世界を終わらせる唯一の方法 4
―――何が、覚悟を決めただよ。
「……紗陽ちゃん? どうしたの?」
顔馴染みのスタッフがどこか恐る恐ると言った様子に声をかけてきた。
「顔が強張ってるよ? なにかあった?」
「……いえ、大丈夫です」
なるべく微笑んで首を横に振る。そう? あともう少しだから頑張ろうね、と声をかけ、そのひとは去ってゆく。
クランクアップに当たる今日。そして、今までで一番、厳しい日。
カメラは五つ。アクションの嵐。ワイヤーで役者は宙を舞い、発砲弾着の嵐の中砂吹雪を巨大扇風機で作り出す。
それら全てを、紗陽が繋げる。
「さあ」
与賀が呟いた。
「やろう」
それは集大成だった。この現場で、はじめての仕事で紗陽が培ったもの全てを奮う瞬間だった。
切る。繋ぐ。紡いで。
歌うように。叫ぶように。ささやくように。強弱を付けて。これは世界だ。一定じゃない。流れを。生み出す。
画面の中でひとが吼える。切りかかる。瞬間カットを飛ばす。弾ませる。
松白が跳躍する。繋ぐのは敵のカット。爪先からせり上がる。無駄を省いて。世界を生み出す。
情報量が多い。五つのカメラから同時に映像が来る。思考が飽和する。けれど動く。紗陽の持つ紗陽の心が決めるように。キーを叩く指は止まらない。眼を見開く。―――来い。全部ぜんぶ、吞み込んでやる。
与賀が言う。うなずき、言葉を返す余裕もなく繋ぎ続ける。やり切る。やり切ってみせる。―――今はこれが、紗陽の仕事だ。
繋いで。生んで。こうであったらいいな、ああであったらいいなと願って。望んで。強く。強く。
だって、映画はいつか終わる。幸せな時間はいつか終わる。―――撮影がいつか、マティーニを迎えるように。
組は解散し、そして、全く同じメンバーが集うことは、二度とない。
トップから末端まで。揃うことなんて二度とない。
だからこそ全力を尽くすのだ。たかが娯楽のためと笑うなら笑え。だってその娯楽で紗陽は救われたのだ。きっと紗陽が知らないだけで、気付かないだけで他の誰かも救っている。
ほら。ほら。―――終わる。
「マティーニだ」
マティーニだ。
「―――カット」
しん、と、静まり返って。
ざん、と、余韻が響いた。
「……っ、与賀組、クランクアップです! お疲れさまでしたッッッ!」
大声で宣言したのは、安達だった。
その声を封切りにわああああっと割れるような歓声が鳴り響く。わんっと頭の中で芯が熱く激しく揺れ、ぼろり、と涙が伝った。
終わった。終わった。―――この組全員で、終わらせた。
「―――お疲れさま、本当によく頑張ってくれたね」
あちこちから握手を求められていた与賀が、呆然とディスプレイの前に座り続ける紗陽に声をかける。
涙を拭わないまま、首を横に振った。
「慣れない環境で本当に辛かっただろう。蜂嶺くんも本当にいい人材を回してくれた。彼にも感謝してるよ」
「……っ、」
想いが、こぼれて、
「―――この仕事、必要、ですか」
本音が、漏れた。
「知りません、でした。私はいつも、ラボの中にいて……回って来る素材を、ただひたすらラボの中で繋ぐだけで……納期が近い時ならともかく、ちゃんと家に帰れて、ちゃんと眠れてました」
辛かった。……でも動き回るスタッフはきっと、もっと辛かった。
毎日三十時間働いて、走り回って泥だらけの埃まみれになって、ほんの二、三時間しか眠れなくて。食事もろくに取れなくて、どんどんどんどん、削られていって。
映画は、こんなにも辛いものだった。
「こんなに、辛くて。……それでも、この仕事は、必要でしょうか」
ぼろぼろと泣きながら言った紗陽に―――与賀は小さく、微笑んだ。
「必要だよ。―――必要だから、作ったんだ」
君のしたことは、本当に必要なことだったんだ。と。
