壁を叩いてみた。コンコンと乾いた音。中は空洞ではなさそうだ。念のため、拳で強く叩く。鈍い音。分厚いコンクリートの壁だ。


天井を見上げる。もしかしたら、非常口は上にあるのかもしれない。ジャンプして手を伸ばすが、特に開口部は見当たらない。ただの平坦な天井。


苛立ちを覚えながら、来た道を戻ろうとした。しかし、振り返った瞬間、息を呑んだ。


通路が、壁で塞がれている。


確かに今通ってきたはずの道が、コンクリートの壁になっている。手で触れる。冷たく、硬い。間違いなく実体のある壁だ。


いや、待て。よく触ると、コンクリートがまだ微かに温かい。そして、表面がわずかに湿っている。まるで、ついさっき生成されたばかりのような。いや、それどころか、触っている間にも壁が固まっていくような感覚がある。


「なんだこれ...」


悠は壁を押してみた。びくともしない。肩で体当たりしても同じ。爪で引っ掻いてみるが、固いコンクリートに爪が負ける。


動悸が速くなる。スマートフォンを取り出すが、圏外。GPSも機能しない。画面には見慣れないエラーメッセージ。


『位置情報:存在しない座標』


Wi-Fiも検知しない。Bluetoothも反応なし。まるで、電波そのものが遮断されているかのよう。


前に進むしかない。


通路は単調に続く。同じような壁、同じような天井、同じような床。しかし、10分ほど歩いた時、異変に気づいた。


床に、何かが落ちている。


小さな真鍮製の鍵。拾い上げると、ずっしりと重い。普通の鍵の3倍は重量がある。持ち手には複雑な模様が彫られている。ケルト文様のような、あるいは曼荼羅のような幾何学模様。触れた瞬間、掌に奇妙な感覚が走った。


温かい。


いや、温かいというより、鍵が悠の体温を吸収して、それを記憶しているような感覚。まるで生きているかのよう。


ポケットに入れようとした時、指が滑った。


鍵が手から落ちる。


カラン...


金属音を立てて床に落ちた鍵を拾おうとしたが、なぜか上手く掴めない。まるで鍵が悠の手を避けているかのように、指の間をすり抜ける。


必死に両手で押さえ込むようにして、ようやく拾い上げた。今度こそポケットに——


また落ちた。


今度は落ちた場所を見失った。暗い床に、鍵が紛れてしまった。四つん這いになって探す。


ない。確かにこの辺りに落ちたはずなのに。


床を詳しく調べると、小さな排水口があった。格子状の蓋。その隙間に、鍵が挟まっている。いや、違う。排水口に吸い込まれる途中だ。


慌てて指を突っ込むが、届かない。鍵は重力に引かれて、どんどん深く落ちていく。カラン、カラン...金属音が、深い竪穴に響いて消えていく。


「くそっ!」


悠は排水口を調べた。蓋は固定されていて外れない。隙間から覗き込むと、真っ暗な縦穴が続いている。深さは分からない。


ペンを落としてみる。音が返ってくるまで3秒。相当深い。


そして、壁に文字が書かれているのに気づいた。


『1246回目』


震える手で触れる。インクではない。爪で引っ掻いたような跡。そして恐ろしいことに、それは間違いなく悠自身の筆跡だった。


「俺が...書いた?いつ?」


さらに進むと、また文字。今度は別の筆跡のようにも見えるが、よく見ると、これも自分の字。ただ、疲れ切った時の、乱れた字体。


『出口はEXITじゃない』


そして、床にまた別の鍵。今度は少し錆びている。同じ形、同じ重さ。拾い上げようとして、また落とす。


まるでプログラムされた行動のように、鍵を落としてしまう。


『壁の向こうに壁』


また鍵。今度は新しい。ピカピカに磨かれている。しかし、触れた瞬間にまた——


カラン...


『鍵があれば』


悠は気づいた。通路のあちこちに、鍵が落ちている。全て同じ形だが、それぞれ微妙に違う。新しいもの、古いもの、錆びたもの、曲がったもの、欠けたもの。


数え始める。1個、2個、3個...


