第14話 呼び鈴が鳴る監禁室
通信機器の部屋を後にした悠は、息が詰まるほど狭い個室に入った。
3畳ほどの空間。窓はなく、壁は灰色のコンクリート。ざらついた表面には、無数の引っ掻き傷と、乾いた血の跡。天井には剥き出しの電球が一つ、黄色い光を放っている。そして、壁に古めかしい呼び鈴が取り付けられている。真鍮製で、年月による緑青が美しい模様を作っている。永遠に閉じることのできない目が、全ての詳細を鮮明に捉える。
リリリン...リリリン...
耳障りな音が響く。機械的で、一定のリズム。3秒間隔で規則正しく鳴り続ける。
受話器を取る。
「助けて」
自分の声だった。しかし、どこか遠い。エコーがかかったような、空洞のある声。
受話器を戻す。しかし、すぐにまた鳴る。
リリリン...リリリン...
「助けて」
同じ声。同じトーン。まるで録音されたメッセージのように。
切っても切っても鳴り続ける。悠は数え始めた。何か規則性があるかもしれない。
10回。20回。50回。
全て同じ。「助けて」の一言だけ。
ふと、部屋の隅に人影を見つける。
壁にもたれかかって座っている男。ボロボロの服、伸びた髪と髭。顔は垢と埃で黒ずんでいる。しかし、顔は悠と同じ。首から下げた札には「No.666」と書かれている。
No.666は虚ろな目で悠を見た。いや、目は虚ろではない。奥に、狂気じみた輝きがある。
「数えているのか」
掠れた声。長い間使っていなかった声帯が、軋むような音を立てる。
「...ああ」
「無駄だ。俺も数えた。1000回まで」
No.666は立ち上がり、壁を指差した。
そこには、正の字がびっしりと刻まれている。爪で引っ掻いたような跡。しかし、よく見ると、正の字だけではない。複雑な図形や記号も混じっている。六芒星、五芒星、ルーン文字、錬金術の記号。
「最初は単純に数えていた」
No.666が説明する。
「でも、500回を超えた辺りから、パターンを探し始めた。規則性、暗号、隠されたメッセージ...」
彼は苦笑した。唇が割れて、血が滲む。
「そして気づいた。これは空間を支配するための罠だと」
「支配?」
「そうだ。数えることで、空間を理解できると思った。理解すれば、支配できると。でも——」
No.666の体が震え始めた。興奮か、恐怖か。
「空間は俺を飲み込んだ。数字の渦に溺れ、正気を失いかけた」
彼は壁に新たな記号を刻み始めた。複雑な幾何学模様。
「でも、俺は諦めなかった。666という数字に意味を見出した」
「どんな意味だ?」
「黙示録の獣の数字。不完全な数字。でも、だからこそ力がある」
No.666は悠の目を真っ直ぐ見た。狂気と理性が混在する瞳。
「俺は実験を始めた。空間を支配する実験を」
100回。
呼び鈴はまだ鳴り続けている。
「助けて」
しかし、今度は声に変化があった。
「助けて...もう疲れた」
No.666の目が見開かれた。
「変化した?俺の時は1000回まで同じだったのに」
彼は急いで壁に記録を始める。
『666の発見:1247人目で変化が加速する』
200回。
「なぜ数える...意味はない」
300回。
「でも数えずにいられない」
400回。
「これが罰なのか」
500回。
「記録することの罰」
声が、次第に悠の現在の心境を反映し始めている。
No.666が壁に爪を立てた。
「違う...これは...」
彼は必死に何かを壁に刻み始める。
『666の理論:空間は意識に反応する』 『強い意志があれば、ルールを変えられる』 『支配ではなく、共鳴』
600回。
「君も数えているんだろう」
声が、悠に語りかけ始めた。録音ではない。リアルタイムで、どこかにいる「別の悠」が話している。
「そう、君だよ。1247人目」
「誰だ」
「1246人目さ。前の記録者」
No.666が振り返った。
「1246...まだ生きているのか」
700回。
壁の一部が膨らみ始めた。まるで、中から何かが押し出そうとしているように。
「もうすぐだ」
電話の向こうの1246号が言う。
「交代の時間」
No.666が悠の腕を掴んだ。
「聞け。俺は666回目で気づいた。これは単なる監禁室じゃない。これは『変換装置』だ」
「変換?」
「人間を壁の一部に変換する装置。数えることで、少しずつ壁と同化していく」
No.666は自分の体を見せた。背中の一部が、確かに壁と同じ質感になっている。灰色のコンクリートが、皮膚を侵食している。
