夢追い人の跳躍 7
「そんなの気にしないでいいのに。それよりよかったね。傷も残ってなくて。サヤは本当に妖精なんだね」
再びやって来たマルクの家。自分たちよりも少しあとに帰って来たマルクはサヤを見て特に驚くこともせず、「ああ、おかえり」とばかりに受け入れ、それから笑った。どんな顔をしていいのかわからないサヤの、これで正しいのかどうかもわからない謝罪を受けて。あっけらかんと笑い、言葉を返す。中身も気持ちもたっぷりと詰まっているのであろう言葉を。
「痛いのは嫌だからね。マーシャを見てると特にそう思うよ」
「マーシャって?」
「妹。もうすぐ帰って来るよ」
妹がいたのか。両親は―――訊き辛い。
「マーシャは身体が弱いから。ジグ婆のところで面倒を見てもらってるんだ。ジグ婆の身の回りの世話くらいなら出来るからね。お金は発生しないけど」
「……そうなんだ」
「ここら辺は仕事をしない子供は『黒』に連れて行かれちゃうんだ」
「『黒』?」
色の話ではないだろう。訊ねるとマルクはちょっと声を落とした」
「昔からいるんだ。『黒』。仕事をしない子供を連れ去ってどこかへ連れて行く。帰って来た子はいないよ」
「……」
人攫いとは違うのだろうか。話を聞くと本当に妖怪かお化けのように聞こえる。
この世界がいまいちどんな世界なのかが掴めない。ちらりとドーリを見るが会話に加わる気はないらしく、座ってぼんやりとくつろいでいた。特に何の表情も浮かべていない。纏う空気は冷たくもあたたかくもなかった。
「ただいま! ……あら、お客さん?」
「おかえり。妖精さんだよ」
「よろしく! 私はマーシャ!」
布をかき上げ入って来たのはマルクよりも小柄な少女だった。浅黒い肌にくりっとした大きな目。ふわふわな髪がやわらかそうな、明るくて可愛らしい女の子だった。
「は、はじめまして……サヤです」
妖精です、とは言えない。
「サヤ! かわいい名前ね!」
にこにことほがらかに笑う少女の身体は確かに細かった。身体が弱いというマルクの言葉を思い出す。
「サヤの手、とってもあったかいね」
「そう……かな」
最近かさつきつつあるのでハンドクリームを塗っている。一番使う部位なのでその分疲労も濃い気がする。
「いいなあ。私の手は冷たいから憧れる」
確かにマーシャの手は少し冷たく感じた。子供ってもう少し体温が高いイメージだったと、小さく思う。
「手があったかいと仕事がたくさんできる気がする」
「なにそれ」
マルクが笑う。
「あったかいと夢がふくらまない? ―――私もこんな手の大人になれるかなあ」
夢見るようにマーシャが微笑む。
「どんな仕事が出来るかな。どんなところに行けるかな。―――どんな風に、私はなってるかな?」
楽しそう。うれしそう。少女が持つあたたかさを、マルクはどこか眩しいものを見るような眼で見守る。―――この村は。
子供が働かなければ、今日を過ごすことも出来ないようなこの世界では。
夢を見ることが、本当に可能なのだろうか。
「サヤは将来どんな仕事がしたいの?」
「え?」
「夢の話だよ」
マーシャの言葉を付け足してマルクが笑う。
「サヤはどんな夢があるの?」
「―――」
答え、られなくて。
すうっと意識が遠退いて行く。―――あの時のように。
「あ―――」
あの時と同じように、縋るようにドーリを見る。
ドーリはじっとサヤを見ていた。―――返事を待つように。
今度は、名前を呼ばれなかった。
「―――……」
は、と目を覚ますとそこはホテルの部屋だった。立ち上げたMacを前につっぷするようにして眠り込んでいた。
ひとつはっきりとしたことがある。
どう説明したらいいのかわからない。―――けれど。
紗陽は確かに、映画の中に入っていた。
撮影時の過去ではない。これは映画の中だ。紗陽が繋いだ、映画の中だ。
どうしてこんなことになっているのだろう。
「……」
「……どうしたの?」
「……いえ」
朝、ホテルのロビーで会った安達を思わずじっと見つめてしまい不思議そうな顔をされた。首を横に振って何かを否定する。
ねえ安達さん。あのデータを見てから、私眠る度にその映画の世界に入るようになってしまったんです。全く意味がわかりません。ねえ、どうしてだと思います?
