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第19話 選択の病室

透明になりかけた体で扉をすり抜けた悠は、消毒液の匂いが充満する病室に立っていた。個人から集合への変化を受け入れたはずだったが、再び個体として存在している。しかし、その存在は以前より希薄で、不安定だった。


見覚えのある部屋。父が入院していた、あの個室病棟。白い壁、点滴スタンド、心電図モニター。機械の規則的な電子音が、時を刻んでいる。そして、ベッドが2つ。


永遠に見続ける呪縛を受けた目が、全てを同時に認識する。


1つのベッドには、認知症が進行した父が横たわっていた。


痩せ衰えた体。点滴の針が刺さった腕は、血管が浮き出ている。髪は抜け落ち、頬はこけ、かつての威厳ある父の面影はない。しかし、胸は確かに上下している。


もう1つのベッドには——


7歳の悠がいた。


押入れに閉じ込められた、あの日の悠。顔は青白く、目は虚ろ。呼吸は浅く、今にも止まりそう。まるで、あの恐怖がトラウマとなって、そのまま成長を止めてしまったかのように。小さな手は、何かを掴もうとするように宙を彷徨っている。


「選んでください」


声がした。振り返ると、看護師が立っていた。


いや、看護師の格好をした老人。白衣は清潔だが、顔は皺だらけ。そして、その顔を見て、悠は息を呑んだ。


それは、老いた悠自身だった。


永遠に閉じることのできない目が、同じく瞬きを忘れた目と合う。老いた悠の目は、より深い疲労と諦念を宿していた。


「一人しか助けられません」


老いた悠が、感情のない声で告げる。カルテを持つ手は、老人特有の震えがある。


「どういう意味だ」


「文字通りの意味です。このまま放置すれば、両方消えます。しかし、あなたが選べば、一人は助かる」


悠は二つのベッドを見比べた。


父のモニターを確認する。


心拍数:52(低下している) 血圧:95/60(危険域) 酸素飽和度:89%(要注意)


数値が徐々に低下している。


7歳の自分のモニターも確認する。


心拍数:120(異常に高い) 血圧:90/50(子供にしては低い) 酸素飽和度:91%(低下中)


