Paper Noise
「今日までの私が断続的であったことは紛れもない事実だ」
左手の指先で頭を小突きながら黒いふりふりのついたワンピースを着ている女性は、こうも付け足した。
「また、不連続であったこともまた、紛れもない事実だ」
生憎と今日の天上は鈍色で色のない宇宙を想像することは残念ながら難しい。偽物だけが我が物顔で跋扈しているとも彼女の言だった。ただ、もうすでに夜の帳が大魔王の如く世界を支配していることに留意しなければならない。
「なんでやねん」
歳甲斐もなく彼女が持ち出した学生鞄を俺は持たされ、空いた手で頭を掻いた。白髪が二十にして気になり出しているのはこの女のせいだと断言してもいい。
「なぜも何も、いい女は学校の屋上とふりふりのついたワンピースと煙草だと言っていたのはキミじゃないか」
「それは、当時はまってたエロゲのヒロインの台詞だ。俺の言葉じゃないって何回言えばわかる」
その煙草が誰も名前を知らないようなマイナーな銘柄だと尚いい。
どうしていい歳をして、昔この女と通っていた中学校の屋上に忍び込まなければならないのだろうか。しかも大晦日に。
目の前の女は鬱陶しそうに煙草の日を靴の裏にこすりつけて消した。
「話を戻そう。私の誕生日はキミも知っての通り八月の十一日だ」
「知ってるわ。ネットでよくわからん銘柄の煙草を俺に誕生日プレゼントと称して買わせたじゃないか。しかもワン・カートン」
「よく覚えているな」
「このアマ」
頭を掻きむしる。今抜けた髪はきっと白髪だ。そうであってほしい。俺の苦労が今年で終わることを祈るばかりだ。
「それで、だ。その日にコンビニに行ったのだよ。それで堂々と煙草を買ってやったのだが、年齢確認をされなかったわけだ。私はふと悲しくなった。八月の十日に同じコンビニでビールを買ったのだが、その時も年齢確認はされず画面タッチをお願いされただけだった。合法であろうと非合法であろうと大した扱いの差はなくてな。私は嘆息したわけだよ。この日の為に取得した免許も無駄になった」
まったく、といった様子で彼女はかぶりを振った。
中学生だった当時に合鍵を無断で作り盗み出した中学校の屋上の鍵を今更になって俺に見せつけ、この計画を口にしたときは心臓が口から飛び出るのを通り越して、理解が追い付かなかった。昔から俺の数億倍は頭のいいこいつのことだ。何かしら意味のあることだろうと思ってついてきたはいいが何をするかと思えば日常会話だった。だから俺は日ごろの流儀に従ってこう口にしたわけだ。
「それは災難だったな」
――くそったれ。くそったれ。くそったれ。帰らせろよ。コート着てたって寒いものは寒いんだよ馬鹿野郎。お前はもっと寒いだろ。だってワンピースだけだぞ。ついにトチ狂ったか。
「まぁ、聞け。それで私は言ってやったわけだよ。昨日私はここでビールを買ったのだがその時は未成年だったんだぞ、と。そしたら店員は、はぁ?とあからさまに眉を顰めて私はアルバイトなのでなんとも、と言ってきたのだよ」
それはそうだろう。未成年で酒を買おうとして止められたから文句を言うのはまだわかるが、買えたことに本人が文句を言うのはわけがわからない。俺だって同じ対応をするに決まっている。
「ここで昼食を食べていた頃は大学に入れば何か変わると、そう思っていたが変わらなかった。そして二十になれば何か変わるとそう思っていた。でも何も変わらなかったんだ。これは変化とは緩やかで連続的であることの証明ではないか」
音もなく、失われた極彩色の中で風が俺たちの熱量を奪い去っていく。闇か光かのツートンカラーでスケッチされた街を見下ろす。多くの住人達は年越しそばの用意でもしているのだろうか。二十三時五十八分。もう終わっているか。時代を忘れてブラウン管はスクラップになった今、4Kテレビだとかいう俺のあずかり知れないテレビでカウントダウンの様子でも見ながらそばを前にお預けを食らっているところだろうか。
