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_______

〈 ここからが、誰も知らないこれからの話 〉




「―――!」

 身体を包んだ風に、成功したことを知る。

 落下感―――悲鳴も上げず、眼を開けた。次の瞬間襲い来るであろう衝撃に備えて身体を丸める。

 身体が激しく何かに叩き付けられた。そのままごろごろと転がり、何とか手を突っ張ってその回転を止める。引っ掻くように爪を立て手足をフルに使い、何とか身体は停止した。―――だがこの風はなんだ? 押し流すような強い風が一向に止まない。真っ暗な視界に漸く眼が慣れると、ぼんやりと今紗陽がどこにいるかがわかった。―――列車の屋根の上だ。真っ暗な世界の中、行き先もろくに見えないまま列車は暴走するように走り続ける。信じられないスピードだった。

「ドーリ―――」

 辺りを見渡す。いない―――今までなら紗陽は常にドーリの眼の前に現れていた。なのに今はいない……落ち着け、と自分に言い聞かせて唇を舐めた。世界の崩壊が進んでいる。ルールはもう通用しない。大丈夫、きっと近くにいるはずだ。

 そう。紗陽は願っている。強く強く。こうであったらいいな、ああであったらいいな、と。いつだって、どこにいたって。

「―――行くぞ、紗陽」

 自分に言って。そろそろと立ち上がる。途端に風を受け身体がぐらりと揺れたが何とか堪えた。だてに二ヶ月間足場の悪いところに通ってなかった。踏ん張りながらも一度列車の中に降り様と、車両と車両の繋ぎ目を目指す。

「……ははっ」

 本当にこれ、映画みたいじゃないか。場違いなほど短絡的なことを考えて笑う。大丈夫。大丈夫。

「だいじょうぶ……」

 のろのろと、まどろっこしくなるくらいの時間をかけて少しずつ少しずつ進み、漸く辿り吐いた車両の境目。ひょいと下を覗き込み、きちんとデッキがあることを確認してからそろりそろりと足を下ろす。もちろん届かない。脚、胴と続き腕の力で何とか屋根にぶら下がり、ぎりぎりまで下りたところで手を離した。一瞬にも満たない落下。無事、着地。

「ふう……」

 そっと胸を撫でる。どっどっどっと早い鼓動に小さく笑いかけ、大丈夫だよ、とささやいた。ドアの上部分にある丸いガラス窓の下に屈み、そっと眼だけ覗かせ覗き込んだ。ひとはいない……ドーリも、誰も。電球がてんてんと間隔を空けて一直線にぶら下がっていて、そこだけほんのりと明るいもののあとは薄暗く沈んでいる。ユキを呼びたいなと思った。あの大きなサーチライトを振り込んでもらいたい。

「……よし」

 気合を入れなおして。錆び付いた冷たい手すりを握り、ドアを開けた。細い通路に踏み出す。天井からぶら下がる裸電球は、振動があるのにほとんど揺れていない。明かりがあるのに薄暗い車内……足早に歩き出した。本当に、誰もいない……それなのに気配だけはあった。誰かたくさんの声も姿も心もないような何かが、たくさんたくさん、紗陽を見ている……。

「ドーリ」

 声を振り絞った。例え何かがいるとしても紗陽がここにいることはばれている。隠すスキルもない。いくら映画のようでも、紗陽はしがない編集者でありそれ以上でもそれ以下でもないのだ。紗陽がなれるものは紗陽という存在だけ。スパイにも探偵にもなれはしない。いいんだ。だってそれは紗陽の仕事ではないんだから。

「ドーリ。どこ? 私です。紗陽です。どこですか?」

 列車の振動音。紗陽の声は飲み込まれ、ほんの小さくしか響かない。

「―――ドーリ!」

 あらん限りの力で、呼んだ。

「ドーリ! ドーリ、ドーリ! 迎えに来ました!」

 挑むように。睨むように。―――願うように。

「何に邪魔されようと! ―――絶対にあなたを連れて還る!」

 刹那、音と振動がミュートしたように消えた。次の瞬間―――

「―――ッ!」

 爆発したような激しさで列車がスピードを増した。汽笛が耳を劈くように鳴り響き平衡感覚を失ってどんっと尻餅を着いた。反射的に閉じていた眼を開けると、紗陽が睨んでいた先の車両が黒い粒子のような暗闇に飲み込まれはじめていた。それはどんどん侵食するように紗陽に向かって迫って来る。

