夢追い人の跳躍 5
「大丈夫?」
声をかけられはっと我に返った。まだ薄暗い朝、空気はきんと冷え切っているのに、それすらも感じず呆然としていた。
「あ……はい。大丈夫です」
ありがとうございます、と、マイクロの運転手に答える。ハードだもんね、とスケジュールのきつさに苦笑いして見せたそのひとに同じく少し苦い笑みで笑い返し、このぼんやりとした状態をさらに晒したくなくて一足先にマイクロに乗り込んだ。室内には薄暗い蛍光灯が付き、それでも今の紗陽にとっては目に痛いほどだったが、それを気にする余裕もなく何となく定位置になった座席へと座る。
あれは―――なんだったんだ。
夢、のはずだ。……夢の中で意識が遠退いて行く感覚に陥ったことは今まで一度もなかったけれど。そして夢の割にはどれも生々しくリアルで、起きたあとも全てはっきりと思い出すことが出来た。まるでついさっきの出来事のように。
(水灰道理が私の夢の中に出て来た……?)
そう。それだったらいい。いいのだ。……けれど。
水灰道理も。あの少年、マルクも。安達からもらったデータに登場していた。
ただそれだけなら、そのデータを少し繋いでいたからその記憶を元に夢を見たのだろうとうなずける。……だが、紗陽が編集したのはまだ少し、水灰道理と少年が出会うところで―――しかも、その編集上ではまだマルクは水灰道理に名前を名乗っていなかったのだ。朝いつの間にかベッドに横たわっていた紗陽は飛び起き、スクリーンセーバーになっていたMacを動かしチェックしたのだが……マルクが水灰道理に名乗るところまでまだ紗陽は確認していなかった。なのに少年は画面上で水灰道理に名乗る。自分の名前はマルクだと。……朝からぞっとした。夜寝る前は知らなかった少年の名前を、どうして夢の中で知ることが出来たのだろう。何も説明が付かなかった。
お酒も撮影がはじまってから飲んでいないし、そもそもそこまで飲む方ではない。……じゃあ何で?
夢。
と言うには余りにも不可解なそれ。
水灰道理が目覚めたというニュースもない。恐らく依然、意識不明のまま。
(……何がどうなってるの……)
わからないまま。
今日も世界は廻って、今日も仕事ははじまり出す。
朝から安達が走り回っている。現在の時刻は七時、現場スタートは九時。だがやらなければならないことが山ほどあるのだろう。荒涼とした砂と岩しかないその場所に、ずらりと停まるトラックやらマイクロの列をぼんやりと眺めつつ、一歩踏み出して―――じゃりっと、細かい砂が靴の下で滑った。悲鳴を上げるのも間に合わないまま身体がうしろへ一気に傾く。
「!」
「わっ、」
うしろに引っくり返るところだった紗陽の身体をうしろから誰かが受け止めた。その誰かも少しよろめいたようだったが、紗陽の体重を全部受け止めたままなんとか踏ん張ってくれた。あわてて体勢を立て直し振り返る。
「ごっごめんなさいっ!」
がばりと勢いよく頭を下げた。「いえ、お怪我はありませんか? 足をひねったりしていませんか?」とやわらかい声が降って来て、紗陽は恐る恐る顔を上げた。
紗陽と同じくらい、もしかしたら紗陽よりも小さいかもしれないくらいの背丈の華奢な女性だった。髪を無造作にひとつに束ね、化粧っ気もなくほぼすっぴんに見えたが黒目がちな眼がとても綺麗なかわいいひとだった。まだ若く、出会ったのがこの場でなければ女子高校生くらいに見えるひとだ。記憶の中を駆け足で探り、彼女が上司から呼ばれていた名前を引っ張り出す。
「だ、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました……ありがとうございます、ヒナさん」
「いえ、お怪我がなくてよかったです」
にこ、と微笑んだ彼女―――ヒナ、と上司には呼ばれていた―――はとても可愛らしかった。線がとっても細いのだが、その腰にはいくつも道具がぶら下がりショルダーバッグはぱんぱんになっていた。確かヒナは照明部、とてもじゃないが彼女の外見からは想像が出来ない。
「足元、悪いですからね。私も毎日転びそうになっちゃうんですよ」
ぴゅっと肩をすくめて悪戯っぽく言うヒナに心がほわっとあたたかくなる。羞恥で恐らく真っ赤になっているであろう紗陽に気を遣ってくれているのだろう。今まであいさつしかする機会がなかったのだが、とってもやさしくていいひとだな、と思った。
「ヒナさん、すごく動かれてますもんね。……私が言えた口じゃないですけど、気を付けてください」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ今日もよろしくお願いします」
ちょっとおどけて敬礼してくれたヒナの笑顔に紗陽も自然と笑顔になる。ありがとうございました、と最後にぺこりと頭を下げその場で別れた。……しっかりしよう。周りに迷惑をかけるなんて言語道断。しっかり、しっかり。
夢のことなんて、気にしないで。