マティーニには早すぎる
〈 マティーニには早すぎる 〉
眼の前に並べられたたくさんの料理。次々と加わる料理に紗陽はきらきらと眼を輝かせた。
「み、嶺さん。これ全部食べていいんですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます! いただきます!」
並べられたたくさんの料理を前に紗陽はぱんっと手を合わせて早速その料理に手をのばした。キャベツがとろけるロールキャベツ、トマトリゾット、コーンスープ、温野菜のチーズがけサラダ。胃にやさしそうなやさしい味わいのメニューに身体がよろこぶ。
「おいしい! 嶺さんすごいです、お料理上手ですね!」
「あー、大学時代の運命共同体……同期が料理上手で。昔レシピ教えてもらった」
「へええ。運命共同体って、彼女さんですか?」
「いや。卒業制作」
「ああ、なるほど……作品ですか?」
「そう。俺が監督、そいつがカメラ。あともうひとり半運命共同体で録音部」
「……あの、今度観せて頂けませんか」
「いいよ」
ありがとうございます、と頭を下げた。
一日休みを置いてから会社であるラボに出社すると女性社員に悲鳴を上げられた。ただいま戻りました、今日からまたよろしくお願い致しますと頭を下げようとした紗陽が思わず呆然と固まり、そんなに酷い格好だろうかとあわてて自分の身体をチェックしたが特に問題は見受けられず……悲鳴を聞きつけた社員が続々と現れ、紗陽を見て絶句した。新手のいじめかと思い
はじめていた紗陽に、昔の嶺みたいだなあと上司が呟いて……その時漸く嶺がやって来て、ああやっぱりと頭をがりがり搔いた。何が何だかわからない紗陽に向かってゆっくりと、
「これはセクハラじゃないからな。……お前、最近体重計乗ってないだろ」
イエス、だった。ホテルに体重計はなかったし家に帰ってもそれどころじゃなかった。
でもそれがどうしたのだろう、むしろ少し痩せたかなと思っていたのだが……と考えていると最初に悲鳴を上げた女性スタッフにそっと連れられて給湯室に連れていかれた。何故給湯室かと言われると、そこには何故か体重計があるからだ。噂によるとメタボを気にした上司が入れたとか入れなかったとか。気遣うような顔でそっと給湯室に紗陽を残した女性社員に内心首を傾げながらまあいいかとそっとそれに乗って、……理解した。とてもとても、理解した。
「……八キロ痩せてました」
給湯室から出て、紗陽の報告を待っていた嶺をはじめ大勢のスタッフを前にぼそりと言うと、やっぱりそうだろうというように全員に嘆息された。悲鳴を上げられたのは紗陽が激痩せしてまるで病人のように見えたかららしい。服のサイズが少し合わないなとは思ったが、まさかここまでとは……二ヶ月で八キロ。こう……二ヶ月どう過ごしていたか考えると、全く素直によろこべない。深く溜め息を吐くと疲労感と取られたのかとにかく座りなさい楽にしなさいとわらわらと椅子がからからやって来て、そこに座らされたかと思ったら誰かが買って来てくれたのか牛乳があたためられ、少しでも栄養をとホットミルクが満ちたマグカップを渡される。おかわりはあるからゆっくり飲むんだよと涙ぐまれながら言われ、目の前のテーブルにはお菓子が次々と献上される。チョコレートが多かった。
「食べながらでいいし、ゆっくりでいいから話を聞いてもいいか」
重病人のような扱いだったが、紗陽はうなずいた。別に立ち眩みがするわけでもないので、とりあえずは大丈夫だと思うのだが……。
部屋の一角、嶺と上司、馬場と座る。チョコを食べ、ホットミルクをちびちび飲む。
「……嶺も前現場から戻って来た時は激痩せしていたが……あれだな、お前みたいに元から細っこいのが激痩して帰って来ると……本気で怖くなるな」
これはセクハラじゃないからな、と念押しされる。セクハラの定義って本当にむずかしいよなあと思いながら紗陽はうなずいた。
「現場が過酷だったとは報告は受けてる。休みもほとんどなかったんだろ?」
「はい……そうです、ね」
「体調は? 正直に言ってくれ」
「えっと……はい、本当、正直に言いますと……まだ少し疲労感は残ってて……」
「だろうな、全く環境が違ったんだから……」
全然褒められた話ではないが普段はラボにこもり切りで仕事をしていたのだ。物理的にあんなに厳しい環境に放り込まれたのははじめてで、上司も誰もいない状況もはじめてだった。気苦労や体力が厳しかったのは本当だ。クランクアップしたのは一昨日。昨日丸一日休めたが、それが二ヶ月で削られた体力や諸々のものを回復してくれたかと言われれば、ノーだ。
「本来ならこの二ヶ月間で休むはずだった日数が溜まってる」
嶺が言った。まあ確かに休みは二ヶ月間で一日しかなかった。比喩もなしに、本当に一日。基本週二日休みなのでこれはまあ当たり前のように足りていない。
「その日数、纏めて休め。今日から。その期間で体調も整えてくれ」
「で、でも、」
「俺も昔現場から帰って来たあとそうしたんだよ。だからお前だってすべきだ」
馬場の言葉に返そうとしたが嶺にそう言われ何も言えなくなる。当たり前のように嶺はうなずいた。
「今は大丈夫でも気が抜けた時一気に体調が崩れることもある。……今日は報告を聞きたかっただけなんだよ」
「そう。でもまさか、覚悟はしていたがここまでやつれて帰って来るとは思ってなかったから……悪かったなあ……」
「い、いえ! あの、本当。すごくためになりましたし、こう言ったらあれなんですけど……すごく楽しかったんです。辛かったし、厳しかったし大変だったけど、でもすごく」