「―――っ!」

 ああ映画と言ってもホラーですかそうですかホラーだけは大ッ嫌いだ! 手足を使って四つん這いから何とか立ち上がり暗闇から離れるように走り出す。ドアを抜け連結部分を抜け前の車両へ。進行方向前方に向かって。

 どの車両にもドーリはいない。振り返ると暗闇は先ほどまで紗陽がいた車両を完全に飲み込んでいた。まだ距離はあるがやがて行き詰る。その前になんとかドーリを見付けなければ。

「っ、これでここにいなかったら呪ってや、る!」

 がくがくと揺れる車内をあちこちに身体をぶつけながら走る。走る。探す。ドーリ。

「ドーリ!」

 探す。

「ドーリ、ドーリ!」

 求める。

「ドーリッ!」

 願う。

「―――ドーリ!」

 あなたに伝えたい、言葉がある。

 ぶわ、と音もなく、紗陽の眼の前に暗闇が広がった。

「……!」

 追い付かれたわけではない。急にそこに暗闇は現れた。飛びのいたものの逃げられたのは一瞬だけで次の瞬間紗陽はその暗闇に上から丸呑みにされるように飲み込まれていた。

「―――! ―――! ―――!」

 自分の声さえ聞こえない自分の姿すら見えない。それでも自分の存在は見失わない。だって願ってる。こうであったらいいな、ああであったらいいなと、願うことをやめていない。なめるな。どれだけ焦がれて、どれだけ望んでこの仕事を、映画の世界に入ったと思ってる。

 紗陽の望みは筋金入りだ。望むこと、願うことはひと一倍強い。―――こんなものに、敗けたりしない。

 ああああああ、と、声がした。真っ暗な中を見渡す。

 ああああああ、マーシャ。マーシャ。―――慟哭する、マルクの声。

 膝を付いて泣き喚く。折れそうに細い、まだ幼い身体で、心で。少年が、泣く。

 こんな世界のどこがいいのと誰かが笑う。

 こんな世界のどこがいいの。こんな世界にどうして還すの。

 ああそうだ。こんな世界だ。知ってるよ。思い知ったよ。

「―――絶望することの何が悪いの? 悪くなんかない! 絶望することは、恥ずかしいことじゃない!」

 大事なことはそれじゃない。

「酷い大人がいる、酷い人間がいる! 子供の人生を奪って、身勝手なものに変えて! 押し付けて、蔑ろにして! それでも幸せを掴もうと絶望しながら願うことの、何が悪いの!」

 ぱあん、と、慟哭するマルクが弾けて消える。砂のように崩れ去り、もうどちらが前なのかもわからないまま紗陽は走り出す。

 全部嘘なのよ、と声がした。暗闇の中、焦げ付くように鮮烈な金色の髪。

 全部嘘なの。存在が嘘なの。―――わたしは一生、『わたし』にはなれないの。

 緑の眼を細め、薄く薄く、冷たく微笑む。それを見て全てを失った顔をして立ち去る、帽子を被った青年の姿。

 こんな世界のどこがいいのと誰かが笑う。こんな世界にどうして還すのと誰かが笑う。

「全部嘘なんて、嘘だ! 嘘だったじゃないか! あの花に、気持ちに、嘘なんかひとつもなかったじゃないか! それを知ってたから、花を捧げるビリーの気持ちを『彼女』が知ったからこそ、私の声に応じたんでしょ! 届いたから、届いていたから、『彼女』はあの時彼女自身の言葉を言えたんでしょ! ―――ありがとうって、言ってたじゃないか!」

 嘘が嘘だと、彼は知っていた。

「お互いに想い合って! 言葉はなくてもどうにか想いを伝えたくて頑張って! 毎日毎日、避けるようにして想いを通わせて! ―――そんな風に幸せを紡ぐことの、何が悪いの!」

 笑う。笑う。声が笑う。世界を、笑う。

 砂のように崩れた二人から眼を離し、どことも知らぬ暗闇に向かって―――願うように、吼えた。

「そうやって、笑っていればいい。指差して笑って、愚かだって馬鹿にしてればいい! でもみんなみんな、たったそれだけのことであきらめたりなんかしないから! 願うことをやめたりしないから! ―――そうでしょ、そう思って、あの世界を生み出そうとしたんでしょ! だから―――」

