ストーキングは困ります
「今日は練習に行くのやめるか……」
梶田に絡まれた事で、三日分くらいのカロリーを消費した気分だ。マジでやってらんない。大会間近ではあるが、まっすぐ帰宅する事にした。どうせ自主練だし。確かに今週末には大会があるとは言っても、それに人生や青春がかかっている訳ではないのだ。
私は長年水泳をやっているが、部活動はほぼやっていない。地元のスイミングクラブにずっと所属している。
一応、大会に出るために名ばかり水泳部に所属しているが、私以外にも「たまには大会には出たいが練習自体は自分のペースでやりたい」人はわりと多くいるため、肩身の狭い思いをすることがない。なので、ほとんど帰宅部みたいなものだ。ビバ個人種目。
私が出場するのは平泳ぎ。200メートルと、400メートル。もちろんタイムは速くはない。中の中だ。なんとなく、体が鈍らない程度に、達成感が有ればそれで良い。吐くまで練習したくない。
「うえ〜」
自室のベッドにぼすんと飛び込む。私がタピオカ屋に連れて行かれた事、明日学校で広まっていなければいいんだけど。
その後はずーっと、部屋でゴロゴロしていた。ベッドでうつらうつらしていると、視界のはじにLINEの通知がピコンと映った。
『梶田亜蘭さんがあなたを友達に登録しました』
「ひっ」
この個人情報保護が叫ばれる時代に、なぜ梶田は私の連絡先を知っているのか。共通の友人知人はほぼいないと言っていい。どう言う事だ。
背筋がぞわっとして、思わずスマホを裏返した。タイミングよく夕食に呼ばれたので、カレーライスを食べ、そのままお風呂に入り、一度もスマホを確認しないまま寝た。
私はその日、夢を見た。自分は小さなカエルになっていて、葉っぱから葉っぱへ、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
うだるような暑さの中、体が焦げそうなほど暑くてたまらず、近くの川に飛び込んだ。私の体は驚くほどにすいすいと、泥水の中を進む。ひとしきり満足して水面から顔を出すと、そこは雄大なアマゾン川ではなく、タピオカミルクティのカップの中であった。梶田が見たことも無いような満面の笑みを向けてくる。
『井の中の蛙、ならぬ、カップの中の蛙!』
慌てて逃げようと思ったが、カップには透明な蓋が付いていて飛び出すことが出来なかった。
私はそのままストローで吸い上げられ、つるりと飲み込まれ、梶田の胃の中にすっぽり収まってしまった。
「助けて!たすけてー!」
胃の中でびょこびょこと跳ねてみるが、食道は遥か頭上。
「多恵、ごめんね。この世は弱肉強食。君にはアミノ酸となって、一生を僕と共にしてもらう」
「そんなの無理!新陳代謝で、あっという間にお別れだよ!」
別にお別れしたくないわけではない。ただ、私を摂取し吸収しても梶田の悲願は達成されないので、潔く捕食するのを止めてほしいだけだ。今ならまだ間に合う。今ならまだ……体にピリリとした刺激が走る。
「溶けちゃう!溶けちゃう!粘膜が溶けちゃう!」
助けて!私はパニックになってその辺を跳び回った。そのうちだんだんと視界が狭まってきて……と言うあたりで目が覚めた。
「…はっ!」
最悪な夢だ。どうせ夢なら毒ガエルになって内部から殺してやればよかった。まだ目覚まし時計のアラームが鳴る前の時間だ。二度寝する気分には全くなれず、リビングへ向かうとお父さんがいた。
「おはよう多恵。今日もカエルみたいで可愛いね」
「今そんな事言わないで」
「ははあ、さては男子にでもカエル顔だと揶揄われたな」
お父さんは大学教授をしている。専門分野はカエル。若い頃はよく南米にフィールドワークに出かけていて、新種の生物を何種類か見つけたらしい。
そこで毒ガエルの毒を食らって生死の境目を彷徨った後、共同研究でそのカエルから新しい成分だかなんだかを取り出す事に成功したとかなんとか。私がカエル顔なのも、変な男に変なことを言われたのも、全てお父さんが研究の犠牲にしてきたカエルの呪いだと思う。
