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手違いでも薔薇は咲く

作者: 藤龱37

 パンツに血が付いていた。チョンと絵の具を垂らしたとかいうレベルではない。どちらかというとペンキを塗りたくる筆をうっかり落っことして、べったり分厚く染み付いた、ミニマム殺人事件現場みたいになっていた。内臓をミキサーにかけたみたいな肉片が混じっているのが、その印象を後押ししてしまっている。

 ついにこの日が来たか。ようやく、と言った方が正しいかもしれない。高校一年になるまで生理が来なかった人は少数派だろう。俺は悟りを開いたような顔でトイレットペーパーをからから言わせ、巻き取った紙でクロッチ部分を何度も拭った。力を入れれば入れるほどに深いところに浸透してしまう。それでもパンツがパンツとして機能するくらいに血液感が薄くなったので、便器を流し、てかる赤青のタイルを踏みながら生臭くなった個室を出る。そして、ごすっと鏡面にデコをぶつけた。

 がちゃがちゃした歯の中でも特に出っ張った前歯の上にある深い人中窩に、そのまた上にはそばかすの散った低い鼻、それから三白眼、整えなければ野生動物みたいになる自眉毛、おまけに運悪く額のど真ん中に現れた黒子ほくろときた。むくみのあるくすんだ顔に乗せられたパーツはどれも福笑いのように崩れていて、当然のように誂えられた一重の腫れぼったい瞼からは短い睫毛が申し訳程度に伸びている。

 鏡の中、およそ可愛いと表現することを躊躇いたくなるような少女が、よろよろと狼狽えた様子でこちらを見ていた。


「……いや、成長したら可愛くなるとかの救いはないのか……?」


 つい口走ったらお腹の痛みが酷くなった。しゃがんで、なんとなく視界に入った花瓶を呆然と眺める。萎れた花がぐったりと身を横たえている。いっそ花に生まれていたらよかった。八つ当たりのようにそう思った。死に様まで綺麗で羨ましい。俺は……まさか再度人間に、しかも可愛くない女の子に生まれるだなんて思っても見なかったから。


 物心ついて記憶の整理がつくようになり自分が生まれ変わったことを自覚したとき、俺は大いに喜んだ。別に異世界じゃなくたって知識チートは出来る。今のうちに勉強したり運動したりすれば、きっと同級生や将来の同僚に羨ましがられることだろう。そのように考えたわけだ。しかしながら、この二度目の生にはいくつか問題があった。

 まず、ちんちんが無い。

 俺は前世で男だった。男子高校生として平凡に生きてトラックにぶつかった記憶があり、その意識は地続きだ。性別が変わっていたからって心まで変わるほど世界は簡単に出来ていない。そもそも、そんな仕組みになっているのなら性同一性障害は存在していないはずだ。まあそれは置いておくとしても、なんと、神の手違いはこれだけに留まらなかったのだ。

 そう……俺は、まったくもって可愛くないのである!

 時を戻して、前世の青春、俺はそこそこ広い交友関係を築いていた。その中にオタクがいた。そのオタクはTSというジャンルにハマっていて、「死んだら美少女になるぞ」が座右の銘だった。このことからもわかる通り、TSは基本的に美少女に生まれ変わることを指すらしい。そして話を戻して、現在の俺は男から女に生まれ変わったわけだが、母親のドレッサーを覗き込んだ俺は「話が違う」と思った。だって全然美少女じゃないんだもの。十点満点で三点くらい。路傍の石ですらない。中の上の容姿でそこそこの人生を送っていた前世の俺なら、口には出さずとも「……ブスだな」と人知れず思うに違いない顔面偏差値だ。

 圧倒的な手違い感。記憶、性別、顔面。三拍子揃っている。これでどうしろと? せめて記憶がなかったら、男だったら、美人だったら……何度考えたかわからない。その中でもとりわけ俺の中で腹立たしいのは三番目だった。TSというジャンルを既に知っていたのが大きかった。性転換転生したら美少女になるもの、という固定観念があったのだ。期待を持たせておいて裏切られた方がショックは大きい。それでも正直、成長したらどうにかなるのではないか……? という楽観はあった。ほら、小さい頃は微妙だったけど大人になるにつれて綺麗になっていく、みたいなことってよく聞くし……。まあ本気でそう思っていたわけではないけれど、とにかく、そう信じないとやっていけなかったのである。その祈りは届かなかったわけだが。


 職員トイレを出て保健室に行き、諸々の処置を済ませて教室へ向かう。ざわめきが腹に響く。既に三四時間目は終わって昼休みが始まっていたようだ。ガララッと引き戸を開けると、すぐ側で友人と駄弁っていた幼馴染と目が合う。

 渦木緋色うずきひいろ。己のスカした名前が気に食わないとか言いつつ、高校に入った瞬間に髪を脱色して青いメッシュを入れるタイプのスカした男である。


「どした、ンな真っ青な顔して」


 ヒイロは友人達に手を挙げて輪の離脱を宣言し、こちらへ歩み寄りながら、表情を曇らせた。随分と長く休ませてもらったつもりだったが、まだ顔色が戻っていないらしい。全国の女性は毎月この状態を七日も過ごすのか。そして俺もその仲間入りをするのか。そう思うと、徒労感みたいなもので思わず肩を落としてしまう。


「何だその反応」

「…………が来たんだよ」

「あ?」

「生理が! 来た!」

「声デケえな馬鹿!!!」


 馬鹿はお前だ。前時代的価値観の村なら赤飯が炊かれる迷惑この上ない日だぞ。祝え。

 無言で不服を訴えていると、筆舌尽くし難い顔をしていたヒイロは何かに気付いた様子で、ポケットから何かのチューブを取り出した。そして俺の手を取ってその上に中身を押し出す。ハンドクリームらしい。


