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皇后暗殺

作者: 江葉

指先一つ、髪の一筋にも触れられない恋愛っていいですよね。



 俺は、宦官である。

 宦官というのは皇帝という、この国の最高権力者の奥さんを一カ所に集めた、後宮と呼ばれる地獄みたいな場所で働く、男性のアレをソレしちゃった元男性のことをいう。

 繁殖能力はないけど髭は生えず、なのにハゲにはならないという、良いのか悪いのかよくわからん体だ。


 宦官になるには方法がいくつかあって、だいたい志願かうっかり犯罪に手を染めて罰としてアレをソレされちゃったか。俺は志願したほう。

 理由は、就職だ。

 実家はそこそこの貴族だが兄が継ぐし、次男の俺に独立資金を渡せる余裕はない。かといって官僚になったところでコネも賄賂ワイロに使える金もない、そこそこ貴族の次男坊なんか手柄を立てれば名家の坊ちゃんに横取りされ、上司の失敗は押し付けられて責任とってクビかクビ(物理)の未来しか見えない。だったらワンチャンかけて宦官になろうと思ったわけだ。そんなに悪くない選択だ。なにしろ後宮。気に入られるのは皇帝と皇后だけでいい。


 まあ、たまにおつかいで後宮外に出ることもあるし、そこでは人間扱いされないけど。


 宦官を人間扱いしない連中の親玉みたいな奴に呼び出されて行ってみれば、そこにいたのは親玉の部下の部下の下っ端みたいな男だった。


「呉皇后を暗殺しろ。手段は問わない」

「…………」


 命令に理由を問うのは許されていない。下っ端はそれだけ言うと、後宮からはるばるやってきてこうして平伏している俺をねぎらうこともなく、ぺっと唾を吐いて立ち去った。宦官なんかと口をきくと口が汚れますか。そうですか。


 床を汚したままでは俺が叱られるので手拭いで拭いて、俺もその場を後にする。

 皇帝の第一夫人である皇后は、今の皇帝が皇帝になる以前から連れ添ってきた糟糠の妻だ。


 今上帝は運が良いのか悪いのか、当時皇太子だった人物が祖父なのだが、祖父の父である皇帝に冤罪吹っ掛けられて一族処刑の憂き目にあった時、赤子であったからという理由で処刑を免れた人だ。

 その後牢屋で育てられ、冤罪が冤罪であった真相が暴かれて晴れて皇族に復帰。しかしすでに親は処刑され頼れる家臣は処刑され冤罪吹っ掛けた曾爺さんは息子を冤罪で処刑したショックで倒れて黄泉に渡り、そんな焼け野原な上縁起悪い子供を引き取る有力貴族はなく、結局牢屋で面倒見ていた下級役人に引き取られた。押し付けられたというべきか。微々たる報酬は出たろうが完全に貧乏くじだ。

 そんな男でも皇族としての教育はされたらしく、無事に結婚した。これが呉皇后だ。


 ここから不運な男に幸運が舞い込んでくる。


 冤罪ふっかけ曾祖父の後に八歳で皇帝になっていた大叔父が早世したのだ。

 彼に子は居らず、新たに皇帝が選出された。今上帝にとっては叔父にあたる。

 こいつがやばいやつだった。喪が明ける前、立場上は「母」となる女性がいる後宮に、夫面して忍び込んだのだ。

 これはまずかった。

 本当に本当にまずかった。

 引き連れてきた家臣団も、まさかここまでアホとは思わなかっただろう。帝位に就いてわずか数日。驚異的な速さで廃された。全会一致だった。

 なにしろ先々帝の皇后には、大司馬大将軍という実質的な最高権力者の孫が就いていたのだ。権力者の怒りを買った男はあっという間に自滅した。


 ここでようやく今上帝の出番となる。血筋的に申し分なく、後ろ盾はなく、実権を握る大司馬大将軍の邪魔をする家臣もいない。ついでに金もなかった。

 大司馬大将軍、郭孔かくこうの失敗は、「皇帝にしてやるからうちの娘を皇后にしろ」と言っておかなかったことだ。皇帝()礼鞅れおうは皇帝になったその席で「皇后」として妻の鈴君れいくんを居並ぶ臣下に紹介してしまった。誰も予想だにしない、電光石火の早業だった。

