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短編大作選

第一声は「愛してる」

掲載日:2017/10/22

眠る女性の顔は少しだけ幼さが残る整った顔だった。


半分ほど顔が隠れているのに美しさは十分、伝わってきた。


女性の顔には無数の傷があり、とても痛々しかった。


一生、目覚めないかもしれないが僕にとっては、ただの知らない女性。


好きではない人がどうなったって僕には関係のないことだ。






女性は今も僕の隣でいつもと変わらない綺麗な顔で眠っている。


僕のせいで女性が意識をなくしてから毎日、側で顔を見つめている。


あの日から三日が経ったが、一向に目覚める気配はない。


女性の顔や手の傷は僕の傷より遥かに酷く、何度見ても慣れることはない。


女性の痛々しい傷を見るたびに僕の頭には罪悪感が蘇ってくる。


側にいることを女性の両親が望んでいることもあり、僕は仕方なく会いに来ている。


好感度を下げたくないという気持ちや罪悪感などが僕と女性を辛うじて繋いでいるのだ。






仕事で疲れているのに今日も好きではない女性と共に過ごしている。


女性と同じ空間に五日いるが全然、恋愛感情が湧いてこない。


動かず何も言葉を発さない女性に恋愛感情を抱かないのは普通のことだ。


僕と女性は恋人だと周りは言う。


だけど、この女性に関する記憶がない僕からしたらただの赤の他人だ。


他の人のことは全て覚えているのに、この女性の記憶だけポッカリ抜けている。


僕がもっと注意して運転していればあの事故は起きなかった。


事故がなければ僕がこの女性を忘れることも女性が意識を失うこともなく幸せな生活が待っていただろう。


軽傷の僕には想像出来ないほどの苦しみが女性にはあるはず。


それなのに女性は安らかな顔をして眠っていた。


人見知りの僕は眠っている女性が相手なのに一言も声をかけてやることが出来ないでいた。


僕は椅子に座るために病院に来ているようなものだ。


目覚めても僕と同じように記憶喪失であってくれという馬鹿な期待をしている自分がいた。






いつものように彼女の顔をのぞき込んだが今までと変化したところは何もない。


六日も経つと嫌でも彼女の顔が頭に刻み付けられる。


僕は彼女が眠るベッドの横で椅子に座り、鞄から手紙を取り出す。


この手紙は昨日、引き出しの奥から偶然見つけた彼女からの手紙だ。


彼女に興味はないが手紙を見れば僕の気持ちも少しは変わるかもしれない。


僕は手紙を開いて一気に読んだ。


僕を気遣う言葉。僕としたデートの思い出。僕への好きという気持ち。丸みを帯びた文字。


全てに、こぼれ落ちそうなほどの優しさを感じた。


彼女の僕に対するたくさんの愛が手紙には詰まっていた。


手紙を読んでも彼女のことは思い出せなかったが、いい人であることは間違いないだろう。


僕はまだ彼女のほんの一部しか知らない。


なので、これからもっと彼女のことを知っていきたいと思っている。






事故から九日。


僕は小さな声ではあったが初めて彼女の名前を呼んだ。


気のせいかもしれないが眠っている彼女が一瞬だけ笑った気がした。


手紙で彼女が僕を必要としていたことは分かったが今も必要とされているかは分からない。


必要とされていなくても目覚めるまで、これからもずっと会いに来ることをやめない。


まだ彼女を好きになった訳ではないが、だいぶ興味が出てきたのは事実だ。


彼女からの手紙を読んだ後に僕は思い出のものを探したり、彼女について詳しく友達に聞いたりしていた。


記録するのが好きではないので思い出の写真などはひとつも見つからなかったが僕が知らない彼女の話は色々聞けた。


彼女がカッコよくない僕に一目惚れしたなんて話は信じられるはずがない。


話を聞いた時に友達は僕に彼女の動画を見せてくれると言ってきたのだが断った。


彼女の動く姿を僕が初めて見るのは彼女が目を覚ました日になるだろう。


今も時間は止まることなく経過していて、目覚める確率はどんどん減っていっている。


だが彼女は必ず目覚めるはずだ。






今は前とは違って自分の意思で病室まで会いに来ている。


何て喋りかけていいのか分からず、未だに『サヤカさん』という名前だけしか言っていない。


全く変わっていないはずなのに最初に見た時より可愛くなったと僕の脳が判断していた。


十一日間、サヤカさんの顔を見ていても何も思い出せないということは一生無理なのかもしれない。


友達の話によるとサヤカさんが僕に初めて言った言葉は『愛してる』だったらしい。


かなり変わっているがそういう女性は嫌いではない。


好きすぎると『愛してる』が言うことを聞かず勝手に口から出てきてしまうものなのだろうか。


いくら好きでも初めて喋る人に『愛してる』と言うなんて僕には到底出来ることではないのでスゴいと思う。


現在、サヤカさんの容態は安定していて、今にも目覚めるのではないかと思うくらいだ。


目覚めたらサヤカさんは恨まれるようなことをした僕を受け入れてくれるだろうか。






目覚めてほしいという気持ちから僕はサヤカさんの手を両手でつつみ込み祈っていた。


十三日目にして僕は初めてサヤカさんの手を握った。


サヤカさんの小さくて柔らかな、この手の感触には全く覚えがない。


僕は実際に喋ってみないとその人に好意など抱かないと思っていた。


でも恋愛感情に近い何かが僕の中で生まれていた。


今は忘れてしまったがサヤカさんはそれまで僕が愛していた女性。


