夢追い人の跳躍 8
その夜は完璧を整えた。手早くシャワーを浴び髪を完全に乾かして、明日着る予定のジーンズとシャツにパーカーを纏う。Macを立ち上げ、マウスに触れた。
画面に映る水灰道理。マルクとマーシャと会話している。
英語なので部分的にしか内容はわからない……が、当たり前だがそこに紗陽の姿はない。
夢の中のドーリが本当に水灰道理であることを、なし崩しながらも紗陽は受け入れようとしていた。何らかの因果があって、……かどうかも定かではないが、結果、紗陽が映画の中に入って、水灰道理はその中にいる。現在意識不明の水灰道理の精神が入り込んでいるのか、それともあれは本当に映画の中の『ドーリ』なのか……それはわからない。訊いていいのかもわからない。同一人物なのか、そうでないのか……もし訊いて、それが何かのきっかけになり巡り巡って今意識不明の水灰道理の心臓が止まる、なんてことになったらそれは許されない。別に殺したいわけじゃないのだ。何も訊かないで、ドーリとして接するしか。
映像の中の水灰道理は昼から夕方までマルクの仕事を手伝い夜はマーシャと三人で過ごす。何かを会話して、そしてうなずいて……単語単語で会話を凡そに理解し、切って、繋げてゆく。
(……そういえば『黒』ってなんだったんだろう)
都市伝説か何かだと思えばいいのだろうか。眉を顰め、何かが違う気がする、というびりりとした予感に背中を炙られながら、仕事ではなく私事として何度も何度も少しずつカットを繋げてゆく。一度全て映像をチェックした方がいい、とは思っていた。が、その勇気が紗陽にはない。
「……ん?」
手を止める。カーソルを戻して再生し直した。
マルクとマーシャが別れ道で別れる。行き先が別々なのだろう。それはいい。けれど……
時間が飛び、辺りは一気に夜になる。暗がりの中、マルクがパニックになったように叫んでいる。なんだ……
「……『マーシャ』『いない』『見てない』……『あれから』」
……。
「……『消える』『マーシャ』『道』『別れる』『あと』『誰か』『見てない』……」
……。
マウスを握る手がぶるりと震える。
意識は、急激に遠退いた。
「―――っ、」
息を上手く吐けず咳き込んだ。ひゅうっと変な音に喉が鳴り、咳は抑えようとすればするほど大きく激しくなる。
「妖精さん、大丈夫っ?」
マーシャが小さな手で背中を擦ってくれた。それからしばらく咳き込み、ようやく呼吸が落ち着いたところで「ありがとう」とからからの言葉を返す。
「本当にいきなり消えていきなり現れるんだねえ」
驚いた様子もなくマルクが言う。曖昧にうなずいておいた。
「僕たち、これから仕事なんだよ」
「そうなんだ。えっと……」
ちらり、と横を向く。……平然としているドーリと。
「……ドーリは、どうするんですか?」
「俺は今日この街を巡る予定」
今日の分の仕事はどこかで済ませてある、ということか。というか、また世界が明るくなっている……意識が遠退いた時も明るかったがあれはもう夕暮れ近くだった。次の日になった、ということだろうか。
「マーシャはどうするの?」
「私は買い物よ」
「へえ……」
自分はどうするか決めることも出来ないまま一緒に歩みを進める。ふと視線を上げて―――ぞっとした。
「じゃあ、僕はこっちだから」
「うん、あとでね」
辿り着いた別れ道。マルクが右の道を選び、マーシャが左の道を選ぶ。
『マーシャ』『いない』『見てない』……『あれから』……『消える』『マーシャ』『道』『別れる』『あと』『誰か』『見てない』
「―――」
「ばいばい」
「ばいばい」
兄妹が手を振り合う。朗らかに笑って、そして、
「―――っ、待って!」
掠れかけた声を上げた。きょとんとした顔で、二人が立ち止まる。
「どうしたの? 妖精さん」
「……っ、まー、シャ。買い物は急ぐ?」
「急がないけど……どうして?」
首を傾げたマーシャに微笑む。少しでも明るく。
「マルクの仕事を見学したら? もっと大きくなればマーシャにも出来るかもしれない」
「仕事が?」
「うん、そう。買い物は私が行くよ」
「道、わかるの?」
「ドーリに教えてもらうから」
ドーリの反応も見ないまま早口に答える。マーシャは不思議そうな顔をしていたが、やがてこっくりとうなずいた。
「うん、わかった。じゃあお願い」
「うん、任せて」
干上がるような思いで微笑む。左の道に踏み出していたマーシャが、右の道に行きマルクと並んだ。
「ばっちり見学させてね!」
「いいけど邪魔するなよ?」
「しないよう!」
笑顔で二人が歩き出す。―――右の道を。
それをサヤはじっと見ていた―――崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら。
「何でマーシャをあっちに行かせたの」
「え?」
クエッションマークのない問い。どう答えようかと逡巡する。
本当のことを答えるつもりはない。だからこそ、何て言ったらいいのか迷った。