 綸言汗のごとし。皇帝の発した言葉は誰にも取り消せない。郭孔は臍を噛んだが、どうにもならなかった。


 まあ呉皇后はしょせん下級貴族の娘。本物の令嬢に言い寄られればころっと靡くだろうと言う予想を大きく裏切り、皇帝は彼女を寵愛し続けた。しかもこの度懐妊が判明した。自分の血を皇帝にしたい郭孔には腹だたしいばかりだ。

 と、まあ、これが皇后暗殺命令までの経緯だ。俺は誰がこの命令を出したのか知らないし、知ってはならない。郭孔だろうなとは思っているが、俺は命令されたことをこなすだけである。


 それにはっきりいって、俺には皇帝が皇后を我儘で危険に晒しているようにしか見えない。

 本当に愛しているのなら実家に帰してやるか、下級妃に留めておくべきだ。俺は宦官だから人の心がないと思われがちだけど、家族愛は知ってるタイプの宦官なのでそう思ってしまう。

 皇帝の、生まれも育ちもひでえ地獄で、ようやくできた家族と離れ離れになりたくない気持ちはわからなくもないけど、この国の歴史を知っているのならむしろ殺したいほど憎んでいると言われたほうが納得できるくらいだ。

 重い気持ちを抱えて後宮に戻ると、皇后のへやが騒がしかった。


「あっ、はんさん」

「范さん、皇后様を止めてください~!」


 籠と小刀を持ち、なにやらやる気に満ちている皇后と、半泣きになりながら止めている女官たち。


「……どうなさったのですか?」


 討ち入りかよ。それとも狩りか?