サヤカさんに僕が好意を抱くのは当たり前なのかもしれない。


最近、僕の頭の中には常にサヤカさんがいる。


後遺症なく僕の記憶があるまま目覚めて欲しいと願いながら僕は握りを強めた。






息を切らして僕はサヤカさんに会いに来た。


様々な感情を抱きながらサヤカさんのいる空間へと入る。


今、僕の目に映っているサヤカさんは毎日見続けてきた今までのサヤカさんとは違って自分の意思で動いていた。


僕の目は言うことを聞かず突然、涙がこぼれ落ちた。


ずっと瞼で覆われていて見えなかったサヤカさんの瞳は予想以上にキラキラしていた。


サヤカさんが目を開けたのは僕が昨日サヤカさんの手を握って願ったことが影響しているのだろうか。


サヤカさんに微笑みながら見つめられてから僕の喜びがじわじわと上昇していく。


笑顔は女性を数倍可愛くさせるものだ。




僕がどう話しかけようか悩んでいるとサヤカさんが口を開いた。


「愛してる……」


初めて聞くサヤカさんの声は優しくて、とても可愛らしかった。


サヤカさんの第一声が友達の教えてくれた本当の第一声と同じ言葉だったので少し笑ってしまった。


他に言いたいことが山程あるはずなので、ずっと眠っていた人が第一声に『愛してる』なんて普通は言わない。


だが手紙や友達の話で知ったサヤカさんの性格なら全然意外ではない。


何より嬉しかったのはサヤカさんが僕を忘れていなかったことだ。




「僕も愛してるよ」


そんな言葉が今の僕に言えるはずがなかった。


僕はどうしようもない駄目な男。


自信がない僕が言える言葉ではない。


それに『愛してる』は本当に愛している人だけにしか使ってはいけない言葉。


今の僕が使っていい言葉ではない。


今の僕が使っていい言葉は謝罪の言葉だけだ。


「ごめんなさい。僕のせいで……」


明るい女性だとは聞いていたがサヤカさんがこんなにもずっとニコニコしている女性だとは全然予想していなかった。


今の僕とサヤカさんの表情は対照的だった。




「悠くんは何も悪くないよ。あれは誰であっても避けることが出来ない事故なの。私たちの運が他の人より少し悪かっただけよ」


「……うん」


僕とサヤカさんの心の綺麗さも対照的みたいだ。


たぶんサヤカさんにはまだ誰からも僕がサヤカさんに関する記憶がないことが伝えられていない。


笑顔で親しげに僕に話しかけるサヤカさんを前にして記憶がないなんて言い出せるはずがない。


でもガッカリされても言わないわけにはいかない。


意を決して喋ろうとするとサヤカさんが僕よりも先に口を開く。


「悠くんにプロポーズされた直後に事故に遭うって運がいいのか悪いのか分からないね」


僕がプロポーズをして結婚?


今まで驚くことは沢山あったが最近で一番かもしれない。


以前の僕はプロポーズをするほどサヤカさんを愛していたことになる。


結婚に全く興味のない僕にプロポーズをさせたのだからサヤカさんはスゴい女性だ。




記憶がないことを先程より更に言い出しづらくなってしまった。


出来るならばサヤカさんの笑顔は奪いたくない。


出来るならばサヤカさんには幸せを保っていてもらいたい。


でも僕には記憶がないことを告白する使命がある。


だから言う。


「ごめんなさい。僕、サヤカさんのこと全く覚えていないんだ」


こんなことを言われたら誰だってガッカリする。


サヤカさんもきっとそうだろう。


言った時、サヤカさんの表情は変わらなかったが目が少しうるうるしているように見えた。


少しの間、僕たちの唇は閉じたまま。


こんなに沈黙が嫌だったことは今までになかった。




「今は私のことを愛していないってこと?」


サヤカさんは笑顔を精一杯保ちながら、元気のない声でそう言った。


色々対照的な僕たちだけど、お互いを想う気持ちは対照的なんかじゃない。


僕たち二人の気持ちは今も着実に同じに近づき続けている。


好意は抱いているがまだ愛しているには達していないのでどう返すのが正解なのか分からず僕は言葉に困った。


言葉を探していると僕より先にサヤカさんが口を開いた。


「『ごめんなさい』はもう禁止ね。仕方がないことだから」


僕は悲しさを笑顔で隠しているであろうサヤカさんを見て胸が痛くなった。


感極まり喋れない僕にサヤカさんはこう続ける。


「眠っている間もずっと悠くんのことばかり考えていたの。愛されていなくても悠くんのことを考えているだけで幸せだよ。でもね、絶対にまた好きにさせる自信があるから」


サヤカさんの自信に満ちた自然な笑顔につられて僕は泣き顔で微笑んでいた。


そして前向きなサヤカさんにつられて僕も少しずつ前向きへと向かい始めていた。


「僕もまたサヤカさんを大好きになる自信があるよ」


「サヤカさんじゃなくて前みたくサヤサヤって呼んでほしいな」


サヤカさんの前にだけ僕の性格では考えられないことをする『僕の知らない僕』が度々現れていたようだ。


それはきっと本当に大切な人以外には見せない僕の本当の姿なのかもしれない。




僕に関する記憶はサヤカさんの頭に三年分ある。


それに対して僕の頭にあるサヤカさんの記憶はたった二週間分。


だが、それが僕たちの障害になることはない。



僕はサヤカさんに第一声で『愛してる』と言うことが出来なかった。


でも、これからサヤカさんに心のこもった『愛してる』を言える日が必ず来る。

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