「映画は、辛い。辛いことばかりだ。ギャラは安い、ろくに休みもない、眠れない、食事さえもまともに取れないしトイレだって行けない。何も出来ない。拘束される。創るのは結局は娯楽だ、映画がなければ死んでしまう人間は、この世にいない。映画がなくても呼吸は出来るし生活は出来る。―――でも、それでも映画は必要なんだ。誰かがこんなことがあったらいいな、あんなことがあったらいいなと思うように、誰かにとって世界は必要なんだ。
君がいてくれたおかげで、リテイクが減った。スタッフの負担が減った。その分この組の全員が助かったんだ。
このポジションの仕事は他の組ではあまりない。僕が創ったから。―――いらなかったら創らないよ」
「……」
「君のことも本当に頼りにしている。……君は、自分では気付いていないかもしれないけれど。会話するのは苦手かもしれないけど、君は編集をしている時、一瞬たりとも手を止めないんだ。要望を出すと一度で察して理解して、少ない言葉の中から無限大の世界を広げて示して来る。……君の編集を見て、カットを変えたこともあるんだよ」
知らなかった。―――知らない内に、紗陽は誰かの世界に影響を与えていた。
「君と仕事が出来て本当に良かったよ。君は本当にすごい。……また是非、一緒にやろう」
差し出されたその手を、大きな手を、―――力を込めて、握った。
バンの外はお祭り騒ぎだった。ケータリングもクランクアップということで大判振る舞い。撤収はまだこれからだが、各自缶ビールを片手に楽しそうに笑い合ったり握手したりしていた。松白はそんな集団の中心で、楽しそうに幸せそうに笑っていた。
そんな中、紗陽は救護テントを訪れた。大泣きしてしまったので目元を冷やしたかった。氷かなにかもらえるだろうかと思い、テントの白幕をちょっと上げる。
中には、ヒナがいた。覚えのあるメロディーを小さな声で口ずさんでいたヒナが顔を上げ、あ、という顔になる。
「紗陽さん。どうされたんですか? どこか怪我されたんですか?」
「い、いえ。大丈夫です。……ヒナさん、足、どうかされたんですか?」
ヒナは片足を小さな台の上に乗せた状態で椅子に座っていた。靴と靴下を脱いだその華奢な白い足首は、しかし今は赤く腫れていた。
「ああ、大したことないんです。一週間くらい前かな。足場、悪かったでしょう。機材運んでたらバランス崩してしまって」
幸い踏ん張れたので機材は無事だったんですけど、とヒナが小さく苦笑いする。
「テーピングで凌いでたんですけど、ゆるんじゃって。これからまだ撤収があるので、スポーツトレーナーさんに直して頂こうかと」
テーピングの在庫が車にあるらしいので今取りに行かれていますとヒナは続けた。
「……」
こんなに―――こんなに、ぼろぼろになって。それでも全然、終わらなくて。ちっとも楽に、なれなくて。
「―――辛く、ないんですか」
こんなになって。それでも、走り続けて。
ヒナが小さく笑った。
「辛いですよ。映画に参加する度、もうやめよう、もうやめてやる、って何度も思ってます」
「どうして、辞めないんですか」
切実さが混じった紗陽を、ヒナは笑わなかった。すっと視線を上げ―――虚空を、どこか遠くを見て、自分自身に苦笑いするように、大切な話をするように、言う。
「劇場で、エンドロールで上って来る自分の名前を見て。
―――そしたら全部、ああ、いいかって思えてしまうんです。まあいいか、またやるか……って。
ああ、この世界にわたしは参加出来たんだなって。そう思うんです
わたしの世界は最高だって」
笑っていいですよ、と、ヒナが笑う。
紗陽は笑わなかった。
「……さっき、歌ってましたね」
「あ、聞こえてましたか」
「はい。……月に飛ばしてやる、って」
聞きなれたメロディー。何度も何度も旋律をなぞったその曲。
笑えよ。ほら。
俺が月に飛ばしてやる。
「……その映画って……」
「私が関わった作品です。懐かしいな」