「えっと……マーシャにも手伝えることがある、かもしれないと思いまして」
ぎこちないが無事に言えた。ほっとしながら商店の並ぶ道を目指す。
ドーリの答えはなかった。しばらく二人で無言で歩く。
「サヤが消える法則がわかった気がする」
「え?」
「どちらかか、或いは両方だけど。一度目も二度目も、サヤは『仕事』の話を振られてた。そしてその問いに『答えられなかった』」
「……」
思わず沈黙し、あの時とあの時を思い出す。―――そう。
そうだ。
「……そのどっちがキーなのか、或いは両方なのか。試してみればわかるけど、どうだろうな。試そうと思ってやったら何も動かないのかも」
「……」
「仕事嫌い?」
「……嫌いじゃ、ないです」
ない、けれど。
「今……起きてる、ことが。私にとって、あまりにもわけがわからなくて……」
こんなことを言っても仕方がない。だがマーシャが左の道に進むことを阻止出来たことが気のゆるみになっていた。
「今起きてることが、私の『仕事』に関わっている……の、かな。……私の『仕事』は……昔の私の『夢』だったんです」
「今は夢じゃないの」
「……どうなんだろう。夢が現実になると、見えてくるものもあるじゃないですか」
「ああ」
「それが今辛いのかもしれません」
自分でもよくわからない。この仕事をやめる気なんてないが、何だろう、今のこのサヤの状況は―――誰かが自分へ問うもののように、思えた。
こうやって映画の中へと入って思う。
「……」
少しずつ少しずつ大きくなっていく違和感。疎外感。
カットを繋げる度に、それは大きくなってゆく。
「……ドーリは何か仕事をしているんですか?」
これはぎりぎりの問いだった。恐る恐る訊いて―――だがあっさりと、ドーリは首を横に振る。
「基本してない。街へ着いたらそこで日雇いの仕事。路銀を稼いで次の街へ。その繰り返し」
「……そうですか」
役者、と答えられたらサヤはどうしていたのだろう。自分のことながら全くわからなかった。
嘘を吐かれている? ―――どうだろう。
それが本当だと思っている? ―――どうだろう。
水灰道理が嘘を吐いているのか、
ドーリが本当だと思っているのか。
どうだろう。どうだろう。どうだろう。
そもそも、水灰道理は今―――
「……なに? サヤ」
「え?」
「何か俺に言いたいことでもあるの」
「……いえ、別に」
「そう? 何か言いたげに、どうしようか迷っている内に何が何だかわからなくなって来てるような、そんな微妙過ぎる顔してるけど」
「……」
結構ぐさぐさ来るんだな……以前、この撮影がはじまる前見たバラエティを思い出す。ゲスト出演していた水灰道理は、爽やかフェイスにやわらかい口調で辺りに称えられていた―――
「……まあいいや」
ぼそりと呟かれ、ポケットから小箱を取り出したドーリはそれを軽く振ると現れた煙草を唇で咥えて引き抜いた。そのまま取り出したライターで火を付け、ふうっと煙を吐き出す。……煙草、吸うのか。そうか……以前吸っているシーンがあったが、こう目の前で吸われると、……いや、このひとが水灰道理でもドーリでも煙草を吸ってもおかしくないわけで……
「……まあいいや」
「え?」
「……考えるの疲れました」
や、考えなきゃいけないのだろうけれど……マーシャの危機を脱したことで―――いや、ちょっと待て。
「……現実、は、」
「は?」
「現実は……?」
この映画の中ではなくて。
あれ、ここでマーシャの筋書きを変えたところで―――
「……っ」
ど、と背中が一気に凍える。考えていなかった―――ここでマーシャが選択を変えたところで、一体どうなって―――
「―――サヤ?」
ぐらりと体勢を崩したサヤを、不思議そうな顔でドーリは見下ろした。
「どうした?」
「っ……」
その問いに、答えられず。
意識は一気に遠退いた。
「っあ……っ!」
ぶは、と息を吐くようにして身を起こした。つっぷしていたテーブルから顔を上げ、まだぼやける視界を必死に凝らしてスクリーンセーバーを解除する。もたつく指でマウスを手繰り、タイムラインを再生して―――
「―――なに、これ……」
マルクとマーシャの後姿。別れ道で立ち止まり、別れようとして―――
―――黒い影が、映像に割り込んだ。
輪郭は曖昧だ。けれど人型を模るそれがマーシャの肩に手をかける。偶然なのかなんなのか、マーシャがそちらを向いて―――
―――マルクと共に、マーシャは右の道を選んだ。
「え……?」
眼を見開く。唇が震える。
この影は何だ―――それだけじゃ、なく。
展開が、変わった。
道を変えた少女を見送り、影が掻き消える。そこで映像は終わり、紗陽はあわてて元データを引っ張り出した。
「……ない……」
ない。黒い影も。マーシャは左の道を選び、そして消えてゆく。
変わった。変わった。―――世界が、変わった。
「っ……はっ……」
じわりと、指先があたたかみを帯びる。それで漸く自分の身体が冷え切っていたことに気付いた。
どういうことなのかはわからない。けれど、紗陽は世界を変えたのだ。