どちらも危険な状態。


「なぜ選ばなければならない」


「それがルールだから」


老いた悠は無表情に答える。しかし、その目の奥に、かすかな同情が見える。


「いや、違う。これは最後の試験だ」


「試験?」


「1247人目の記録者への、最後の試験。究極の選択」


悠は父のベッドに近づく。


モニターの数値がさらに低下している。あと数分の命。


「お父さん...」


父の目が開いた。認知症の霧が晴れたような、一瞬の正気。


「悠か...」


「父さん!」


「お前...ちゃんと生きているか...」


その問いに、悠は答えられなかった。この異空間で彷徨い続ける自分が、「生きている」と言えるのか。個人として消えかけている自分が。


「...お前の記事、読んだぞ...いつも...誇りに...思って...」


父の声が途切れる。また認知症の霧に飲まれていく。


「誰だ...あんた...」


正気の時間は終わった。


悠は7歳の自分のベッドに移動する。


小さな自分は、うわ言を呟いている。


「出して...暗い...怖い...ママ...」


あの時の恐怖が、今も続いている。6時間の闇が、永遠に引き延ばされている。


老いた悠が説明を加える。


「この子は、あなたの原点です。全ての始まり。この恐怖から、1247の循環が始まった」


「でも、これは過去の自分だ」


「過去?未来?そんな区別に意味はありません。ここでは全てが同時に存在する」


悠は必死に考える。


父を選ぶ?認知症で苦しんでいる父を、これ以上生かすことに意味はあるのか。しかし、父は悠を育ててくれた。愛してくれた。厳しくも優しかった父。


幼い自分を選ぶ?でも、それは結局自分のため。エゴイズムではないか。しかし、この子を救えば、そもそも1247の循環が始まらないかもしれない。


「3分です」


老いた悠が告げる。古い懐中時計を見ながら。


時間が迫る。


ふと、気づく。これも既に経験したことがあるような感覚。


透明な体で壁を見ると、そこに数字が刻まれている。


『選択の記録』 『623回:父を選んだ→システム継続』 『623回:幼い自分を選んだ→システム継続』


完全に半々。そして、どちらを選んでも結果は同じ。


「...何回目だ」


老いた悠が、初めて表情を変えた。悲しそうな笑み。


「1246回です。あなたは毎回、異なる選択をしてきました」


「結果は?」


「同じです。選ばれなかった方は消え、選ばれた方も結局は...システムに取り込まれる」


「なら、選択に意味はない」


「いいえ、あります」


老いた悠はカルテを見せた。そこには、過去1246回の選択が記録されている。


『1回目:パニックで選べず→両方消失』 『100回目:論理的に父を選択→父は回復するが3日後に死亡』 『500回目:感情的に自分を選択→トラウマは消えるが別の恐怖が』 『1000回目:コインで決定→システムが激怒』 『1245回目:両方を諦める→システムに亀裂』


「1分です」


決断しなければ。


しかし、悠はある事に気づいた。


「第三の選択肢はないのか」


「...何ですって?」


老いた悠の目が見開かれた。初めて見せる、本当の感情。


「自分を犠牲にして、両方を助ける」


「それは...ルール違反です」


「ルールなんて知るか!」


悠は両方のベッドの間に立った。そして、透明になりかけている自分の体を見つめる。


「俺の存在を、二つに分ける。半分を父に、半分を幼い自分に」


「不可能です」


「やってみなければ分からない」


老いた悠の顔が歪んだ。苦悩と、希望と、恐怖が入り混じった表情。


「それを...本気で...」


「ああ」


悠は意識を集中させた。


すでに半分透明な体を、さらに分割する。意識を二つに引き裂く。


激痛が走る。存在が引き裂かれる苦痛。まるで、魂を真っ二つに切り裂かれるような。


しかし、諦めない。


父の手を握り、もう一方の手で幼い自分の手を握る。


そして、自分の生命力を、記憶を、存在そのものを、二人に注ぎ込む。


透明な体から、光が溢れ出す。その光が、二つの流れとなって、父と幼い自分に流れ込んでいく。


父の顔に生気が戻る。モニターの数値が上昇し始める。


幼い自分の呼吸が深くなる。顔に血の気が戻る。


「や...やめなさい!」


老いた悠が叫ぶ。しかし、その声には歓喜が混じっている。


「システムが...エラーを...」


病室全体が振動し始める。


壁に亀裂が走り、天井から埃が落ちてくる。


『エラー:想定外の選択』 『エラー:ルール違反』 『エラー:しかし...美しい』


最後のメッセージは、システム自身の感想のようだった。


光が部屋を満たす。


父の顔に完全に生気が戻る。認知症の霧が晴れていく。


「悠...そこにいるのか...」


幼い悠も目を覚ました。恐怖から解放された、澄んだ目。


「あれ...ここは...明るい...」


二人は互いを見つめ、そして不思議そうに部屋を見回す。


透明な悠の存在には気づかない。


しかし、それでいい。


二人は生きている。それで十分だ。


老いた悠が、複雑な表情で呟いた。


「1247回目にして、初めての選択...」


「これで...システムが変わる...」


「いや...システムが...進化する...」


病室が崩壊し始める。


しかし、それは破壊ではない。


変容。


より高次の存在への。


悠は完全に透明になった。


もはや個体としては存在しない。


しかし、父と幼い自分の中に、確かに存在している。


分割された存在として。


そして理解する。


これこそが、1247の真の意味。


1(個)が 2(二つ)に分かれ 4(四方)に広がり 7(完成)する


最後に聞こえた声。


父と幼い自分が、同時に呟いた言葉。


「ありがとう」


それが、個体としての悠が聞いた、最後の言葉だった。


しかし、終わりではない。


新たな始まり。


分割された存在としての、新たな在り方の始まり。


システムは進化する。


1247という数字を超えて。


無限へと。

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