……訊けるわけがない。小さく息を吐いてそれを思う。訊いたところで意味がわからないし言葉だって返って来ないだろう。なに言ってんだこいつ、というような視線は返って来るだろうが。
「……あの。安達さん。脚本ってあるんでしょうか」
「失くしたの?」
「いえ、この映画じゃなくて……あの映画の」
「……ああ」
安達がうなずいた。
「……大まかなものはあるけど。どうして?」
「……知りたく、なりまして」
「全部観たの?」
「いえ、まだ全部では……マルクとマーシャと会った……出て来たところです」
「……ああ」
「彼らは本当に存在しているんでしょう? 役者さんじゃなくて」
「……うん」
安達の口調は重かった。気になったが、そこで訊ねるほど時間はない。
「あの、脚本って今手元にありますか」
「ない。……けど、送ってもらうことは可能。少し時間かかるけど」
「……お願い出来ますか?」
「……ひょっとして、カット繋いでる?」
ぐ、と黙った。だからそれはこれ以上にない肯定になった。
「……まだ、全部観ていないのにこんなことやるべきじゃないのはわかっているんですが」
「や、いいよ。仕事じゃないんだし……気にしないで」
仕事じゃない。その言葉は通常なら誰かの心を軽くする言葉だ。仕事じゃないから、期限はない。仕事じゃないから、制約はない。
「でも、興味があるかも」
「え?」
「……どんな世界になるんだろうね?」
返す言葉がなくて、黙った。
水灰創太のことを思う。監督だった水灰創太。彼の望んだ世界。
それは絶対に、紗陽の描く世界とは違うはずだ。
その日も仕事は過酷だった。いつも通りだ。そろそろ誰か倒れてもおかしくないのだが一向に誰も倒れない。組の序列においては上層部に当たるカメラマンすら苦い顔で『誰か倒れてくれねえかな、そしたらスケジュールも見直されるのに』とぼやいていたらしく、まあそれもそうだなと同意せざるを得ない。だがその貧乏籤を引いてしまった誰かは非常に心苦しいだろう。ここまで来てついに自分が倒れてしまった。他のみんなは全員倒れていないのに、自分が。
……本当に嫌な駆け引きだな、と思いながら必死に手を動かし続ける。画面を睨み、見極めて、細かく細かく刻んで……どうしてこんなにカットが多いかな。ドラマじゃないんだよ……。
「いいじゃないか」
その場で繋げ切った映像を三回チェックしてぼそりと与賀が言った。カット数が驚くほど多いのは与賀組の特徴なのでこれは与賀流に則った編集だ。とはいえ自分の仕事が否定されなかったことにほっとする。スピードを求められる現場流儀のやり方は、普段ラボに詰めている紗陽にとっては正反対もいいところだった。毎日毎日疲労が半端ない。
げっそりとした気分で漸く巡って来た夕食を摂りにバンを出て大きなテントを目指し歩く。マルクやマーシャの家のような、木と布で出来たテントではない。金属の骨組みと白い幕で出来たテントだ。雨漏りだってしないし、広さだって何倍も広い。けれど、今の紗陽にとってそれはよくわからない奇妙なものに見えた。どうしてだろう。
列に並び、食事が配給されるのを待つ。味噌ベースの汁物があったのでそれと少しのご飯とサラダ。他にも揚げ物などがあったがとてもじゃないが胃が受け付けない。汁物は味が濃いめだったが、とてもおいしく感じた。わざと濃くしているんだろうな。
野菜とモツが入っていたその汁物に米を入れ、やわらかくしながら食べる。お行儀は悪いかもしれないが今は自分の身体が優先だった。
こうやって仕事をして、ご飯を食べて。……今日生きることが当たり前。明日生きることも。少なくてもこの現場が終わったところで紗陽はラボに戻ってまた通常業務に戻れる。何かとてつもなくやらかさない限り仕事は続く。紗陽の場合。
明日その世界がぷつんと途切れたら紗陽はどうなるのだろう。一日一日を頑張ろうと、あの二人のように笑っていられるのだろうか。