「何この甘い匂い」

「貰いモンだ! 文句つけんな!」


 「見るからに痛そうにしやがって」とヒイロは手の節々にクリームを塗りつける。確かに指先は赤くなっているし、彼の手が絡むたびにひりひりと痛む。きっとパンツを洗っているときに傷ついてしまったのだろう。うっかりしていた。

 それにしても。俺はヒイロの真剣な顔を見上げる。すると脳裏に「やーい男オンナ!」と俺を囃し立ててきた丸坊主のクソガキが過り、こんな繊細なやつに育つなんて、と何目線なのかわからない感情が湧き上がってきた。あの頃はまさかこんなふうに腐れ縁が続くとは夢にも思っていなかった。

 懐かしさを覚えつつ、チャイムに従って着席し、LHLの説明をする担任の声を聞き流す。いつもならどこか眠たくなるようなひとときだ。しかし俺の腹は相変わらずしくしくと痛んで、時折ぎゅっと締め付けるような痛みが走る。それに寒気がする。カイロか何かが欲しい。そんなことを考えていると、前の方から俺の席にプリントが配布された。空の青色が反射した机に白い紙がひらりと落ちる。“進路希望調査”。黒で書かれた無機質な印字を指でなぞり、俺は特に深く考えることなく、この地域でそこそこ学費の安くてそこそこ名の知れた大学の名前を記入しようとした。しかし不意に襲った子宮の激痛によってシャープペンシルを取り落とす。そしてころころと机から落ちていくそれを眺めながら、唐突に、何かに気が付きそうになった。

 俺は腹を押さえながら紫色のシャーペンを拾って、担任の盛りに盛られた経験談を拝聴しながら、じっと身を潜めていた。調査書は白紙で出した。


 四足の靴底と砂のズレる音を遮って、サッカー部の掛け声が聞こえる。「ファイッットーーオ! ファイッットーーオ!」と繰り返し、グラウンドの周りをぐるぐると走っている。俺は前世でサッカーをしていた。俺自体は上手くも下手でもなかったが、県大会に行ったりと、そこそこの結果を残していた。今世では女子サッカー部が無いので、最初はマネージャーをしていた。けれどそれもすぐにやめた。俺がしたいのはサッカーであってサポートではなかったのだ。

 というわけで、現在、俺は帰宅部である。今も考え事をしながらてくてくと桜並木を横切っている。夕日の差す影は二人分ある。俺とヒイロだ。ヒイロは軽音部だが、週末しか顔を出さなくていいらしい。家は同じ方向だしダチだし別に避ける理由もないので、平日は一緒に帰っている。こういう日は彼の存在に少し救われる気がする。一人でいると、もっとぐるぐる考え込んでしまいそうだから。


「俺、マジで女だったんだなって気づいてさぁ……」


 俺はそれほど抵抗なく頭の中の洪水を口にした。「おう」とヒイロが相槌を打つ。

 ヒイロは俺の心が男だと知っている。というよりは、俺の周囲のほとんどの人が知っているのだ。百歩譲って性差の少ない小学生時代まではともかく、中学からは同級生の女の子達の薄着姿を目にしてしまう状況に気が引けて、合理的配慮──職員トイレを使わせてもらったり着替えを別室でさせてもらったり──を受けている。なお、そのために精神科に行って性同一性障害の診断書を書いてもらった。きっと俺が幼かったからだろう、お医者さんは最初少し気が乗らない様子だったけれど、話しているうちに「それじゃあ仕方ない……」と頷いてくれた。俺は両親の次に彼に感謝している。うちの親はとても良い人達なのだ。貧乏でなかったら、きっとボランティア活動などの社会貢献に精を出していたに違いない。息子の俺が保証する。

 過去を追いかけながら、やはりいつもの性別に対する違和感よりも強い感覚だ、と確信した。生理がきっかけだったことは鈍感な俺でもわかる。いつものふわふわしたものとは違う、もっとじっとりとした、そういう嫌な感覚でもうあれからずっと鳥肌が止まらない。


「なんか急に怖くなった」

「なんで?」

「……わかんないけど」


 得体のしれない恐怖だった。段々と視線が落ちていき、地面を眺める睫毛が震える。こんな女々しい顔をしていたら女の子にモテないんだろうなあ、と他人事のように思った。すると、ヒイロが仕方なさそうに口を開く。


「オレ馬鹿だからわかんねーけど……お前はお前のしたいようにしろよ。そんで、面白可笑しく生きようぜ」

「それが出来たら苦労しねーんだよ……」

「馬ー鹿。“苦労”するときはオレも手ェ貸すっつってんだよ」


 思わずフッと笑う。


「クッソ! イケメンなこと言いやがって!」

「ッハ、どうだ、悔しかったらお前も真似してみろよ」

「うるせー!!」


 湧き上がってきた怒りに拳を震わせる。このヒイロという男はいつもこうなのだ。顔面こそ上の下だが、絶妙なときに絶妙な対応をして見せる上、実家が金持ちときた。そりゃあ女の子にすこぶるモテるのも頷ける話である。そしてそれは今に始まったことではない。出会ってすぐのときから、その片鱗は見えていた。

 そう、あれは俺が今世で初の恋心を抱いた頃のことだ。その子は栞ちゃんといった。高嶺の花とまではいかないけれど、他の子よりもどこか大人びていて、精神年齢と実年齢の差で右往左往していた俺にもよくしてくれる、とても良い子だった。そんな子と俺は宿泊体験学習のベッドの中で話をしていた。小学生女子だから、当然話題は次々移り変わり、夜が深まったときには恋バナが始まっていた。当時の俺は自分の話は出来る限り避けるようにしていたから、自然と話の中心は彼女になる。彼女は少し頬を赤らめて言った。


──イバラちゃんって彼氏いるの?


