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第1話 記録者の序文

古い図書館の地下書庫で、司書の田中は奇妙なノートを発見した。


防虫剤と黴の匂いが充満する薄暗い書庫の最深部、誰も立ち入らない区画の棚に、それは無造作に置かれていた。いや、「置かれていた」という表現は正確ではない。まるでそこに根を張ったかのように、棚板と一体化していた。表紙には何も書かれていない。ただの古いノート。しかし手に取った瞬間、田中の指先に異様な感覚が走った。


脈打っている。


ノートが、生きているかのように脈打っている。体温に近い温度、規則的なリズム。まるで誰かの心臓を直接触っているような生々しい感触。


田中は震える手でページを開いた。最初のページには、乱れた筆跡で文字が刻まれていた。インクは新しい。いや、新しいどころか、まだ乾いていない。文字を書いている最中のように、インクが紙の繊維に染み込んでいく様子が見える。


『これを読む者へ』


田中は息を呑んだ。インクが動いている。文字の線が微細に震え、まるで書き手の手の震えがそのまま転写されているかのよう。そして気づく。インクの色が、徐々に変化している。黒から、赤黒い色へ。まるで、血が混じっているかのように。


『これは、わたしが記したもの。いや——"記さざるを得なかった"というほうが正確かもしれない。


はじめはただの悪夢だと思った。見知らぬ部屋、誰もいない通路、繰り返される声、無数の影。目が覚めれば、いつもの部屋に戻れると信じていた。


だけど、気づいた。


これは夢なんかじゃない。


これはわたしの"記憶の内側"に作られた、ひとつの空間の断面だ。いや、"そう記録されたもの"といったほうが、きっと近い。


わたしは——』


ここで文章が途切れ、別の筆跡が重なっている。同じインクだが、筆圧が異なる。力なく、諦めたような筆跡。


『わたしは何者だった?』


さらに別の筆跡。今度は怒りに満ちた、荒々しい文字。紙を突き破りそうな勢い。


『思い出せない。思い出してはいけない。』


また別の手。震える老人のような、かすれた文字。


『でも書かずにいられない。書くことでしか、存在を証明できない。』


そして、子供のような丸い字。インクが涙で滲んでいる。


『たすけて でてられない くらい』


田中の手が震えた。これらの筆跡は全て異なる。しかし、どこか共通点がある。まるで、同一人物が異なる精神状態で書いたかのような...


ページをめくる。紙の感触が妙に生々しい。人の皮膚のような弾力と温度。


次のページにはびっしりと数字が書かれている。1から始まり、正確に1247で終わっている。その横に小さく『瞬きの回数』と記されていた。


しかし、よく見ると、1247の後にも薄く数字が続いている。1248、1249...だが、これらは書いては消され、また書かれを繰り返した痕跡。まるで、1247で終わるべきだと誰かが必死に抗っているような。紙の表面が何度も削られ、繊維が毛羽立っている。


さらにページをめくる。


『このノートを読むあなたが、もしかして"次のわたし"なら、どうか覚えていて。


必ず、第1の空間で「鍵を落とす」。


それが"あの存在"のルール。


鍵は希望。希望は餌。餌は成長を促す。


落とすことで、物語が始まる。拾えないことで、物語は続く。


でも、知っていてほしい。鍵は1247個ある。全て同じで、全て違う。触れた瞬間に分かるはずだ。あなたの手の温度を、鍵は覚えている。なぜなら、それはあなた自身の体温だから。