「そろそろ春だし、後宮の庭へ山菜採りに行こうかと!」


 狩りだった。


「お止めください! 皇后陛下にそんなことはさせられません!」

「毎年近所の山に採りに行ってたんだけど、後宮じゃ無理かなと思ってたら見つけてしまったのよ。これは行かないと。山菜は礼鞅も好きだし」

「それ陛下に言っちゃダメですからね!? 陛下まで山菜採りに行くと言い出しかねません!」

「生活の知恵よね!」

「皇帝と皇后におなりになったのですから大人しくしていてください~!」


 皇后の腹心ともいえる女官のでん氏は皇帝の友人の妹だ。田氏は下級役人から皇帝の側近の一人に大出世し、妹は後宮勤めになっている。皇帝の運に引っ張られた兄妹だった。

 貧乏というものをよく知っているだけに、未だにそれを忘れない皇帝と皇后が頼もしいやら滑稽やら。とにかく止めるべきだろう。


「皇后陛下、お腹の御子のためにも御身は大切になさってください」

「大丈夫よ。母様は私を産む直前まで畑仕事してたって言ってたもの」

「安心できる状態だったからです。今の陛下は悪阻もあってお体が弱った状態です。主上のためにも大事になさいますよう」


 皇帝を出されると弱い。御子を誰よりも喜び待ち望んでいる夫を思ったのか、皇后は残念そうに引き下がった。


「わかったわ……」


 しょんぼりしている皇后はまだ十六歳。若いのに苦労している。


「そうですよ、皇后様。皇帝陛下の御子に万一があってはいけません」


 田氏が感謝の目配せをしてくるのに苦笑で返した。まったく、家族に憧れている皇帝が血の繋がった我が子にどれだけ喜んだのか、忘れてしまっては駄目だろう。


「山菜ならひと言いただければ用意いたしますが?」


 一応フォローを入れるが皇后は首を振った。


「いいわ。よく考えたら売りに行けないものね」


 売るつもりだったのか……。

 食うにも困ったという新婚生活が偲ばれる。色々と物入りな皇族なのに領地のない男と、貧乏貴族の娘の生活がどんなものだったか想像して、涙が出そうになった。

 それほど苦労していないそこそこ貴族の次男だった俺はまだ恵まれていたのだ。うっかり緩んだ涙腺がばれないように上を向いた。


「范さん、何か暇つぶしになるものってない? ダメダメばっかりで息が詰まりそう」

「では、布を用意しましょう。御子の服を縫ってはいかがでしょうか」


 つい言ってしまった。この皇后、俺たち宦官を普通に人間扱いしてくるので調子が狂う。

 思えば最初が悪かった。いきなり「さん」付けされて、その必要はないと言ったらきょとんとした顔で「でも、年上の人には敬意を払うべきでしょ」ときた。

 たしかにそうだが、宦官である。まさか宦官を知らないのかと思ったら知っていた。父親がまさかの宦官だった。


「宦官だって人じゃないですか。と、いうかうちの父様仕事でポカミスやらかして宮刑喰らって後宮勤めに回されましたよ。おかげで男の子いないままです」


 けろっとして言った。宦官の中には結婚している者もいるが、それは皇后の父親のような、結婚し子もできてから宦官になったパターンだ。俺子供いるから、は宦官が宦官にやるマウント。

 この時点で皇后に取り入って皇帝と近づきになろうと挨拶に来ていた俺たちは驚いたし、えっ、誰の娘? と思った。


「父様よく酔うと「くっ……昔の傷が疼くぜ……」とか言ってソコ押さえるけど、それって後宮の鉄板ギャグなの?」

「それはあいつだけです……」


 もう駄目だった。震えながら突っ伏す者多数。皇后にとって俺たちは「父親の同僚」で、一応後宮の中では偉い位置にいる俺は「范小父おじさん」だった。笑いながら泣いているやつもいた。


 それでも俺は宦官だ。歴代皇帝に「不老不死の妙薬」として水銀を飲ませてきた宦官の一員として、権力者に命じられたからには暗殺を成功させてみせる。



 妊娠初期なら体調不良で倒れても不自然じゃない。まず、食事に毒を仕込んだ。

 皇后の好きなスープ。ところが、皇后は匂いを嗅いだだけで口元を押さえた。


「ごめんっ、これ、匂いが……」


 うぷ、と吐き気を堪える皇后に田氏たち女官が慌てて介抱する。羹が下げられ、匂いのほとんどない粥が急遽用意された。

 皇后が食べられるものは日によって変わった。

 無味無臭の毒薬、などという都合の良いものはないため、味と臭いをごまかす工夫を凝らすのだが、皇后は上手いこと避けていく。運が強いのか、それとも母の勘か。体に悪いものを食べるのを本能的に拒否しているようだ。


 毒がダメなら事故を装うか、と策を練るも、皇后懐妊に誰よりも喜んだ皇帝があれ以来べったり張り付いている。普通の皇帝なら閨の相手をできない女など放って別の妃に通うものだが、目もくれやしなかった。