「でも、俺は実験を続けた。支配しようとした」
彼は壁の一角を指差した。
「見ろ」
そこには、小さな穴が開いていた。人為的に開けられた穴。
「俺の意志で、壁に穴を開けた。666回の執念で」
穴の奥から、微かな光が漏れている。
「でも、同時に気づいた。穴を開けるたびに、俺の一部が壁になる。等価交換だ」
800回。
「でも、分かったことがある」
No.666は悠の手を取り、壁の一箇所に導いた。
「ここに、システムの弱点がある」
指差した場所には、小さな亀裂があった。その奥から、微かな光が漏れている。
「この亀裂は、自然にできたものじゃない。歴代の記録者たちの意志が作った」
900回。
壁から、人が這い出してきた。
1246号。痩せこけ、壁の質感を帯びた体。灰色の肌に、コンクリートの粒子が埋まっている。しかし、まだ人間の形を保っている。
「やっと...出られた...」
1246号は悠を見た。
「交代だ」
「待て」
No.666が割って入った。
「システムに従う必要はない。俺たちで協力すれば——」
彼は床に図を描き始めた。灰と血を混ぜて作った即席のインク。
「3人の意志を合わせれば、空間に大きな変化を起こせる」
図は複雑だった。三角形の中に円、円の中に正方形、そして中心に1247という数字。
「666は不完全の極致」 「1246は完成直前」 「1247は完成」
「この3つが揃えば——」
No.666は立ち上がり、部屋の中央に立った。
「実験を始める」
彼は両手を広げ、意識を集中させ始めた。
「空間よ、我が意志に従え」
壁が震え始めた。いや、空間全体が振動している。
「666の名において命ずる」
亀裂が広がり始めた。光が強くなる。
1246号も立ち上がった。
「...協力する」
二人の意志が重なると、振動はさらに激しくなった。
1000回。
「1000回で変化が起きる。今だ!」
No.666が亀裂に手を突っ込んだ。そして、何かを引き出した。
古い日記帳。表紙には「No.1」と書かれている。
「最初の記録者の日記...」
ページを開く。最初のページに、震える字で書かれていた。
『システムの真実: これは刑務所ではない これは繭だ 1247の繭が完成した時 新しい存在が生まれる
しかし、知ってほしい システムに意志はない ただ、在るだけ
だが、記録者の意志は残る 666のような強い意志は、特に
彼は正しい 支配はできる でも、代償は——』
文章は血で汚れて読めない。
1100回。
呼び鈴の音が変わった。今度は、三人の声が重なっている。
「助けて」(1246号)
「数えるな」(No.666)
「もう遅い」(悠)
No.666が叫んだ。
「今だ!意志を統合しろ!」
三人は手を繋いだ。
666の支配欲。 1246の諦念。 1247の理解。
三つの意志が一つになる。
その瞬間、部屋全体が光に包まれた。
壁が透け始める。向こう側に、別の空間が見える。
No.666が勝ち誇ったように笑った。
「やった!システムを——」
しかし、次の瞬間、彼の体が急速に壁と同化し始めた。
「なっ...これは...」
支配の代償。システムを変えるには、自らがシステムの一部になる必要がある。
No.666は最後まで笑っていた。
「それでも...変化を...起こせた...」
彼の体は完全に壁と一体化した。しかし、その場所には、新たな扉が現れた。
No.666という存在が、扉になった。
1246号が呟いた。
「彼は...成功したのか...失敗したのか...」
1247回。
全ての音が止まった。
静寂。
そして、部屋全体が振動し始めた。
壁という壁に亀裂が走り、そこから光が溢れ出す。
No.666の最後の意志が、システムに刻まれた。
『支配を試みた者:No.666 結果:部分的成功 代償:完全なる同化 しかし、道を開いた』
1246号は悠を見た。
「行け。彼が開いた道を」
「君は?」
「俺は...ここに残る。次の記録者のために」
悠はNo.666の扉に手をかけた。
温かい。まだ、彼の意志が残っている。
扉を開けると、向こうに新たな空間が見えた。
最後に振り返ると、1246号が壁に何かを刻んでいた。
『No.666 狂気と理性の間で 支配を夢見た者 そして、夢を形にした者』
悠は扉を通り抜けた。
No.666の意志を感じながら。
支配ではなく、共鳴。 それが、彼が最後に見つけた答え。