そんなどうでもいいことの為に自らの衝動を押し殺す為に理性を働かすことはおおよそ理性的だとは思えない。
「じゃぁ、断続的っつーのはなんだよ」
「実際の行動と記憶に残る行動には明らかな差異があるだろう?先にした話にもきっと私が忘れている欠損があるに決まっている。そういうことだ」
「それは災難だったな」
面倒になったらこれを口にするに限る。女なんていう生き物はとりあえず同意しておけば何とかなると俺の母親が鷹揚に笑う姿が脳裏に浮かびあがった。
「で、さ。お前はどうしたいんだ?」
無駄な事は口にするなと母親の後に父親が言っていたことを思い出しても今更だった。
「そう、だな。私はこのまま新年を迎えたくなかったのかもしれない」
こいつにしては珍しく、俯いていじらしく指先を弄っていた。飾り気のない爪であることは何も変わっていなかった。昔から一度として飾ったところを見たことがない。これを連続的と呼んでいいのだろうか。俺にはこの女の言う連続的という概念の全容がつかみきれずにいた。
顔をあげた彼女の頬を撫でた風に乗って何かが煌めいた。今まで彼女から感じた事は一度たりともなかった馨しい哀愁に俺は目を奪われていた。
――それは災難だったな。なんせもう十二時を回っちまったからな。
という言葉が喉元で霧散していることに気付き俺はどうしたらいいのかわからなく、ただ阿呆のように口を半開きにしていることにすら気づかずただ腔内が冷えるのを感じていた。
こいつが目元を手の甲で一度拭った姿はなぜだか、中学生の頃のとある出来事を想起させた。
あの時も屋上だったが、時間は放課後だった。夕日を背に現世と幽世が混ざりあう瞬間だけ彼女は泣いていた。
「ねぇ、どうしたらいいか、わかんないよ。こんなの初めて。馬鹿なキミに聞いても何も解決しないかもしんないけど」
何を思ったか俺はそのとき彼女の頭を撫でていた。
「前、好きな人いるって相談したじゃん。その人に付き合ってる相手がいるんだって」
そう口にするとダムが決壊するように止め処なく涙を溢れさせコンクリートの色を染めた。幽世の扉は狂気を纏っているようで、夕日は暈けていた。
「それは災難だったな」
そういえば数日前に今思えば思春期特有の見栄を張って彼女がいると俺は友人に漏らしていたがする。忘れっぽくジャンク品紛いの俺の脳みそにうんざりしていた。
気づけば俺も泣いていた。頬を撫でる曲線は二本。右の頬と左の頬、それぞれに伸びる。感覚は、なかった。ただ静かに泣いていた。
「月、綺麗だね」
こいつは見上げもせず笑った。花が開くように鮮やかで全てを見透かしたような日ごろの声音からは想像できないほどに無垢だった。
馬鹿な俺でもこれくらいのメタファーは知っている。そのメタファーを教えてきたのは他でもない彼女だったのだから。
「月出てねえぞ」
高天に祈ることはしない。それが俺とこいつで決めたふたりだけの信条そしてルールだ。これを破ることは生涯ないだろうし、そんなことは互いが許さない。
彼女は前髪をかき上げてやっと空を見上げた。隠された月の狂気に魅せられたのか。
後ろ髪が流線形を描き、闇へと彼女は消えた。
音のなかった世界に異様な金属音が響き、現世へと俺を引き戻した。
彼女の影はなく、一人俺は屋上に残された。
「災難だったな・・・・・・」
もし月が出ていたのなら俺は彼女を今度こそ抱きしめていたかもしれない。夕日の下では出来なかったそれを、月の下でならば。
――考えても仕方のないことか。
俺の手に残ったのは学生鞄と屋上の鍵だけで未だ見ぬ世界への千の渇望はあまりに儚く打ち砕かれた。去年から今年は十分に連続的だったが、断続的で空白が差し込まれる瞬間というものを理解した瞬間が今、確かにあった。
隠された月の狂気に魅せられたのは俺だった。