「鈴君、つらいことはないか?」

「目が回ってる~。気持ち悪い……」

「何か気分のさっぱりする、果物でも用意しようか? それとも花か!」

「礼鞅、うるさい」

「ハイ……」


 皇后は悪阻が酷く、起き上がれない日もある。皇帝といえど男は役立たずだ。オロオロするしかない。

 このまま放って置いたら死んでくれないかな。そう思いつつ、寝台に力なく横たわる皇后に胸が痛んだ。


「主上、大司馬大将軍が面会を求めております」

「わかった、行こう。……ごめんな、鈴君」

「いーのいーの。お仕事頑張って」

「范さん、鈴君を頼むな」


 絶好のチャンスだがここで皇后に何かあったら俺の責任だ。皇后を女官に任せ、皇帝の後を追った。

 追ってきた俺に不満げな顔をする皇帝に言い訳する。


「女官殿に任せてきました。わたくし共宦官より、同じ女性のほうが気が楽でしょう」

「そうか。……郭孔のやつ、何の用か聞いたか?」

「……郭婕妤しょうよのことではないかと……」

「やっぱり? 皇后ばっかじゃなくてよそに通えってうるさいんだよなぁ。あからさまじゃないけど、郭婕妤のとこ行けって言われる」


 それはそうだろう。郭婕妤こそ皇后となるべき女性だったのだ。それが呉鈴君に横取りされて第二妃の婕妤に甘んじ、さらには子供まで。

 今のまま男の子が生まれたら、その子を太子にされてしまう。家柄は低くとも皇后から生まれたのなら太子の資格は十分ある。なにしろ歴代皇帝はなぜか身分の低い女性を寵愛する傾向にあり、先々帝の母親など踊り子だったのだ。


「郭婕妤はお気に召しませぬか」

「ここだけの話、郭婕妤見ると郭孔の顔が浮かんできて無理」


 吹き出しそうになるのを慌てて堪えた。皇帝は気づかず、うんざりしたように続ける。


「それに郭婕妤の房、高そうなものいっぱいあって落ち着かない。うっかり触ったら弁償とかさせられそう」


 すごく、わかる。

 宦官を人扱いしない男の娘は宦官を人扱いしなかった。気に入りの花瓶に袖が触れた、視界に入る位置に立っていた、自分の前を通り過ぎた。言いがかりとしか思えない理由で鞭打たれたことが何度もある。唾を吐きかけられるなど甘いほうだ。

 ふと皇帝が道を反れて、庭に咲いていた水仙を一輪摘んできた。


「これ、渡しといて」

「皇后陛下ですか?」

「違うよ。郭婕妤に」


 少なくとも気にはかけている、と示したいのか。後宮の門を出ていく皇帝を、頭を下げて見送った。皇后に贈ったなら素直に喜ばれるだろう水仙は毒草だ。知っていて郭婕妤に、というのなら皮肉が効いている。


 大司馬大将軍が皇帝を呼び出した用件は、娘が寂しがっているから妻――郭婕妤にとっては母親を後宮に自由に出入りできるようにした、という事後承諾を得ることだった。

 本来はそんなことは許されない。たとえ家族であろうとも、面会するなら専用の房に、せいぜい数時間だ。後宮の規律を乱すとして処罰されても仕方のない横暴だった。

 それが嫌なら、とやるつもりだったのだろうが、自分が世間からどう見られようと知ったことではない皇帝はあっさり許可した。今さらそんなことで逆らっても、郭氏の傀儡であることは周知の事実なのだ。


 おかげで夫人とすれ違うたびに睨まれる。暗殺命令から半年、皇后は順調で、腹もだいぶ目立つようになってきた。

 俺は暗殺命令を出したのが誰か知らないことになってるんだから、もうちょっと注意してもらいたいものだ。いくらプレッシャーかけられても、暗殺なんてそんなに簡単にできることじゃないんだよ。

 それにいくら皇帝に見向きもされないからって媽媽ママを呼び出して泣きつくなんて、ますます皇帝の心が離れていくってなんでわからないのかねぇ。


 財力を見せつけるように宴を開いたり、これみよがしに着飾って女官を引き連れて練り歩くものだから、すっかり顰蹙を買って太皇太后にまで苦言を呈されている。

 先々帝の皇后であったこの女性は郭孔の孫で、郭婕妤とは叔母、姪の間柄だ。年下の叔母が妃の一人ではやりづらいだろうが、なんとか郭婕妤を取り立ててくれるように皇帝と皇后にも気を使っていたのにあれだもの。怒るのも無理はない。誰だって、せっかく皇后にしてやったのに子供も生めない役立たずと陰で言う親戚より、若くして未亡人になったと同情して何くれとなく気づかってくれる人を好きになるものだ。