 言い忘れていたが、俺の名前は楼門ろうもんいばらという。

 当時の俺はどぎまぎしながら「いないけど……?」と若干の期待感を隠しきれない尻上がりなイントネーションで答えた。すると、なんと彼女はパアッと顔を輝かせたのだ。


──良かったぁ!


 これには俺も、ワンチャンあるか……? と思った。しかしそう事が上手くいくはずもない。彼女ははにかみながら続けた。


──わたしね、あのね、ヒーロちゃんのことが好きなんだけどね……


 脳が破壊された。もちろん精神年齢が上の者として「そっか。応援してる!」とにっこりしてみせたが、心は泣いていた。それから彼女に恋心を向けることこそなくなったが、ヒイロは俺の中で常に恋敵的な立ち位置にいる。記念すべき初恋だ、失恋することすら出来なかったなんて、俺でなくても引き摺ると思う。

 狭い歩道から駅前の大通りの広々とした道に移り、少しの余裕を持って横並びになると、ヒイロは少し歩調を緩める。そのことに悔しさを感じながら、俺は「あーあ」と嘆いた。


「お前はいいよな……女の子に好かれてさ……」

「またその話かよ」

「だって、だってさあ……!」


 俺は約一%しかいないといわれるレズビアンの中の、俺でもいいよと言ってくれる人を探さなけりゃいけないというのに、ヒイロときたら実質選び放題だ。もはや前世の俺にすら嫉妬する。どうして男に生まれなかったのだろう。そして、どうしてせめて美少女にしてくれなかった? もしそうだったら、バリタチとしてキメにキメて女の子とイチャコラ出来たのに。


「告白すらされたことねーけどな」

「うっせ彼女持ち!!」


 イーッと威嚇し、俺は立ち止まる。いくら悩んでも仕方がない。どうせ俺は俺なのだ。俺のままで女の子と恋に落ちるための道を模索するしかあるまい。


「……よし、決めた! 俺は女の子とイチャイチャするために生きる!」

「おー頑張れ頑張れ」

「そのために!」


 ヒイロが胡乱げに目を眇める。俺は光芒の差す赤信号の前で、こう言い切った。


「誰よりも男心のわかる女になってガッポガッポ稼いでやるぞー!!!」

「どうしてそうなった!?」




 モテる男の条件を三つ挙げよ。そう訊かれたなら、俺は間違いなく「性格・財力・顔面」と答えるだろう。要するにそういうことだ。性格はこれから研鑽していくし、顔面は現在進行形で研究しているメイクが上達すれば解決するだろう。となると、残るは財力。俺は金持ちにならねばならない。

 そして俺はこの十五年間生きてきて散々身に沁みたのだが、女性が金を稼ぐにあたっていくつかの問題が発生する。ナメられる、あしらわれる、ウザがられる、エトセトラエトセトラ。一言でいうと「女だてらに」である。サッカー部とかマジでこれな。これ以上の主張は蛇足になるので切り上げるが、正直やる気が出ないのだ。考えてもみて欲しい。まともに努力の丈を認めて給料をもらえるであろうことを信じられない環境で、頑張れるだろうか? 否。俺は前世で男としてそこそこの人生を歩んだからこそ、そんな理不尽には耐えられそうになかった。

 そこで俺は考えた。──いっそ女であることを利用してしまえ、と。


 思い立ったが吉日。俺は先の放課後にネットで予約をして、休日返上で色んなレッスンを行なうようになった。ボイトレと歌に三時間、ダンスに三時間、演技に五時間。バイトの隙間をすべて埋めるが如く予定を詰め込み、毎日のようにバスを乗り継いで練習場所に向かう、慌ただしい日々が始まったのだ。

 ここまで語ればわかると思うが、俺が目指そうとしているのはアイドルだ。男心を掴んでのし上がっていく職業といえばこれだろ! と決めたのである。なお、それをヒイロに言ったところ、「単純にも程があるだろ」との苦言を頂いた。そりゃもちろん他の職を考えなかったわけではない。キャバクラとかホステスとかガールズバーとか、他にも案にはあったけれど、前世で小さい頃に親戚の集まりでおっさんに焼酎を飲まされてブッ倒れてから酒は見たくもないほど嫌いだったので、却下としたのだった。

 幼い頃から仄かな憧れが……みたいな過去は存在せず、知識も経験も足りていなかった俺を、他のレッスンメンバーは毛嫌いしているようだった。それも当然のことだろう。彼女達は本気でアイドルやダンサー、歌手、声優といった素敵な夢を目指しているのだから。

 けれども、一年以上も一心不乱になって練習に取り組み、ライバル達に多少の遅れは取っているものの、現実的に考えて最短で引き上げられるレベルの限界にまで至った俺に、周りも本気を感じ取ったらしい。最近は見る目が変わって、随分と穏やかに会話が出来るようになってきた。例えば今のように。


「いる?」


 ファイブセットの練習を終え、ぐったりと床に膝をついた俺に、メンバーの一人がドリンクを手渡す。俺は顔を輝かせて受け取った。


「あんがと! 今度何か持ってくるわ!」

「いらないわよ」

「えー」



 どたどた、と靴も脱がずに玄関のフローリングに倒れ込む。環境に適応し始めたからといってオーバーワークの疲れは変わらない。うつ伏せのままくしゅんとくしゃみをする。もう花粉が出てきたらしい。決意したあの日から一年半が過ぎ、窓の外の山々は紅葉し始め、秋の訪れを告げている。

