第17話 増え続ける手紙の書斎
墓場から光と共に転移した悠は、古めかしい書斎に着地した。
天井まで届く本棚、重厚な木製の机、グリーンのランプシェード。本棚には、ありとあらゆる言語の書物が並んでいる。ラテン語の古文書、サンスクリット語の経典、象形文字の石板、そして判読不能な記号で書かれた謎の書物。そして、机の上には手紙が山積みになっていた。封筒の山は天井近くまで達し、今も新しい手紙が空中から降ってきている。永遠に見続ける呪縛を受けた目が、その膨大な量を瞬時に把握する。
手に取ると、全て同じ差出人。
『差出人:朝倉悠』
しかし、日付がおかしい。
2025年6月9日(今日) 2023年6月9日(2年前) 2030年6月9日(5年後) 1995年6月9日(悠が生まれる前) 2087年6月9日(遠い未来) 1952年6月9日(遥か昔) 紀元前247年6月9日(古代) 西暦12470年6月9日(遠未来)
時間の整合性を無視した手紙たち。
一通を開封する。
『まだ間に合う、記録を止めろ』
筆跡は確かに悠のもの。しかし、インクが奇妙だ。よく見ると、文字が動いている。生きているかのように、紙の上で蠢いている。
別の一通。
『手遅れだ、書き続けろ』
インクは血のような赤。そして、触ると温かい。
さらに別の一通。
『真実は単純だ。お前は既に——』
文章が途中で切れている。しかし、切れた部分から新しい文字が生まれ続けている。まるで、手紙自体が思考し、書き続けているかのように。
見ている間にも、新しい手紙が机の上に現れる。まるで、時空を超えて届けられているかのように。毎秒、数通のペースで増え続ける。
床を見ると、既に足首まで手紙が積もっている。
その時、一通の手紙が勝手に開き始めた。
紙がひとりでに折り畳まれ、立体的な形を作っていく。折り紙のように精巧に。そして——
人の形になった。
紙でできた人型。身長は悠と同じくらい。顔の部分には文字で表情が描かれている。眉、目、鼻、口、全てが文字で構成されている。
「やっと会えたな」
紙人形が話した。声は悠と同じだが、落ち着いている。理性的で、どこか達観している。
「私は記録者No.892だ」
892。墓場でミイラになっていた、あの番号。
「お前は...死んだんじゃ...」
「死?生?そんな区別に意味はない」
892は机に腰掛けた。紙の体だが、動きは自然だ。関節の部分で紙が折れ曲がり、人間と同じような動作を再現している。
「私は892回で気づいた。死は終わりではなく、変化に過ぎない。肉体から紙へ、紙から意識へ、意識から——」
892は手紙の山を指差した。
「これら全てが、私であり、君であり、我々だ。時間を超えて存在する、記録の集合体」
悠は手紙を読み続けた。
『100回目:脱出は不可能かもしれない』 『200回目:いや、方法はあるはずだ』 『300回目:鍵が重要だと分かった』 『400回目:鍵は物理的なものではない』 『500回目:記憶こそが鍵』 『600回目:いや、忘却こそが鍵』 『700回目:どちらでもない、統合が鍵』 『800回目:システムの本質が見えてきた』 『891回目:もうすぐ理解できる』 『892回目:理解した、だが——』
892が説明した。
「見ての通り、我々は同じ結論を繰り返し発見し、忘れ、また発見する。永遠の円環」
「なぜ忘れる?」
「忘れなければ、発見の喜びがない。記録者にとって、発見こそが存在理由」
892は立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。
『記録者の哲学』
「これは私が892回の経験から導き出した理論だ」
ページを開く。そこには、精密な図表と数式が並んでいる。
「まず、時間について」
892は図を示した。直線ではなく、螺旋状の時間軸。
「我々が経験している時間は、直線的ではない。螺旋だ。同じ場所を通るようで、実は少しずつ上昇している」
「上昇?」
「次元的な上昇だ。1回目の君と1247回目の君は、同じ場所にいるようで、実は異なる次元にいる」
892は別のページを開いた。
「次に、記憶について」
