夢追い人の跳躍 9
「……何だかうれしそうだね」
「はい」
翌日、というより数時間後。ロビーで会った安達ににこりと微笑みかける。
「昨日、っていうかさっき? も観てたの?」
「観てました」
「どう?」
安達は信じるだろうか。―――信じて、くれるだろうか。
なんと言ったらいいのかわからない。けれど、うれしかった。
「マルクとマーシャのところ?」
「はい」
「……笑顔になれる話だった?」
―――。
あ、れ?
「……」
そうだ。何を考えているのだ。
あの映画に何が起こっているのか紗陽にはわからない。だが、あの世界は確かに変わった。紗陽と、現れた黒い影により。―――けれど。
それがさらに、現実にどう影響を与える?
「……あ、の」
「うん?」
「彼らは……本当に存在しているんでしょう? 役者さんじゃなくて」
「うん」
「……マーシャ、は?」
「……」
安達の表情が、薄く変わる。
疑問から―――哀憫へ。
「……みんないなくなろうとするんだ」
ささやくような声。
「……生きているのかな」
その言葉に、ドーリならばどう答えたのだろうと、心のどこかで思った。
食欲は全くなかった。朝ごはんをスルーしあるようでない繋ぎの昼食もスルーし、夕飯もスルーした。気付く人間はいない。それぞれが仕事をやりながら食事を摂る世界なので、誰が食べていないかなんて誰も気付かない。―――が。
「顔色、悪くないですか?」
「え?」
「ご飯、食べられました?」
擦れ違いざま心配そうに声をかけられた。周りを気遣ったのか小さな声で。
ヒナはその大きな眼を心配そうに曇らせていた。
「あ……いえ、大丈夫です。食欲はあんまりないですが元気ですよ」
小さく笑ったつもりだったのだがヒナは笑わなかった。ちょっと考えるような間を置いて、ポケットを探る。
「これ、どうぞ。食べれる時に食べてください」
華奢な手に乗せられたのはチョコレートだった。七センチくらいのチョコレートバー。青い袋に入っていて、お茶場では見たことがないチョコレートだった。
「これ、私が大好きなチョコなんです。栄養補給用に持ち込んでるんですよ」
「そんな貴重なもの、もらっていいんですか?」
「全然大丈夫ですよ。ちょっと甘みが強いチョコなんで、さっぱり系の飲み物と合わせるといい感じです。よかったら是非」
「……ありがとうございます」
「他のひとには内緒ですよ」
し、と唇に指を当ててヒナが微笑む。そのやわらかい可愛さに心がふっとゆるんだ。
「はい。ありがとうございます」
気遣いが出来て素敵なひとだな、と思った。やわらかいその笑顔を向けられるとついこっちも微笑んでしまう。そんな空気を持つひと。
軽く会釈して別れ、そのチョコをポケットにしまいかけ―――袋を開け、一口齧った。ふんわりとやわらかい触感。思っていたよりも濃度の高い甘さが口いっぱいに広がり、けれどその強さに心がふっと広がるようにしてほどける。
生きているのかな。
―――死んで、いないかな。
マーシャは恐らく、死んでいる。
「……」
安達との会話を思った。あの撮影中に事件が起き、マーシャは行方不明になった……死体は、出て来ていない。でも……だからこそ、死ぬよりも酷い目に遭っている可能性がある。
まだそのあとの、影が生じた別れ道あとの映像は見ていない。見ていない、が……
「……」
眼が痛んだ。もしかしたら痛んだのは涙腺だったのかもしれないが、気が付かないふりをして、逃げた。
「どうもありがとうございます。お忙しい時にすみません」
いえ、とちょっと掠れた声で返した。すぐ横にきらきらした若手俳優がいる。きらきらした笑顔を浮かべている。ひくつく喉を堪え、ついタンブラに手がのびかけるのを留め、タイムラインを昨日撮ったシーンの冒頭までまた戻し再生する。本当は早くこの場から退いて欲しかったので本当は再生したくなかったが―――それをすると『早くどこか行ってくれ』という心の声を表に出すことになる。それはまずかった。