 またひとつくしゃみをして鼻をむずむずさせていたとき、ピンポーンと間近で呼び鈴が鳴った。仕方なく立ち上がってドアの鍵を開けると、「よう」と手を上げてヒイロが玄関をくぐる。俺は彼をそれほど驚かずに手を挙げて出迎えた。光の加減だろうか。彼は少しだけ肌が白く……あるいは青く、見えた。


「定期テストの範囲は確認したんだろうな?」


 俺の視線など気にもせず、ヒイロは勝手知ったる様子で階段を上がって俺の部屋に向かった。俺もそれを追いかける。今日は試験前恒例の勉強会を行なう日なのだ。

 部屋はアイドル関係の物──オーディションのチラシ、参考にしているアルバム、メイク道具──で散らかっている。それらを拾っては片し拾っては片し、十五分ほどかけて足の踏み場くらいは作ってやって、押し入れから折畳式のローテーブルを出してきてその上にタブレットなどを広げた。

 しばらく黙々と数学のテキストを解く。数Aと数B、それからIとII。俺にとってはどれも区別がつかないほど理解の及ばない存在である。いつの間にか手は止まって、シャーペンに手汗が滲んでいた。ヒイロはすらすらとタッチペンを動かしながら尋ねる。


「で、進級出来そうか?」

「……ぼちぼち」

「ったく、見せてみろ」


 ヒイロは着崩しや髪の毛などの校則違反にさえ目をつぶれば優等生ど真ん中だ。テストではいつも十位以内に食い込んでおり、授業態度も悪くない。

 対して俺はというと、勉強を頭に入れることよりノート整理を優先してしまう典型的な努力下手で、生活態度も特に何をしているでもないのに「浮ついている」と目をつけられがちな、優等生とは程遠いところにある生徒だ……と自覚している。つまり自覚するほどにやばいってこと。母も父もこればかりは甘い顔も出来ず、毎学期に持ち帰ってくる成績表を見ると生温い目で「……塾行こうか」と言ってくる。俺はいつもそれを固辞する。これ以上何かを掛け持ちすると本当に倒れてしまいそうだ。とはいえ、少なくともヒイロと勉強会を開催出来ているうちは留年することもないはずなので、両親もそれ以上口を出してくることはない。俺達を信頼してくれる彼らを裏切るわけにはいかないから、俺も必死で勉強している。


「──疲れたー!」


 あれから数時間、すっかり窓の外は暗くなっていた。ヒイロのおかげで予定していた範囲よりも多くを解くことが出来たが、テストの時間制限を考えるとまだまだ勉強が足りそうにない。あとで復習しておこう。

 麦茶を氷をからころ鳴らしながら口を付けていると、ヒイロがコートのポケットをごそごそと漁くっている。


「何? なんか借りてたっけ?」

「貸してたのはお前。あんがとな」


 ヒイロは何やら長財布を取り出し、そこから諭吉を三枚抜き取って手渡してきた。「なんだっけ」と俺は口を半開きにしたが、すぐに思い出した。


「……ああ、あのときの」


 ヒイロは情に篤い男だ。それは幼馴染以外にももちろん適用される。彼は転校していったカノジョともまめに連絡を取り合っていて、俺はある日、彼女に会いに行くお金がないから貸して欲しいと頭を下げられ、ぽんと一万円を渡したことがあったのだ。

 俺は「バイトしろよ」とは言わなかった。こつこつ勉強するのが得意なヒイロだが、別に天才というわけでもない。その分のリソースを他に割かないようにすることで優れた成績を手にしているのだ。そのためバイト代なども入らず、花の男子高校生にしては懐の寂しい生活をしている。だから俺はそれほど躊躇することなく、「倍にして返すとか言うなよ」なんて冗談を飛ばして小さな手助けをしたのだった。


「トイチっつってたから、二万足しといた」


 あれそんなことまで言ったっけ。言ったかも。いや、言ったな。あの後なんだかんだとふざけた会話をしてそういう着地をした気がする。

 というか、頭が良いくせしてこの雑計算はどうなんだよ。


「あざー」

「マジで貰うンか……」

「冗談冗談」


 二枚だけ返して、一万円を財布にしまった。


「このぶん何か奢ってくれよ、そのうち」

「今日は?」

「勉強もするし……まだ、練習するから」

「家でも?」

「トーゼン」


 半眼で呆れられた。この様子だと何か文句をつけられそうだ。「そ、そういえば……」と俺は慌てて話を変えた。


「最近彼女とどう?面白可笑しくやってる?」

「さっき別れてきた」


 さらりと言われる。「…………マジ?」と思わず眉を寄せるが、ヒイロは清々しいような、でもどこか淋しそうな空白じみた表情で笑った。


「……そんな顔すんなって」


 俺が何も言えずにいると、ヒイロは構わず話を続ける。思い出すように遠くを見ていた。


「夢があるって言ってたんだ」


 大切なものを抱きしめるような声だ。


「きっとこれからあいつも、面白可笑しく生きるんだろ」


 どこか幸せそうなのは、それぞれ納得した上での別れだったからだろう。

 俺はヒイロの話し口を聞いて、あぁ大丈夫そうだな、と感じた。そして彼のカノジョだった女の子を思い出す。強くて可愛い笑顔を浮かべる人だった。そういやあの子もアイドルになりたいって言ってたっけ。


「……イマドキ、小学校からずっと付き合ってるカップルなんて絶滅危惧種だぜ? 続いてただけスゲーんだよ」

「そうだよなぁ」


 ヒイロの冗談めかした言葉に同意しつつ、少し笑う。絶滅危惧種。そう考えると、身体が男と女で別れているのに、彼とまだ幼馴染をやれているのは、実はすごいことなのでは? と思った。