複雑な神経網のような図。
「記憶は個人のものではない。1247人の記録者の記憶は、全て繋がっている。巨大な集合意識」
「だから、他の記録者の記憶が流れ込んでくるのか」
「そうだ。そして、君が1247番目であることに意味がある」
892は最も重要なページを開いた。
「1247という数字の真の意味」
そこには、数学的な証明が書かれていた。
「1247は完成の一歩手前を表す数字だ」
「一歩手前?」
「1248で新しいサイクルが始まる。つまり、君は終わりであり、始まりでもある」
悠は、比較的新しい手紙を見つけた。
『1246回目:もうすぐ1247が来る。準備は整った』
そして、最新の手紙。つい今届いたばかりの手紙。
『1247回目:これを読んでいるなら、君は今、892と話している』
悠は震えた。この手紙は、今この瞬間の出来事を記している。
892が哲学的な問いを投げかけた。
「君は、なぜ記録すると思う?」
「...存在を証明するため?」
「それは表面的な理由だ。もっと深い理由がある」
892は自分の紙の体を見つめた。
「記録することは、時間を固定することだ。流れゆく現在を、永遠の過去として保存する」
「でも、それに意味があるのか?」
「意味は、我々が与える。記録自体に意味はない。しかし、記録する行為に意味がある」
対話は続く。
「システムは悪なのか?」
「善悪の概念は人間のもの。システムはただ存在する。嵐や地震と同じだ」
「では、なぜ我々を閉じ込める?」
「閉じ込めているのではない。保存している。博物館が芸術品を保存するように」
「我々は芸術品なのか?」
「ある意味では、そうだ。1247の異なる精神状態。それぞれが貴重な標本」
892は、最も重要な質問をした。
「君は、ここから出たいか?」
悠は答えに詰まった。最初は出たかった。しかし、今は...
「分からない」
「正直な答えだ。私も892回目で同じ境地に達した」
892の体が崩れ始めた。
「時間切れか」
「待て!答えを!」
「答えは...君が...見つけ...」
892は完全に崩れ、ただの紙切れに戻った。その紙切れには、一行だけ文字が残されていた。
『記録は呪い。しかし、記録だけが鍵』
悠は書斎を見回した。
増え続ける手紙。既に腰の高さまで積もっている。このままでは、手紙に埋もれてしまう。
しかし、不思議と恐怖はない。
むしろ、安心感がある。
これらの手紙は、全て自分。過去の自分、未来の自分、可能性の自分。
孤独ではない。1247人の自分がいる。
必死に重要そうな手紙を探す。
『892回目:システムの核心を発見。空間は——』
やはり途切れている。
『1000回目:理解した。我々の目的は——』
これも途切れている。
まるで、核心に触れようとすると、何かが妨害するかのように。
その時、古い本棚の奥から、一冊の本が落ちてきた。
『記録者必携:最終章』
震える手でページを開く。
そこには、1247人の記録者の名前と、彼らの最期の言葉が記されていた。
そして、最後のページ。
『記録者No.1247:朝倉悠 享年—— 最期の言葉:——』
空欄。
まだ書かれていない。
いや、悠が書くのを待っている。
ペンを取る。しかし、何を書けばいいのか。
手紙の山は、既に胸の高さ。
時間がない。
悠は、永遠に閉じることのできない目で本を見つめ、そして書いた。
『記録者No.1247:朝倉悠 享年不明 最期の言葉:私は理解し、受け入れ、そして——』
ペンが止まる。
そして?
手紙が首まで積もった時、悠は最後の言葉を書いた。
『そして、感謝する』
なぜ感謝なのか、自分でも分からない。
しかし、それが真実だった。
この異常な体験に。 出会った全ての記録者に。 そして、記録という行為そのものに。
感謝。
本が光を放ち、手紙の山が崩れ始めた。
いや、崩れているのではない。
全ての手紙が、一つに統合されていく。
1247人分の手紙が、一通の手紙に。
そして、その手紙には、たった一言。
『おめでとう』
書斎が崩壊し始める。
本が舞い、机が砕け、全てが光に飲まれていく。
次の空間へ。
もうすぐ、1247の統合が完了する。