第13話 記憶の痛覚
記憶の痛覚
信号が途絶えた部屋から流れ出た悠は、狭い廊下に立っていた。
両側の壁は鏡でできている。しかし、普通の鏡ではない。音を反射する鏡。視覚ではなく、聴覚を映し出す、異様な空間。永遠に見続ける呪縛を受けた目が、その不可能な光景を捉え続ける。
最初は静寂だった。
しかし、一歩踏み出した瞬間——
「ごめん」
自分の声が、壁から響いてきた。しかし、言った覚えはない。
「ごめんなさい」
別の時代の、別の自分の声。もっと若い。高校生の頃の声だ。
「許してくれ」
今度は老いた声。まだ経験していない、未来の自分。
歩を進めるたびに、謝罪の言葉が増えていく。壁が、悠の人生で言えなかった全ての謝罪を記憶し、反響させている。
「お父さん、ごめん」
15歳の時。反抗期の絶頂で、父の誕生日を無視した日。プレゼントも用意せず、おめでとうの一言も言わなかった。父は何も言わなかったが、寂しそうな背中が今も記憶に焼き付いている。
「美咲、ごめん」
初恋の相手。臆病で告白できず、彼女が他の男と付き合うのを黙って見ていた。卒業式の日、最後のチャンスだったのに、「元気でね」としか言えなかった。
「山田さん、申し訳ありませんでした」
新人記者時代。取材相手の名前を記事で間違えた。小さなミスだったが、その人にとっては大きな傷だったかもしれない。謝罪の手紙を書こうとして、結局出せなかった。
廊下を進むにつれ、声は重層的になっていく。
幼い頃の「ごめんなさい」から、大人の「申し訳ございません」まで。全ての年代の、全ての後悔が、同時に響き渡る。
そして気づく。これらは全て、相手に届かなかった言葉。
心の中で何度も繰り返しながら、結局口に出せなかった謝罪。
「兄さん...」
突然、廊下が震えた。
壁の鏡に、ひびが入る。その奥から、新たな声が漏れ出す。
「兄さん、ごめん」
8歳の悠の声。震えている。泣いている。
記憶が、激流のように流れ込んできた。
兄との最後の日。些細な兄弟喧嘩。おもちゃの取り合い。
「これ、僕のだよ!」 「違う、俺が先に見つけた!」 「嘘つき!大嫌い!」
そして、兄は怒って家を飛び出した。
自転車で。
交差点で。
トラックが。
「戻ってきて...ごめん...喧嘩なんかしなければよかった...」
8歳の声が、延々と響き続ける。1239回。悠が数えた、心の中で「ごめん」と言った回数。
しかし、兄には届かない。永遠に届かない。
廊下の鏡が、次々と割れていく。
その奥から、新たな光景が見える。
病院の廊下。8歳の悠が、手術室の前で泣いている。 葬儀場。小さな棺に、兄が眠っている。顔は見えない。 墓地。「朝倉翔」と刻まれた墓石。享年10歳。
全ての場面で、悠は「ごめん」を繰り返している。
声に出して。 心の中で。 夢の中で。
そして今も。
「なぜ言えなかった」
大人の悠が、鏡に向かって叫ぶ。
「なぜ、素直に謝れなかった」
鏡が答える。悠自身の声で。
「プライドだよ」 「意地だよ」 「子供の愚かさだよ」 「でも、それが人間だよ」
廊下の奥に、扉が見えた。
しかし、扉に近づくほど、声は大きくなる。
「ごめん」の大合唱。1247通りの謝罪が、耳を劈く音量で響き渡る。
耐えきれずに膝をつく。
永遠に見続ける呪縛を受けた目を、手で覆おうとする。しかし、音は目を閉じても聞こえる。いや、目を閉じられないから、音の振動さえも視覚化されて見える。
その時、一つの声が、他の全てを貫いて聞こえた。
「悠」
兄の声だった。
「もういいよ」
鏡の中に、10歳の兄が立っている。事故の前の、元気な姿で。
「俺も悪かった。おもちゃなんか、どうでもよかったのに」
「兄さん...」
「謝り続けるのは、もうやめろ。それじゃ、前に進めない」
兄の姿が、薄れ始める。
「でも、一つだけ覚えておいて」
「何を?」
「言葉は、生きているうちに伝えろ。死んでからじゃ、遅い」
兄は消えた。
鏡も消えた。
廊下は、ただの灰色の通路に変わった。
しかし、悠の心に変化があった。
1239回の「ごめん」が、一つの「ありがとう」に変わった。
兄との思い出。楽しかった日々。それを与えてくれたことへの感謝。
扉に手をかける。
向こうから、聞き覚えのある音が聞こえる。
カチャ、カチャという金属音。
No.666が実験を続けている音だ。
悠は深呼吸をした。
もう、過去の後悔に囚われない。
しかし、忘れもしない。
全ての「ごめん」を抱えたまま、前に進む。
それが、生きるということ。
記録者として、記憶を抱えて進むということ。
扉を開ける。
次は、現在と向き合う番だ。