思い馳せるように、ヒナが笑う。
「この現場よりもずっとずっと辛かったです。今よりも眠れなくて、今よりも人数がずっと少なくて、今よりも予算がなくて。かつかつで、ぎりぎりで、いやぎりぎりどころか余裕でアウトで……最終日なんて三十分しか休めなくてトランシーバーの充電すら終わらなくて。自分の睡眠時間よりトランシーバーの心配してたら笑われました」
「……クランクアップの、日……」
「その日はね、あの廃墟のシーンを撮っていました。廃墟の裏庭で、二人が喧嘩するシーン」
クライマックスへ向かう直前、主人公たちが争い殴り合う。守らなきゃならないんだ、だってみんなみんな、そうやって守られて来たのだからと……殴り合い、叫び合って、漸く少年と中年男性は本当に手を組むことになり、敵へ立ち向かう覚悟を決める。
「長回しで、カットが少なかったでしょう? 手持ちカメラで、ずっとずっと、演技を追ってカメラマンが動き回るんです。私は反射板手にして役者さんの肌の色が暗くならないように、服の皺がきちんと立体的に映るように、その場判断のアドリブで反射板近付けては遠ざけて、カメラに入らないように必死に調整して。……ピントを送っていた撮影助手さんと、マイクを振っていた録音部さんが縺れ合って二人共横転して、ケーブルが絡まって。いつもならすぐ何とか起き上がれるでしょうけど、もう全然眠ってなかったし、身体が動かなくて。演技は続くから、みんな仕事をやっているから誰も助けに入れなくて。……這い蹲ったまま必死に手をのばしてカメラに追い縋ってピントを送って。録音部さんも倒れたまま下から必死にマイクを振って。……カメラの裏は、本当、本当滅茶苦茶だったんですよ」
それでも―――そんなことすら、本当に、誇らしそうに。
「大変だった。苦しかった。辛かった。―――けど、あの作品が、私は自分が関わった中で一番好きです。あの世界に関われたこと、あの世界を生み出すひとりになれたこと、あの世界の住人になれたこと……それが私の誇りです」
胸を張って。凜として。
それはそれは美しく、ヒナは微笑った。
「……私は、あの世界に救われました」
想いが込み上げて。―――必死に、堪えた。
「いつか言いたかった。―――ありがとう。あの世界を生み出してくれて、本当にありがとう」
―――今度こそ、覚悟を決めた。本当だ。
あの旅を終わらせよう。―――水灰道理を、この世界に還そう。
その日の夜、久しぶりに感じるほど久しぶりに、何に追われるわけでなく家に帰宅した紗陽は、本当に久しぶりに自炊し、使い慣れた風呂に入り、部屋着に着替え、久しぶりに机の前に座った。ずっとホテル鏡台前に置かれていた愛機のMacも漸く定位置に収まる。
全てが元通りだった。あの撮影に入る前と同じ。あの世界に行く前と同じ。
「……」
起動させる。タイムラインを開いて、マウスを動かす。
駅へ向かうドーリ。列車に乗り込もうと、ホームに入って―――
紗陽は列車に、乗らせなかった。
カットを繋ぐ。無理があるとわかっていても、それを避けるため駅で列車を待つドーリのカットをただひたすらに繋ぐ。乗らせない。待っても待っても、列車は来ない。
お願い、現れて。―――そう願いながらひたすらカットを繋げる。待合いベンチに座るドーリ。列車は遅れている。遅れている……。あまりにも遅れが出ていると知ったドーリが、一度駅の外に出る。……黒い影は現れない。でも、大丈夫。この映画はこれで終わり。ドーリは列車に乗らない。列車に乗るのをあきらめて、そのまま徒歩で街を出る。続けるのは、街を歩きどんどん姿が遠くなるドーリの後姿のカット。
小さくなる。少しずつ。―――紗陽とドーリが、離れるように。
フェードをかけた。少しずつ画面は黒くなり、そしてやがて、完全に暗転した。
「……」
眼を閉じる。
睡魔はすぐに、やって来た。