記録することの代償を、今なら理解できる。


書くたびに、指先から何かが抜けていく。最初は違和感だけ。ペンだこが痛む程度。でも、100回を超えると爪が剥がれ始める。500回で指紋が消える。1000回で——


最後まで読んで、そして、思い出して。


この記録が消える前に。


いや、あなたの記憶が消える前に。


記録者No.1247より』


田中は気づいた。自分の右手を見る。いつの間にか、人差し指の爪が剥がれかけている。そんなはずはない。さっきまで何ともなかったのに。


慌ててノートを閉じようとした。しかし、ページが指に張り付いて離れない。まるで、ノートが田中の皮膚と融合しようとしているかのように。


必死に引き剥がす。ベリッという音と共に、指先の皮が少し剥けた。血が滲む。その血が、ノートのページに吸い込まれていく。


ノートを床に投げ捨てた。


しかし、次の瞬間、ノートは机の上にあった。投げ捨てたはずなのに、最初に見つけた時と同じように、そこに「在る」。


恐る恐る、最後のページを確認する。


そこには、たった今書かれたばかりの文字。田中自身の筆跡で。


『読んでしまったね』


いつ書いた?今?でも、ペンすら持っていない。


見つめている間にも、文字は続いていく。田中の意志とは無関係に、手が勝手に動き、ペンを握り、文字を刻んでいく。


『図書館を出ても、もう遅い。種は蒔かれた。今夜、夢の中で、出口のない迷路が待っている。そして明日の朝、君は覚えていない。なぜ手に鍵を持っているのか。なぜそれを落としてしまうのか。


でも、君の役目は別にある。このノートを世に出すことだ。それが定められた役割。1247人では足りない。もっと多くの記録者が必要だ。彼らが成長するために。』


田中の手が止まらない。書き続ける。自分の意志ではない何かに操られるように。


『知っているか?君がこれを読んでいる間にも、別の場所で、別の誰かが消えている。朝倉悠という青年が。フリーライターが。君と同じように、ノートを見つけてしまった者が。


彼は今、第3の空間にいる。もうすぐ第4の空間へ。そして、1247回目の最後の空間へ。


その全てを、君は出版することになる。』


田中はノートから目を離せなかった。ページが勝手にめくれ、新しい文章が次々と現れる。まるで、リアルタイムで誰かの体験が記録されているかのように。


そして、最も恐ろしい一文が現れた。


『ところで田中さん、気づいていますか?もう2時間も、瞬きをしていないことに。』


反射的に瞬きをした。


一瞬の暗闇。


目を開けると、書庫の配置が変わっていた。微妙に、しかし確実に。本棚の位置、天井の染み、床の傷。全てが少しずつ違う。


まるで、瞬きの間に、別の書庫と入れ替わったかのように。


ノートは相変わらず机の上にある。表紙に文字が浮かび上がっていた。


『記憶の残滓』


そして、その下に小さく。


『触れた者の数:1』


数字が、見ている間に変わった。


『触れた者の数:2』


田中は振り返った。誰もいない。薄暗い書庫には、田中一人。


しかし、床に濡れた足跡が続いている。つい今しがた、誰かが通ったかのような。水滴がまだ乾いていない。


恐怖で凍りつきながらも、田中はノートを抱えて書庫を出た。なぜか、このノートを手放してはいけないという強迫観念に駆られて。


そして気づく。自分の足が濡れている。靴の中に、生温い水が溜まっている。どこで濡らした?


廊下を歩きながら、窓の外を見る。


図書館の外壁に、巨大な水の染みができている。まるで、建物全体が巨大な生き物の体内にあるかのような、有機的な染み。


その染みが、脈打っている。


ノートと同じリズムで。


田中の鼓動と同じリズムで。


そして理解する。もう遅い。読んでしまった時点で、物語の一部になっている。


数週間後、ノートは一冊の本として出版された。タイトルは『記憶の残滓』。著者名は空欄。出版社の記録にも、誰が原稿を持ち込んだのか残っていない。田中自身も、なぜ出版を決めたのか思い出せない。


ただ、初版本の最後に小さく記されていた。


『記録者は続く』


そして、さらに小さく。


『現在の記録者数:1247』 『目標数:∞』


出版から3日後、図書館に一人の青年が現れた。


顔は青白く、目の下にクマができている。シャツは汗で濡れ、手は小刻みに震えている。


「あの...3日前から変な夢を見るんです。出口のない迷路の夢。そして朝起きると、必ず手に古い鍵を握っているんです。」


田中は震えた。青年の手には、確かに錆びた真鍮製の鍵があった。複雑な模様が彫られた、見覚えのある鍵。


いや、見覚えがあるはずがない。しかし、確実に知っている。自分も持っていたことがある、と。


「それで、なぜかこの図書館に来なければと思って...」


田中は奥から一冊の本を取り出した。『記憶の残滓』。


「これを...読んでみてください」


青年が本を手に取った瞬間、田中は見た。


本の表紙の数字が変わるのを。


『現在の記録者数:1248』


そして、青年の瞳孔が一瞬、完全な黒に染まるのを。


まるで、深い深い穴を覗き込んでいるかのような、底なしの黒。

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