 荷物をまとめて「じゃ、また学校でな」と玄関で手を振るヒイロを家に帰し、鍵を閉めながら、「よーしやるぞ」と声を出した。




「──お前みたいなブス、誰が好きになるかってんだ!」


 二次審査会場のビルから転がるように出ると、耳を蝉時雨が暴力的に陵辱し、何も聞こえなくなる。汗が噴き出ているのに寒くて堪らない。厳しい日差しで黒黒とした強い影が足元に溜まっている。

 初めて一次審査に受かった……のに、このザマだ。期待していただけあって、脱力感にも似た失望が胸に穴を開ける。空洞を作ったベクトルの指すものは、自分を落とした会社でも唾を飛ばして罵倒してきた面接官でもなくて、他ならぬ自分自身だった。それを理解していながら、他人事のように遠いところに心臓が落ちているように感じるのは、きっとそうでもしなければ今にも崩れ落ちてしまいそうだからだろう。

 俺はしばらく息を止めるようにして駅に向かって歩いた。下を向いていたから、人にぶつかった。平謝りをした。何度かそれを繰り返したとき、ヴヴとスマートフォンが鳴る。乾燥した人差し指で操作してメールフォルダを開いた。もう何通目かもわからないお祈りメールだった。思わず蹲り、ぼろぼろと溢した涙がアスファルトのひびにしみ込んでいく。そこには枯れた花が咲いていた。地面でもないのに、割れ目からたくさんの芽が懲りずに陽へ向かって伸びている。俺はそれを踏み躙りたい衝動に駆られた。けれどそれをする余力もなく、スマートフォンの画面が独りでに落ちるのを眺めていた。

 オーディションを全落ちする日々を送ってもう三年になる。同じレッスンのライバルは、みんなどこかしらに受かっていて、それどころか複数の会社の中から選り好みさえしていた。……なんて責めるような言い方をしたくなるような卑屈さを、審査員あのひとたちは見抜いていたのだろうか。実際、ライバル達は優しかった。俺を軽く励ますことさえ躊躇うほどに俺を本気で気遣っていて、触れにくそうにする姿を見ると、俺の中途半端に膨らんだ胸は空虚に痛んだ。彼女達と俺の違いなんて、理解していた。初めてオーディションに落ちたときにはもう既にわかっていた。何も特別なことではない。俺は不細工で、これが社会なのだ。

 

 この三年間で一番ショックだったのは、今日のような罵声でも、ライバルとの差でもなくて、どのオーディションにも数人はいる、真っ当な人の言葉だった。特に今日は痛烈だった。同情しつつも助けようとしない、常識的な冷たさと優しさで、彼は告げた。


──「アイドルは自分を客観視することが重要です。ダンスや歌の実力より、自己プロデュース能力……自分に何が出来て何が出来ないか、それらをどう活かせば認められるのか、それらを理解していなければなりません。あなたはその力が足りていません」


 それ以上は言われなくてもわかった。自分はわかりやすい努力をしただけだで、本当に考えるべきことから目を逸らすばかりだった。アイドルなんて夢のまた夢だ。本来はきっとこの場に立つ資格もなかった。

 三年前の春、どうして急に怖くなったのか、わかった。

 女に生まれ変わったというありえざる現象。それによって、この世界に対し、なんとなく夢みたいなものなのだと、甘く見積もっていた。その認識が、生理という鮮烈な出来事によって覆された。俺は現実を見てしまった。殺人現場みたいなパンツは、俺のこれから何年も続く苦しみを示唆し、そしてそれが起こる唯一の性別として生きていく未来を象徴していたのだ。俺はそれを本能的に知りそうになって、目を逸らした。そして夢《非現実》を追い駆けようとした。


「あ……あ……あああ…………」


 喉がきゅっと音を立てる。せっかくのスーツは涙と鼻水で台無しになっていた。汚い汗の臭いもした。香水と混ざって気持ちが悪かった。ぐしぐしと顔を手首で拭っても、嗚咽は止まらない。そんなとき、ふと音楽が聴こえた。

 美しい歌声だった。きっと今までも流れていたのだろう、顔を上げると、街頭モニターの前で立ち止まって聴き入るたくさんの人が目についた。彼らの視線の先には、画面の向こうからこちらに微笑みかけてくる女の子がいた。イラストが立体になって歌い、踊り、何より心から楽しんでいることが伝わってきた。いつの間にか呼吸は落ち着いていた。

 こういうのもあるんだ……つーか、歌上手すぎ……ダンスも俺より下手だけど指先まで気を遣ってるのがわかる……。頭の中に色んな独白、そして感情が去来した。思わず立ち上がってモニターを見つめる。


「大丈夫?」


 初め、モニターの中から話しかけられたのかと思った。声の方を見ると、一人の女性が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。どこかで見たことがあるような懐かしさのある人だった。けして派手ではないが、花弁に光る朝露のように目を惹く。


「はい、すみません……」


 俺は反射的に謝り、笑顔を作ろうとする。上手くできなかった。

 そのとき、モニターの歌が一層盛り上がる。サビに入ったらしい。美しい響きに思わず側の女性のことさえ忘れて聴き入っていると、彼女はくすりと微笑った。


「……良い曲よね」

「へっ? あ、そうですね。耳に残る──」


 言いながら、ふと目の前の人の声とモニターの声が一致していることに気がついた。心臓が大きく跳ねる。けれど口には出さなかった。


「……アイドルになるの?」

「はい! あ、……」


 一度口を噤んで、「なりたいって、だけなんですけど……」ともう一度言葉にした。どうしてだろう、この女性は絶対に俺のことを笑わないと思った。そしてそれは正しかった。


「……応援してる」


 女性と目が合う。胸が熱くなる。彼女の瞳に映った俺はやっぱり可愛くなかったけれど、可愛げはあった。いつかの自分のモノローグを思い出した。俺は男だから、男の気持ちがわかる。どんなふうにすれば可愛いと思われるのかわかる。それは武器だ。俺が不細工だろうと何だろうと、それは変わらない。