 太皇太后だけではなく、後宮妃の全員に皇后は受けが良かった。若いが苦労しただけあってみんなの大姐ねえちゃんだし、時に肝っ玉母ちゃんのように妃たちの鬱憤を一喝で晴らしてくれる。

 皇帝が呉皇后と結婚したのが彼女が十三歳だったのを参考に皇帝の好みを推測したため、後宮妃の平均年齢が低いのだ。年端もいかない姉妹を入内させた家もあり、一番しっかりしているのが十六歳の皇后。

 皇帝を中心にした後宮は家族だと、家族に遠慮はいらない、と未だ幼い妃がお腹に触るのを許している。誰かが悪意を持って腹を叩くなんて考えてもいないのだ。

 郭婕妤の嫌がらせなど、ただ不愉快な虫の羽音のようなものである。



 やがて順調に月満ちて、せめて女の子であってくれと俺の願いも虚しく生まれたのは男の子だった。

 こういう時役に立たない男は外で待ってろ、と産室を追い出された皇帝が側に控えていた俺の手を摑んで祈る。産声が響いた瞬間どばっと涙が濁流となって流れ出ていた。


 そうか、泣くのか。


 感慨深くはあったがどこか遠い世界のように感じていた俺は、男泣きに泣く皇帝をぼんやりと眺めていた。

 産室から出てきた女医官が、疲れた顔にほっとした笑みを浮かべた。


「陛下、おめでとうございます。どうぞ中へ」

「鈴君は、無事かっ!?」

「ええ。お疲れのようですがお元気でらっしゃいますよ」


 皇帝が皇后の名を呼びながら産室に駆け込むと、女医官が俺の足を蹴った。


「なっ」

「産まれちゃったじゃない。今度こそ、しっかりやんなさいよ」


 目を見開く。女医官は吐き捨てるように言うと、皇帝が馬鹿力で摑んだものだから痛みで痺れている俺の手に、何かを握らせた。


「産後の肥立ちが悪いなんてよくあることよ」


 虫けらを見る目――いや、虫以下を見る目だった。人の心を持たない人非人。それが宦官。仕える皇帝でさえ邪魔になれば殺すひとでなし。


 産室をそっと覗くと皇帝が泣きながら皇后が縫った襁褓に包まれた我が子を抱っこしていた。皇后は少しやつれていたが、その顔は誇らしげに笑っている。

 女官の田氏も、泣きながら笑っていた。

 子供が産まれる瞬間。俺には一生縁のない幸福がそこにあった。


「范さん」


 皇后が俺に気づいて皇帝に手を伸ばした。赤子が母の腕に戻される。


「范さんも抱っこしてみて」

「と、とんでもありません。わたくしは宦官です、そのようなことをなさってはいけません」

「いいじゃないか。他に誰も見てないし」


 皇帝がバシバシと背中を叩いた。誰かと喜びをわかちあいたいのだろうが、よせ、俺を巻き込むな。


「ほら、范小父さんですよー」


 皇后が赤子の手を持ち上げて俺に伸ばしてきた。反射的に伸ばした指を、壊れ物のようなちいさな指がきゅっと摑んでくる。信じられないくらいやわらかくて、熱い。ちゃんと爪があった。関節もきちんと動いている。