 それを知っているから、あなたは―――声のあらん限り、叫んだ。


「―――私だって、わかるよ! 水灰創太!」


 視界が一瞬で白まった。

 音も風も消えた白く光る空間。

 水の中のように緩慢にしか動けないその世界、紗陽は眼の前のその背中に必死に手をのばす。

 ほんの数ミリずつしか動かない時間。その服に、その背中に、指先が、あともう少し、


 ―――そのひとが、振り返った。


 穏やかな表情。不精髭が生えているのはきっと、ずっと自主制作続きで髭を剃る暇もなかったから。夢中になって、数々の難関にぶつかって、それでもあきらめず、世界を紡ぎ出していたから。

 白い光に照らされ浮ぶ、黒い人影。

 そう、あなただった。―――いつもいつも現れてその世界の住人を幸せに導いてくれたのは、いつだって、あなただった。


 たのんだよ


 音もなく、けれど確かに聞こえたその言葉に、紗陽は大きくうなずいた―――



「―――ッ!」

 闇の中に戻った瞬間、眼を開けて暗闇の中に腕を突っ込んだ。―――その腕を、掴む。その手を。―――あの時繋いで跳躍した手を。逃げる時に紗陽を抱き上げた手を。何度も何度も、紗陽の涙を拭った手を。―――彼の手を。

 暗闇から、道理を連れ出した。

「道理!」

 ばちん、と頬を叩く。真っ青な顔、病室で見た時よりも酷い顔色。最後にホームで会った時の彼よりも力なく、眼を閉じている道理。

「道理! 道理! 起きて! 起きて! 迎えに来たよ!」

 この世界は彼が逃げ込んだ世界だ。―――でも、わかっている。本当は彼だってわかっている。

 どこに逃げ込んでももう、水灰創太の命は戻らない。

 だからこの暗闇は道理の一部。世界から乖離してまで逃げたがった彼を飲み込んだ、彼の一部で彼の弱いところ。

 声が言う。そんなことをしても何もならない。絶望し切った『それ』はもう何も出来ない。

あの世界に還ったところで何も意味はない。

 必要ない。

「そんなわけあるか!」

 ぐったりと横たわるドーリの頭を抱きしめた。強く強く抱きしめ、叫び返す。

「そんなこと、あるか! 彼の仕事を見て心を揺さぶられたひとがいる! こんな世界を生み

出せるこの世界もまだ悪くないって、希望を見たひとがいる! ドーリは世界に必要だ! ―――私の世界に、必要だ!」

 道理、と、腕の中の彼に呼びかけた。

「道理、悲しんで! 悲しまなきゃ駄目だ!

逃げていいよ、けど、逃げ続けちゃ駄目! 出来なかったこと、成し遂げられなかったこと、遺せなかったことを嘆きながら、悲しみは悲しみのまま抱きしめながら生きていかなきゃいけないんだ! やさしいことは恥じることじゃないように、悲しみだって恥じることでも逃げることでもないんだ!

道理、世界を見てよ! ―――だって全部ぜんぶ、そこにあるんだ!」

 どくん、と、抱きしめた彼の身体が震え、

 ぽたりと、彼の頬を涙が伝った。

「……そ……た……そう……た……」

 掠れた声。震えた声。

 悲しくて悲しくて、泣いている声。

 水灰道理が、泣いていた。

「ごめ、そう、た……できなかった……そうたがいなきゃもう、かんせい、させられなかった……」

 ぼろぼろと涙が伝う。紗陽の腕の中で、水灰道理が、声を上げて泣いていた。

「……この世界に、お前がいるって……証明、したかった……」

「―――うん、うん」

 ささやく。微笑う。

 ぽたりと落ちた紗陽の涙は、頬を伝って道理の涙と混じった。

「知ってる。―――知ってるよ」

 あなたが本当に、心からそれを願っていたことを知っている。

 あなたがずっとずっと、どうにかしようとしていたことを知っている。

「道理。無理だよ。映画はね、本当にひとりひとりの力が大切なんだ。私はそれを、知ったんだ……。

 ……焦らないで。大丈夫。大丈夫だよ。時間はかかる。たくさん、かかる。けど、大丈夫。……道理たちなら、絶対に出来るよ。……だって」

 だって。

「道理は映画を、愛してるでしょ?」

 辛くなって逃げ出した先が、映画だったように。

 映画を完成させられず、絶望して逃げ出したその先がやはり、映画だったように。

 大丈夫。大丈夫。

 こんなにも映画を愛しているのだから、絶対、大丈夫。

 うん、と、道理が微かな声でうなずいた。長い腕がのびて紗陽を抱きしめ、うん、うん、とうなずいた。




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