「ッありがとうございます!」


 女性を見つめ返し、俺は強く頷いた。自己プロデュース能力──出来ることと出来ないこと──……。課題はたくさんあるが、それは目標を諦める理由になんてならない。俺は絶対に女の子とイチャイチャする。してみせる。

 とっくに乾いた頬にぽつりぽつりと水滴が落ちる。見上げると、薄い通り雨が世界に降り注ぎ、青空には朧気な虹がかかっていた。




 造花の咲いた胸を張って昇降口を出る。在校生が校門までの裸木の前にずらりと並び、吹奏楽部のファンファーレが寒空に鳴り出した。俺達はクラス順にその花道を男女二人組で歩く。


「アイドルやめたの?」


 そう尋ねながら、一列前の女子生徒が肩越しに振り返る。俺は笑った。


「やめないよ」


 俺は進学することにした。偏差値の高いところではないけれど、既に合格は掴んでおり、この件で親を泣かせることはないだろう。しかし夢を諦めたわけではない。むしろ、前よりも本気になった。

 校門の向こうでクラスメイトに手を振って別れ、タクシーで駅に向かい、電車とバスを乗り継ぎ、とある場所に向かう。それから数時間後──……天を穿つ摩天楼から出てきた俺は、腹の奥から噴き出すような堪え切れない感情のままに、雄叫びを上げた。


「──ッよっしゃあああ!!」


 俺は懲りなかった。けれど、省みはした。俺は客観視というものが足りなかったのだ。容姿が可愛くないことをわかっているのに、それを補ってあまりある長所があるわけでもないのに、何か譲れない確固たる理由も持たず、わざわざ荊道を進んでいた。俺はそれをやめることにした。自分の持ち味を活かせるのは、何も三次元のアイドルだけではない。咲く場所は選べるのだ。

 俺は方向転換することにした。レッスンは変わらずやっている。でもそれだけでは足りないから、加えて、様々な媒体での覆面配信活動、SNSの運用の練習、そしてオーディション。一つ二つ季節が過ぎて、ひとつだけ一次審査に合格する会社があった。奇しくもそれはあの日出会った女神のような女の人と同じところだった。卒業式の後、俺は本社ビルで二次審査を受け、それにも合格した……ような感触を受けた。審査員の目がこれまでのものと全然違っていたのだ。それからまたいくつかの季節が過ぎた。そして半年後、俺はついに、最終審査の合格通知メールを受け取った。


 あれから二年近く、色々あった。合格した事務所のタレント育成というものに大学と同時並行で参加し、新たな夢を叶えるための方法を教わったり、アバターを借りて試験的な配信を行ったり。それが落ち着いてきた今日、ようやく幼馴染と都合を合わせることが出来た。

 雪解けの水溜りをゲーム感覚で避けながら歩き、少し寂れた雰囲気の居酒屋に着く。外側のドアの脇、申し訳程度に置かれた花瓶には、星のような白い花が赤い大輪に添えられるように咲いている。それを眺めながら鼻歌を歌っていると、車が一台目の前に停まり──鮮やかな並列駐車──、運転席からヒイロが降りてきた。「おー」と手を挙げるとこちらにやってきて、二人で店に入る。


「今日はオレの奢りにしてやろう」


 ヒイロはにこにこしている。俺は思わず唇を尖らせた。誘った段階ではまだ確定ではなかったので、電話先では“良いことがあった”としか言っていないのに、こんなに浮かれられるとこっちが恥ずかしくなってしまうではないか。


「初めからそういう話だろうが、約束忘れたのか?」

「はあー!? 誰もが認める下戸で一滴でも飲むとゲロゲロ吐いて記憶失くすクソザコナメクジたるこのオレが酒の席で奢ってやるって言ってんのになんだその態度は!」


 「お前マジそういうとこ」とヒイロが店員にピースサインを見せながら言う。俺は店員の案内に続いて席につき、一も二もなくメニューを開く。


「よーし! 頼むぞー!!」


 うきうきで写真と文字を追っていると、対面のヒイロが溜息を吐きながら頬杖をついた。


「……その顔に免じて許してやるよ」

「よくわかんないけどあんがと!」


 最初は生として、焼き鳥は外せない……唐揚げも良い……でもゲソ天も頼みたいから脂っこいものが被るときついかもしれない……。掘り炬燵の座敷で足をふらふらさせ、よくよく吟味し、注文を入れた。

 ビールを飲み交わしながらくだらない話をする。あのクラスメイトは今どうしてるとか、担任が教頭になったらしいとか、校舎が改築されるのはいつ頃になりそうだとか。二杯目の生を頼む頃になっても話題は尽きなかった。ねぎまを齧り、もう一皿食べたいなぁなんて考えていると、不意にヒイロがこちらを見て目を細める。


「でもま、元気そうで良かった」


 「何が?」と串を口から引き抜きながら首を傾げた。ヒイロはゲソ天と格闘するのをやめ、箸を置いた。


「お前、モチベーション何もないのに突っ走ってやがったからさあ」

「モチベならあるよ。男を転がして女の子とイチャイチャ──」

「それは夢を叶えた後のことだろ。将来に向かって頑張る過程の話をしてんだよ、オレは」


 口を噤む。串を皿に置き、俺は遠くを見つめる。その通りだった。小目標も何もないまま闇雲にやっていた。確かに、あのままじゃどっち道長く続かなかっただろう。


「……だからかも、叶ったの」

「は?」

「俺、受かった。アイドルの養成所」


 俺はお手拭きで甘じょっぱくなった手を拭い、スマートフォンを操作した。指先がつるつるとして掴みにくい。パ、と出した画面をヒイロの方に突き出す。大手Vidol《Vアイドル》の事務所のホームページだ。


