第五話 魔犬が手信号したら 1 魔犬が出てきたら
俺はスーツの内ポケットに入っていた警察手帳を見つめた。
手帳と言っても名前だけで、現行の警察手帳はむしろ上下に開くパスケースに近い。それを開くと桜の代紋が据えられている。
俺はそれを取り外すと、改めて桜の代紋を見つめた。
「今まで、ありがとう。お前を持っている事が――俺の誇りだった」
俺は桜の代紋を、机の引き出しにしまった。そしてレムルス王子に貰った三尖の炎の紋章を、パスケースに付け替えた。
「これがこの世界での……俺の警察手帳だ」
俺は独り呟いた。
*
飛んできた拳を見切る。僅か1cmほど手前で、ヴォルガの拳が動きを止めた。伸びきった腕を見ながら、俺は下がりながら前蹴りを鳩尾にぶち込む。
俺のつま先がヴォルガの腹にめり込み、ヴォルガの顔が一瞬変わった。が、それはすぐに笑みに変わる。ヴォルガはパンチに伸ばした腕の肘を曲げて、俺の蹴り足の太ももに肘打ちを喰らわせた。大腿に衝撃が走った。
俺も笑みを浮かべて、その曲げた腕を捕まえると、逆足で腹に膝蹴りを喰らわせた。と、すぐさま俺の頬に、ヴォルガの肘打ちがめり込んだ。顔が横に吹っ飛ばされる。が、すぐに向き直って、俺はフックを叩き込む。向き直ったヴォルガがフック、ミドルキックを立て続けに俺にぶち込んだ。
俺はそれを気力で堪え、渾身のボディブローを奴の鳩尾にぶち込んだ。
――こんな格闘戦をやった挙句、俺たちは二人ともボロボロになってレスターの治療を受けていた。笑いながらヴォルガが言う。
「もう気力を維持した戦いは充分だな。オレとここまでやりあえるのは、そうはいないぜ」
「そうか。お前の指導のおかげだよ」
俺も笑い返した。
「もう中級気道士以上の実力はある。正式に隊の連中に紹介してもいい頃だと思うが」
「そうだな……しかし、まだ武器術が足りてない。ある程度、それをマスターしたいんだが」
「ああ…それはまたオレじゃダメだな」
俺は治療してくれてるレスターを見た。レスターは手をかざしてない方の手で、眼鏡を上げた。
「自分は駄目ですよ。武器術使いではありませんから」
「誰か指導を乞える適任はいないのか?」
「う~ん、いない事もないが……」
治療が終わると、俺はヴォルガに連れられて街の外れまで来た。ほとんど森の中と言っていい場所に入り、木漏れ日の中を歩く。しばらく歩くと、小さな小屋があった。
「ちょっと偏屈な奴でな。オレも会うのは十年ぶりなんだ」
ヴォルガはそう言いながら、進んでいく。と、不意に何かが前に出てきた。
子犬だ。いや、小型犬だった。何処かで見た事ある感じだ。
そうだ、イギリス犬種のジャック・ラッセル・テリアによく似ている。白い地色に茶色のブチ。……しかし確かジャックラッセルは垂れ耳だったはず。目の前の犬は、立ち耳だった。
「わう」
一言、警戒するように吠える。よく見ると、白い手のようなものが、掌を向けてこちらを制している。細く長い尻尾の先が、手のようになっているのだ。
「――止まれ、という事か?」
「わう」
「ヴォルガ、こいつは何だ? 知ってるのか?」
ヴォルガの狼顔が、困惑の表情を浮かべている。
「いや…魔犬を飼ってるとは知らなかったが……こいつは確か、ハンドテイル・ドッグというやつだ。――なあ、俺は爺さんの昔馴染みだ。ヴォルガってんだけどな」
――人差し指を下に向けて、掌。「此処で、待て、と」
犬は小屋の中に入っていった。と、しばらくすると犬が出てくる。その後ろから、一人の男が現れた。
灰色の髪を後ろで束ね、前髪は顔の端に少しかかっている。作務衣のような服をまとったその男は、静かな微笑を浮かべていた。
「やあやあ、これは珍しい客人だね。十年ぶりかな?」
秀麗な顔に浮かべた微笑みが、吸い込まれるかと思えるほどに柔和だ。だが、よく見るとその顔には皺が刻まれてる。恐らく老人、と言っていい年齢だ。
ヴォルガを一瞥した後、軽く俺を見る。そしてヴォルガに言った。
「……ヴォルガ、何用だい?」
「何用って――相変わらずだねえ、あんたは。戦友なんだ、用がなくったってお茶に来るかもよ」
「僕が、昔話を嫌いなの知ってるだろ?」