「……そうか」
嶺が笑った。そっか、と、今度は少し砕けた言葉でうなずく。
「とりあえず、ゆっくり休んで。それからまた頼むよ」
「はい」
大きくうなずいた。馬場が仕事に戻り、嶺と二人、残される。
湯気がまだ少し残るホットミルクをこくりと飲む。
「……楽しかったか?」
「……はい」
いろいろあったけれど、……いろいろ、あったけれど。
紗陽はうなずいた。……嶺が、そうか、と薄く微笑む。
「出来ないことも出来たことも、……全部ぜんぶが、本当に」
「そうか」
静かな時間。
穏やかな時。
嶺が言った。
「またやりたい?」
その言葉に、紗陽は微笑んだ。
嶺は本当に面倒見がよかった。その次の日、休みの一日目。仕事終わりに紗陽の部屋に来た嶺はあっという間に料理を作りあげた。そのどれもがおいしくて幸せな気分になる。
「二ヶ月あれば結構世の中変わるだろ」
「もう秋も半ばまで過ぎててびっくりしました……本当の意味で着る服がないです……」
「ちょっとした浦島太郎だな」
「はい」
「八キロ痩せの」
「はい……」
とりあえず八キロ戻す必要はないと思うが、でもまあ確かに、もう少し戻しておいた方がいい……のだろう。納得はいかないが。けどどうせ戻すなら筋肉がいいな。贅肉はいらない。
「まあしばらく休め。映画観たり遊んだり」
「映画ですか」
「好きだろ」
「好きですけどね」
「打ち上げもあるんだろ?」
「はい。来週ですね。行っても会社的には問題ないですか?」
「全くない。出ない方が問題」
「じゃあありがたく行って来ます」
「現場で友達出来たか?」
「はい。照明部の方がすごくやさしくしてくれて、いい方で」
「あー……照明部は女たらしだから近付くなって同期が言ってたけど」
「あ、全然問題ありません。そのひと女性なので」
「あ、そ。まあ楽しんで」
「はい」
一緒に夕食を取り、少し話して嶺は帰った。深々と頭を下げて見送り、ふうと息を吐いて鍵を閉める。嶺はああいうひとなので人付き合いしやすい。別に紗陽が特別とか、そんな風ではないときちんとわかるから。
「あー、幸せだー……」
満腹感を抱えたままぼふんとベッドに飛び込んだ。自分のベッド。シーツも洗いたて、ふわふわで清潔で気持ちがいい。日常って幸せだなあと噛みしめつつ、蛍光灯の明るさがちょっと嫌になったので電気を消し枕に頬を埋める。
しばらくそのままでいた。うとうととまどろんで、眼が覚め……何の夢も見ていない自分に気付く。
「……」
あれから。あれから一度も、紗陽はあの世界へ行っていない。
ニュースを見ても、水灰道理が眼を覚ましたという報告はない。隠されているのかとも思ったが、だとしたら安達から連絡が来るはずだった。きっとまだ、時間がもう少しかかるのだ……紗陽は紗陽のままであの世界とこの世界を行き来していたが、水灰道理は違う。ドーリとして……自分とよく似た、違う人間としてあの世界に行き、そして、過ごしていた。紗陽とは違う。きっと、帰って来るまでもう少し時間がかかるのだ……。
帰って来ることを疑いはしなかった。だって紗陽はやり切った。カットを繋ぎ、紡いで、世界を創る。……あの映画は、あれでおしまい。続編も、スピンオフも存在しない。
だから大丈夫。もう終わったんだ。安心して還って来て、いいんだよ。
「……」
暗い室内。むくり、と起き上がって―――本棚の一番取り出しやすい位置にある、そのDVDのパッケージを抜き取る。
取り出して、デッキに読み込ませた。……ややあって、待機中ではない誰かが生み出した黒が現れ、すうっと溶けるようにして世界がはじまる。
現れる少年。着崩した学ラン、斜に構えた表情。……どうしようもなく行き詰った少年。やがて同じようにどうしようもなく行き詰った中年男性に出会い、ひょんなことから二人は事件に巻き込まれる……
二人の間にきっと、友情はない。芽生えたのはそんなものではない。ただ……ただ、認め合った。
失くしたからといって、失ったからといって、……あきらめなければならないわけでは、ないのだと。
守りたいものを守るのだと。……それがどれだけ、他人から笑われてしまうくらい無様で不恰好なものだとしても。
少年が、口ずさむ。唄にも満たない、ひとりごとのように軽く。
笑えよ。ほら。
俺が月に飛ばしてやる。
画面に映った、水灰道理が、言う。
「……」
流れるパトカーの赤い光。大勢に囲まれて、捕らえられて―――少年と中年男性は歩く。
別々のパトカーに乗せられて―――その直前、一瞬だけ、二人の眼が合う。
―――別れの言葉は、なかった。
「……」
はじまるエンドロール。ヒナの名前がそこに確かにあるのを見て―――ああ、本当に彼女は
この世界の住人なのだと、うらやましく思う。
会うことはない。この少年と中年男性がきっともう二度と会わなかったように、紗陽も水灰道理と会わない。―――これまでのように。これからだって。
「……大丈夫なんだよ……」
大丈夫。大丈夫。
エンドロールが流れるように。決して逆向きには、ならないように。
悲しいこともたくさんある。どれだけ愛しても終わってしまうことだって、たくさんある。―――でも。
それでも、大丈夫だよ。だってそれが、この世界なんだ。
ふてぶてしくて、毒舌でちっとも笑顔がさわやかではない、言葉が真っ直ぐで嘘のない、心から自分の仕事を、世界を友人を映画を愛する青年。
「……還って、おいで」
還っておいで。
この世界の片隅で、紗陽はそれをよろこぼう。