「ここの会社。推しもここに所属してるんだ。やっとデビューも決まってさ──」


 それから合格メールを見せようと思ってスマートフォンを手元に戻しかけたとき、ヒイロが俺 両の手首をがっと掴んだ。細い骨が軋む。珍しく力加減を忘れているらしい。


「おま……は!? マジで!?」


 俺は動かなくなった手首に顎をしゃくって言外に抗議した。ヒイロはすぐに手を離し、一言謝って、また「マジなのか?」と顔を近づける。俺は高い鼻を掌で潰して「マジだっつってんだろ」と低い声を出す。とはいっても、せいぜいハスキーボイスにしかならないのだけれど。

 それにしても、とヒイロに胡乱な目を向ける。女慣れしているヒイロとは思えない動揺の仕方である。何かあるな。じーっと見つめているとヒイロは降参したようで、渋々口を開いた。


「そこ……オレの元カノが、働いてる……」

「世間て狭いんだな」

「そんでお前の推しの中の人を担当してる」


 俺は喉を鳴らして唾を飲み込み、ジョッキを一気飲みして叫んだ。


「はあ!?言えよ!!」

「馬鹿、個人情報だろうが。……まあデビューしたらおのずと気づくだろうから今言ったけど」

「はあ!? 言うなよ!!」

「どっちだっつの!!」


 ヒイロの元カノは女神で、女神は元カノだった……つまり俺は同じ相手に二度恋をしたってことになる。どんな偶然?

 衝撃さめやらぬまま店員さんに「生もうひとつ!」と手を挙げて頼み、俺はテーブルに半ば頭をぶつけるように突っ伏した。そして少し頬を緩める。


「デビュー出来るって思ってくれてるんだな」

「あ? 聞こえねー、顔上げて喋れよ」


 俺は顔を上げた。


「今度こそ栞ちゃんを落としてやるからな」

「負け犬の遠吠えか?」

「うるっせ!」


 店員の持ってきたジョッキを「あざす」と受け取り、また一気飲みする。


「怖いくらいの飲みっぷりだな……」


 ヒイロはドン引きしつつ、ノンアルコールカクテルにちびちびと口付けた。


*

 青い簾の降りた窓の向こうは景色が見えないほど暗い。むにゃむにゃと唇を動かすイバラに溜息をつきつつ、緋色は簾の隙間をそっと覗いた。満月だった。こんな夜は盃で日本酒でも飲めたなら絵になるだろうに。そんなくだらないことを思いながら座敷に戻り、およそ五回目になるいばらの演説に耳を傾けた。


「そこでさ、枝折エダオリ──栞ちゃんがこう言ったんだよ、“世の中は顔じゃない”って! あ、でももうすぐ先輩後輩になるんだから、ちゃん付けするのやめなきゃな……ちょっと寂しいけど……」


 しゅん、と頭を垂れる。つむじからは一二本のアホ毛がとび出ており、しかも枝毛になっている。相変わらずだ。残念ながら彼はヘアケアを怠っておらず、幼少のみぎりにはヒイロ直々に指導したこともあるが、いばらの容姿は改善の兆しも見えない。もちろんやらないよりかはマシなのだけれども。

 若干の同情の視線を注がれているいばらは「あーうー」と眠たげな声を出し、またグラスに手を伸ばす。なお、周りには空のジョッキや氷だけ残ったグラスがいくつも置かれており、とても一人で飲んだとは思えない量である。


「こら。もう飲むなって」

「嫌だ! 飲む!」

「水にしとけ」

「せっかくお前と飲んでるのに水!? やだ!!」


 駄々をこねるいばらに、緋色は思わず頬を引き攣らせた。いばらの気持ちはわかる。ただでさえオーディションの合格で有頂天なのに、こうも驚くような世間話が重なったなら、酒が進むというものだろう。しかし……


「お前、絡み酒って言われねえか?」

「それで栞ちゃんがさあ……」

「聞けよ」


 テーブルを越えてこちらへ伸ばされる手を優しく押しやりながら緋色が苦笑する。対面の席でなかったらどうなっていたことか。いばらは精確的に合コンに参加したがるタイプだろうが、しばらくは自粛させる必要がありそうだ。

 「すみません水貰えますか?」と手を挙げると、やってきた女性店員は──“研修中”という札が胸に留められている──、大ジョッキいっぱいのミネラルウォーターと共に小さく可憐なメモ帳に十一桁の番号を書いて寄越した。顔を上げると、緋色の視線とやや熱を帯びたそれが交錯する。「で、では……」と女性店員は駆け足で去っていった。緋色はその丸くてハリのある臀部をやけに注意深く見つめる。


「……そろそろ次に行ってもいいよな、オレ」

「なゃにー……?」

「お前には言ってねえよ」


 アルコールで赤くなった額にデコピンをお見舞いすると、いばらは「ぐぬ〜……」と唸って頭を庇った。しかしその口元はへにゃへにゃと弛んでいる。今だ──緋色は直感的にそう思い、水のジョッキを勧めた。いばらは従順にそれに口を付ける。作戦成功である。