50個を超えた辺りで、恐ろしい考えが浮かんだ。これらは全て、自分が落とした鍵なのではないか。異なる周回で、同じ場所を通り、同じように鍵を落とし続けた結果なのではないか。


床を詳しく観察する。排水口の周りには、無数の引っ掻き傷。まるで、何度も何度も鍵を取ろうとした痕跡。爪が折れた跡もある。血痕も。古いものから新しいものまで。


その時、ポケットの中で何かが動いた。手を入れると、見覚えのない古い鍵が入っている。いや、見覚えがないのではない。たった今まで見ていた鍵と同じ形。いつの間に?


鍵を取り出そうとした瞬間、指の間からするりと抜け落ちた。


カラン、カラン...


金属音を立てて、鍵は床を転がっていく。慌てて追いかけるが、まるで意志を持っているかのように、鍵は悠から逃げるように転がり続ける。


そして、床の小さな排水口に吸い込まれるように消えた。


「くそっ!」


膝をついて排水口を覗き込むが、真っ暗で何も見えない。耳を澄ますと、はるか下で金属音が響いている。カラン、カラン...まるで、鍵が階段を落ちていくような規則的な音。


ふと、腕時計を見る。2時47分。地下通路に入ってから、まだ30分程度のはずだ。しかし、体感ではもっと長い時間が経過している気がする。


立ち上がると、壁の文字が増えていた。


『また落とした』


そして、悠自身が今書いたばかりのような、真新しい傷。爪で必死に刻んだような。


『毎回同じ』


右手の人差し指を見る。爪が割れて、血が滲んでいる。いつの間に?


さらに、子供のような丸い字。これも悠の字だが、幼い頃の。


『どうして拾えないの?』


そして、最も恐ろしい文字。


『1247回目の始まり』


恐怖で体が震える。この通路から出なければ。走り始める。


通路の床には、無数の鍵型の窪みがあることに気づく。同じ場所に何度も鍵が落ちて、床のコンクリートが削れている。深いものは1センチ以上凹んでいる。一体何回落とせば、コンクリートがこれほど削れるのか。


壁のEXIT表示を数える。最初は10メートルおきだった。しかし、進むにつれて間隔が狭まっている。5メートル、3メートル、1メートル。


そして表示の文字が歪み始めている。


「EXIT」が「EXIST(存在)」に見える。


さらに進むと「EXZT」「EX1T」「3X1T」


そして全てが「1247」に変わった。


全ての表示が数字に変わった時、通路の奥に人影が見えた。


誰かいる。助けを求めようと声を上げようとした瞬間、人影がこちらを振り返った。


それは、悠自身だった。


ボロボロの服を着て、髭が伸び、目が虚ろな悠。いや、よく見ると目を閉じる能力を奪われている。瞬きをしない、見開かれたままの目。その目は乾いて充血し、角膜は白く濁り始めている。永遠に見続ける呪縛を受けた者の、恐ろしい姿。


その悠が口を開く。声は出ないが、唇の動きで分かる。


「ようこそ」


閉じることのできない目の悠は、壁を指差した。


見ると、壁に扉が現れている。今まで気づかなかった、小さな扉。ドアノブには、鍵穴。


その悠が、懐から鍵を取り出す。あの真鍮製の鍵。しかし、手が震え、鍵が落ちる。


カラン...


鍵は床を転がり、悠の足元で止まった。


拾おうとした瞬間、床が抜けた。


落下する感覚。悠は叫び声を上げたが、声は虚空に吸い込まれていく。


落下しながら、上を見上げる。


瞬きを忘れた目の悠が、新しい鍵を取り出している。そして、また落とす。


その手の動きは機械的で、まるで永遠に同じ動作を繰り返しているかのよう。鍵を取り出し、落とし、また取り出し、また落とす。


拾おうとする素振りすら見せない。ただ、落とし続ける。


永遠に続く、鍵を落とす儀式。


そして、悠は理解した。


自分も、いずれああなる。


目を閉じる能力を失い、永遠に見続ける存在となって、永遠に鍵を落とし続ける。


その運命から逃れることはできない。


なぜなら、もう1247回目が始まっているから。


落下は続く。


そして——

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