「よちよちドロン、お姉ちゃんにごあいさつしなちゃい」
お父さんはリビングに設置されている大きな水槽を覗き込んだ。そこにいるのは魚ではない。
何とかヘビのドロン、お父さんのペットだ。断じて私のペットではない。往年の映画スターから取った名前らしい。私は蛇が苦手なので触ろうとか、お世話をしようと思ったことがない。たまに餌をやってくれと言われる時があり、しぶしぶお手伝いをしているが、いつ噛まれるのかと思ってヒヤヒヤする。しかも餌は冷凍のネズミだったりする。勘弁してほしい。
「蛇は弟じゃないよ」
「だってさ、ドロン。残念だったね」
水槽から取り出され、解き放たれたドロンはテーブルの上でとぐろを巻いている。この飼い方が正しいのか、非常識なのか私にはわからない。うちの常識は世間の非常識かもしれないが、お父さんが常識人になることは天変地異が起こってもありえないのでもうこれでよしとする。
お母さんはまだ眠っている。と言うより、父が本を読んでいて寝ていないだけなのだが。
「こんなに早起きして、何か悪い夢でも見たのかピョン」
「その話し方やめて」
「昨日も口数が少なかったし、お父さんは多恵の事を心配しているニョロ」
心配されているのは本当の事だと思ったので、梶田の存在は除いて、夢の中でカエルになって泳いでいたら天敵に捕食された話をした。
「何色だった?」
「赤と青の、なんかヤバい配色のやつ」
私の返答に、お父さんは満足げに笑った。
「ドロン、お姉ちゃんは毒ガエルだから食べたらダメだぞ。二人とも死んじゃうからな」
ドロンは理解したのかどうか、お父さんの腕に巻きついた。
「蛇でも……毒ガエルを食べたら死ぬ?」
「もちろん。でも、多恵が僕が思っている通りのカエルなら、猛毒だから食べられる事はそうそうないと思うけどね」
その返答を聞いて、何故だか私はほっとした。私は毒ガエル。それも猛毒ガエルだ。見た目からして危険だから食べられる事はないし、最悪返り討ちにする事ができる。
顔を洗って部屋に戻り、スマホの画面を見る。昨晩のライン事件については、ブロックする勇気がなくてとりあえず通知をオフにしていた。今見てみると、大量のメッセージが来ている。
「ええ……」
おそるおそる、薄目で画面を見た。『今日はありがとう』から始まり、梶田家の晩ご飯の画像、私は何を食べたか?等の質問、自室にあると言う『エア水槽』の画像まで送られていた。
その後には長々と、毒ガエルを飼育したいと思っていたが、家族が反対していて飼うことが今までできていなかった。でも多恵がいるから、もうただのテラリウム として運用する事で落ち着いたのだと言う。わざわざ他のカエルを飼ったりしないから安心して欲しいと記されていた。
「梶田きめえな……」
しかし、どんなにキモくても彼は学園の王子様だし、このあたり一帯の地主の息子であるので敵対は避けたい。LINEをブロックしたら学校で「なんで俺の事ブロックしたの?」とか普通に聞いてきそうだ。そんな事を言われた日には、本人にその気がなくても私のスクールライフは暗黒になってしまう。
私は気を取り直して、梶田のいいところを必死に探した。そして『夕食に一人一皿お刺身がつくなんてすごいね』返信した。
その瞬間に既読がついた。
「ひえっ」
時刻は朝の6時。起きていてもおかしくないが、寝ている人の方が多いだろう。
『おはよう』から始まり、『商店街にある魚屋とは古い付き合いで、切り分けて家まで届けてくれるんだ』『昨日はよく眠れた?俺は多恵の夢を見たよ』『このスタンプ可愛いでしょ?プレゼントするね』と、何も言っていないのに有料のスタンプが送られてきた。
既読が付いている事で調子に乗ったのか、梶田はどんどんメッセージを送ってくる。
『昨日は説明する時間がなかったけど、多恵の前世の姿だよ』
新しい画像が送られてきた。
……それは夢の中で自分が変身していた、手足が青くて背中が赤い、いかにも毒がありそうなカエルだった。
私は返事をせずに、スマホの電源を切った。