 きっと喉が渇いていたのだろう。いばらは水を飲み干すと、ふーっと息をついて目を開けた。ぱちぱちと瞬く。


「ん……?」


 いばらはしばらくぼんやりとしてから、はっとした。


「いま何時!?」

「夜中の十二時」

「……セーーーフ!!」


 ぐはーっと大袈裟に溜息をつくいばらに緋色が「なんか予定あったん?」と尋ねると、彼は「無ぇけどさ」と唇を尖らせた。


「せっかくお前と会ったのに、酒にかまけてちゃんと話も出来てなかったから……」


 緋色は瞠目する。


「なんかあったか? 話」

「……んー……」


 いばらは斜め下の方に目を伏せた。その表情は何か懐かしむような、けれど満たされているような、それでいて寂しげな、そういう複雑な色を灯している。


「これからはまたしばらく忙しくなるな……って」


 大人びた言葉だった。緋色はどこかアンニュイな彼に、「そうだな」と頷いた。いばらは空のジョッキを強く握る。緋色はテーブルに落ちるグラス達の透明な影を見つめている。


「でも、ずっと友達だからな」


 まるで子供みたいな言い草に、緋色は顔を上げた。そして向日葵のような黒い虹彩と目が合う。急に、胸をナイフで一突きにされたような息苦しさを感じ、手元のグラスを煽った。


「おー、良い飲みっぷりじゃん」

「ああ……」


 緋色は俯いて黙り込んでいる。くらくらする。心臓がどくりどくりと拍動し、真っ赤な血液が循環し過ぎて、頭が痛かった。いばらは緋色の異変に気づかず、テーブルの上で微睡み始めている。

 ──駄目だ。緋色は思った。いばらが語った女の子への愛を思い出させ、正気に戻ろうとする。でもやっぱり駄目だ。緋色の心臓はまるで何かが根を張って無理矢理に動かしているかのように言うことを聞かない。身体中がそうだ。いばらの呼吸ひとつできゅんとなり、ごく短い睫毛の揺らめきにごくりと喉が鳴る。緋色はもうこの気持ちを無かったことにする不可能性に気がついていた。駄目だ、ともう一度噛み締めた。

 せめて、せめて。この気持ちには蓋をしよう。いつの間にか、夢に向かって歩く幼馴染を祝福することこそ、緋色の夢になっていた。ようやく日の目を見ようとしているいばらを摘むことなど……この気持ちを知ってしまったからこそ、それは絶対に出来ない。

 緋色は手元のグラスを持ち上げた。「お?」といばらは腕に顎を乗せながら、片方の手で空のジョッキを手に取る。


「かんぱ〜い!」


 かちん。二度目の祈りが店内の喧騒に溶けていけ。イバラはまた新しい注文をして、緋色はゲソ天を噛み千切った。夜はまだ長い。頬を赤らめたヒイロの側で、カシオレの氷がからんと音を立てた。




 知らない天井だ。


 つんと鼻につく匂いで目を覚ましたいばらは、むかむかとする腹を押さえ、身を捩る。二日酔いにしてはあまり気分が悪くない。むしろ身体が羽根のように軽く、すっきりとした感覚さえある。それに、何か温かいものが側にあった。なんとなく落ち着く感じがしたので、いばらはそのことに意識を向けない。けれど代わりに周囲の様子が気になった。今はまだ眩しくて見えないが、光の差す方からはちゅんちゅんと鳥の声がする。鼻につく匂いはおそらく嘔吐物ゲロだ。その中に混じっている薔薇のような甘い匂いの正体はよくわからない。

 そうっと半身を起こすと、はらりと何かが胸から落ちるのを感じた。天井から視線を外す。いばらの中途半端な乳房の肌色が布団から露出していた。いばらは沈黙し、布団を捲る。下穿きも身に着けていないらしい。これはどういうことだ? 転生したことで裸族の称号も手にした記憶はなかったのだが。

 そのとき、もぞりと身体の側の温かいものが動いた。怪訝な顔を上げると、裸の緋色がいた。いばらは絶叫しそうになった。何かが喉に詰まって声が出ず、こほこほと咳をすると、貧相な胸元に嘔吐物ゲロが落ちてきた。いばらは絶句した。そして独り言のように口を開く。


「合格早々スキャンダル? いやでも腰は痛くないし………」


 一方、緋色は真っ青になって震えていた。緋色には記憶がほぼなかった。二度目の乾杯をしたときまでは覚えているが、そこから何をしたのか、とんと見当もつかない。嘘だ。見当はつく。確実に、“何か”を“ヤッ”てしまったことは確かだ。その証拠に、目覚めたとき、緋色は何となく満足感を覚えていた。意識が覚醒してからはそれどころではなかったが。何せ現在進行形で股間に後の祭りであろう湿り気を感じている。

 混乱しているいばらを横目に、緋色はずきずきと痛む頭を押さえながら布団を剥いで、一糸纏わぬ姿でベッドに正座しようとする。ひとまず謝罪しようと考えたのだ。しかし、シーツから腰を浮かせたとき、何かがおかしいと感じた。緋色は改めて周囲に視線を巡らす。布団で隠れていた緋色の太腿には白っぽい液体が張り付いている。周りにゴムはない。やはり、想像通りのことが発生したはずだ。けれど──……後ろ手に、緋色は自分の尻にそっと触れる。何かが垂れてくるのを感じた。ぬるぬるべちゃべちゃとした感触も。

 緋色は数秒首を傾げて停止した。そして尻を触った手に目を落とした。いばらも、その決定的瞬間を見逃さなかった。どろりとしたものが付着した掌。二人は同時に叫んだ。


「「オレがそっちなのかよ!!?!?」」


 顔を見合わせた彼らの首元には、赤い花が咲いていた。




〈 『手違いでも薔薇は咲く』 了 〉

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