「お、おめでとうございます陛下。心から……っ」


 慌てて指を離し、平伏する。皇帝がまた背中を叩いた。


「ほらな、泣くんだって男でも。俺だけじゃないんだってば」

「まあ。范さんまで? 男の人って感激屋さんね」

「仕方ありませんわ、皇后様。わたくしも今猛烈に感動しています」


 頭上でのん気な会話が繰り広げられている。

 眼が熱い。そうか、泣いているからか。

 泣いているからか。

 眼だけではなく胸も、全身も熱かった。言葉など何も出てこず、ただ床に付いた手を握りしめる。ぽたぽた、と熱い雫が落ちていった。



 皇帝陛下に男子誕生は国中に伝えられ、一部を除いて国中がお祭りムードに包まれた。

 皇后はやってきた妃たちにも遠慮なく赤子を抱っこさせ、泣いたり笑ったりと後宮は喜びに騒がしかった。


 そんなある日、皇后が頭痛がすると言った。

 皇帝はさっそく息子を太子にしようとしたが、大司馬大将軍をはじめとする大臣たちにまだ早いと抑えられている。


「范さん。私ね、幸せよ」


 顔色の悪い皇后が寝台の上で外を眺めながら言った。後宮で生まれた御子には乳母が付き、妃は母ではなく女として復帰が求められる。畜産業と一緒だ。

 赤子は乳母に抱っこされて庭を散歩中だ。女官や幼い妃たちがきゃいきゃいと取り巻いている。


「私ね、礼鞅と結婚する前未亡人だったの」

「えっ?」


 いきなり何の話だ。


「婚約者が亡くなってね……。結婚もしていなかったのに未亡人扱いよ。ひどいと思わない? 私、まだ十だったのよ」


 この国の慣習では、結婚後に寡婦となった女は亡き夫に貞節を尽くすのが美徳とされている。婚約だけでもそれは同じだ。


「生きたままお墓に埋められていた私を、礼鞅が生き返らせてくれた。家族のいないあの人に、家族を作ってあげたかった」


 皇后は言葉を区切り、息を吸いこんだ。


「後宮の妃たちは、あの人の家族になってくれるでしょう。礼鞅の血を引く子供も産めた。だから、もういいわ」


 たまらなかった。わかっていたのか、この人は。俺が思っていたよりずいぶんとしたたかだったようだ。してやられた。

 いつか暗殺されるとわかっていて、それでも皇帝に何も言わなかったのは、せめて最期まで家族でいたかったからだったのだろう。なんという女だ。


「皇后様。わたくしは」


 一緒に逃げましょう。そう言いかけて、喉の奥で飲みこんだ。一緒に逃げてもこの人は幸せじゃない。呉鈴君は、皇帝となった男を今も同じく愛しているのだ。


 惚れた女を攫って逃げることすらこんな体じゃできやしない。三十にして恋を知るなんて嗤ってくれ。俺は人間だ。

 宦官になったのをはじめて後悔する。

 こんな形で出会い、恋をして、そして破れた。この女が俺を人間に戻してしまった。


「……産後は体調を崩すことが多いと、薬を用意してあります」

「ありがとう、さすが范さんね」


 鈴君は俺の差し出した丸薬を飲み込むと、笑って目を閉じた。

 自分の恋の後始末をして、俺は「おやすみなさいませ」と彼女に声をかけ、房を出ていった。




この話は漢帝国中興の祖といわれる宣帝と最初の皇后である許皇后がモデルです。この二人が大好きでいつか書きたいと思っていたのを思い出し、初心に帰ってみました。

宦官が主人公はありそうでなかったので。小説などではだいたい悪役な宦官ですが、人間なんですよね。性欲もちゃんとあるらしいし、恋をしてもおかしくないのかもと思い立って書いてみました。

子供いるけど宦官、で一番有名なのは曹操でしょう。宦官の孫と揶揄されたのは有名です。

あと司馬遷も武帝に進言したら怒らせて宮刑にされ、それで「史記」を書いたとか。史記の武帝のページはけっこうぼろくそ言ってて恨みが見え隠れしています。司馬遷には娘がいました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 私も元ネタ好きな話ですが、違う視点から読めて嬉しかったです。いつも時代考証というか、社会背景がしっかり書かれていて面白いし、入り込めます。 [一言] ご存じかもしれませんが、白泉社加藤四季…
[一言] “お嬢様と私”というタイトルの四コママンガを思い出してしまいました。 あの四コママンガの許平君は図太かったけど、本物の許氏はこんな感じだったんだろうなと思いましたね。 面白かったです。
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