編集したものを見せてもらえますか。お湯をもらいにタンブラ片手にお茶場に行った時、そう話しかけられたのがはじまりだった。今回ダブル主演である主役のひとり、松白誠。輝く笑顔は若い子からお母さん世代までを虜にし、ぐんぐんのびる若手俳優。ただでさえ狭いバンの中、椅子を持って来たくても置く場所がない。席を勧めようとしたら横に屈むのでどうぞ座ったまま操作してくださいと言われもうどうしようもない。近い距離に芸能人がいる。よろこぶひとはよろこぶだろうが、紗陽としては言い方は悪いがこのひとは今『商品』だ。もし何かあったら……もし紗陽のせいで何かが起こったら……胃がきりきりする。身体も心も干乾びる。
「やっぱりカットが繋がると全然印象が違いますね」
「そうですね。流れが出来ますし……」
「これリアルタイムで編集されてるんですよね。この組はカット数が多いから大変じゃないですか?」
「そ……うですね、まだまだ腕が足りないので……」
「お疲れさまです。お忙しい時にどうもありがとうございました。また今度遊びに来てもいいですか?」
ノーと言えるわけではない。
「はい、いつでもどうぞ」
お待ちしておりますと冗談で言えるほど強いメンタルも有していない。
「それと、少し顔色が悪いようです」
「え?」
「大変な現場だと思いますが、体調には気を付けてください」
「……はい。ありがとうございます」
声が小さくなるのは、どうしても免れなかった。
「見る方が嫌になる顔色だな」
……眼を開けると、そこにはドーリがいた。胡乱気というより嫌そうな表情を浮かべている。
「毎回毎回俺のところに現れるのはもういいけどさ。その顔色は辞めて欲しいんだけど」
「……」
松白の言葉を思い出す。まあそういうことを言いたかったのだろうけれど……言葉を選ぶのって大事だなと、思った。
「で、今度は何が見付けられなかったんだ」
「え?」
「仕事も夢も答えられなくて。で、あの時は何が答えられなかったんだ」
「……」
考えて、考えて。
「……っ、」
ぎゅうっと、拳を固めた。
「……マーシャは?」
「仕事の見学に行った」
「そのあとは?」
「昨日はそのままマルクと帰って来たよ。今日はばらばらだけど」
「……」
辺りを見回した。黒い影はどこにもない。
「消えないってことは『マーシャ』が答えの一部ってことか」
ほんの僅か、眼を眇めた。
「マーシャが、なに」
「……」
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
答えたところで。―――水灰道理は。
「っ……」
どうしようも―――
「……あっそ」
答えられないサヤに。
どうせもう消えるんだろうと言わずに残し。
ドーリは踵を返した。―――薄れる意識で、背中を見る。
その背中は自由だった。
どの映画で観た水灰道理よりも、自由だった。
思っていたよりずっと線が細く。
骨ばった肩はどこか儚く。
それでもひとりで、歩けるひと。
どうしてあなたは今ここにいるんだろう?
どうして私は今ここにいるんだろう?
答えが出せなければ、どうして消えてしまうんだろう?
ねえ。
どうしてだと、思う?
「―――ドーリ!」
消えかかる意識の中、裏返った声で叫んだ。
お願い。お願い。
「マーシャを、見付けて!」
お願い。
「守って! ―――マーシャが、いなくなるかもしれないの!」
白く霞む視界の中、その背中が振り返った。
―――よかった。届いた。
その安堵を最後に、意識は、
―――途切れ、なかった。
「サヤ」
「……え……?」
いつの間にかに閉じていた眼を開ける。身体に力が入っていなかった。細いがしっかりとしたドーリの手がサヤを支えている。
「マーシャが?」
「……」
消えて、いない。
返事を待つドーリを呆然と見上げて―――それから、うなずいた。こくこくと何度も。
「……どうして知ってるか、訊かないでください。……消えるから」
答えられないことなのだと、そう含めて。ドーリはうなずいた。サヤが身体に力を込め自分の力で立ったことを確認し、その手が離れる。
「マルクの家に行こう」
「はい」
迷いもせずテントの海の道を駆け出したドーリの背中を、今度は追う。
自分の脚で、自分の意思で。




