世界を終わらせる唯一の方法 2
その大きなターミナル駅で解散したのは朝の七時。通勤ラッシュのその時間の中、大きなスーツケースをごろごろとしながら胸中で周囲に謝り倒す。ごめんなさいこんな混んでる時間にごめんなさい。ああ、下り方面の電車でよかった。上りだったらあきらめてタクシーしかなかった。お金ないのに。
まだ余裕のある下り電車に乗り込み、幸運にも隅に行くことが出来たのでスーツケースをそこにやる。こんなものを持って病院に行くわけにはいかないし、今のこの格好……全体的にくたびれ切った現場仕様の格好ではなく、普段の格好で……シャワーも浴びて……。
泥のように眠りたかったが、何とか堪えて窓の外の明るい世界を睨む。
もっと大事なことがこれからある。
帰宅し、ダッシュでシャワーを浴び髪を乾かして着替えた。鞄に荷物を詰めてすぐさま家を出る。約束の時間にはぎりぎり間に合いそうだった。ほっとしつつ明日が休みでよかったと心から感謝する。もちろん動く部署もあるのだろうが、紗陽は休みで大丈夫だった。そうでなければもう、紗陽は、終わる。
やはり安達もぎりぎりだったのか、十分ほど遅れてやって来た。ごめん、と疲れた顔で言う安達に首を横に振り買っておいたスポーツドリンクをそっと差し出して見せると目を輝かせて受け取りごっごっごっと一気に煽った。
「ぷはあ、ありが、と。生き返る」
「いえ、ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
「気にしないで、どちみちひとりでも行く予定だったから」
そう言って頂けるとありがたい。安達に続いてバス停まで行き病院行きのバスに乗る。
「マスコミとか、いるんでしょうか」
「……流石に今はいないんじゃないかな。……意識を失って、結構経つ」
そう。―――そう、だった。
ニュースで水灰道理の名前を聞くこともほとんどない。……何も進展は、ないのだろう。
「……安達さんと水灰さんはご友人なんですよね。……安達さんといる時の水灰さんはどういう方なんでしょうか?」
「……道理の方?」
「あっ。……はい、そうです。でも創太さんの方も教えて頂けると」
「道理と創太は……いいコンビだよ。道理は……親しい奴には結構毒舌吐く。けど嘘は言わない。態度がでかくて、でも憎めない。笑う時はあんな爽やかに笑わない。薄くにやって笑う。……馬鹿話して大爆笑もするけど。……創太は落ち着いててマイペース。どれだけ現場が過酷でも変わらない。見てると安心する、そんな奴」
道理―――ドーリ。
横暴で、態度が大きくて、毒舌で、……でも確かに、嘘は吐かない。
言葉が真っ直ぐで、隠しもしなければ、眼を逸らしもしない。―――そうやって、世界を見つめるひと。
似ていた―――安達の語る水灰道理は、紗陽の知るドーリととてもよく似ていた。
「道理も創太も本当に映画を愛してる。映画の持つ力を信じている。いつか届かせるんだって、いつも言ってた。……少しずつ、少しずつ、金を貯めては海外へ行って撮って、撮って……少しずつ、映像を撮って。誰も知らない結末にするんだって言って、ずっと……」
その結末を描く前に。
水灰創太は。
「……創太さんは、いつ……?」
「……大学を卒業して、すぐ。……病気が発覚した。すぐに入院して……撮影はもちろん出来ない。道理はその頃まだ無名で、だからゲンかつぎで芸名を創太から取った。……今思えば、一緒に戦いたかったのかもしれない。道理は必死に努力して―――頭角を、出した」
その間も。闘病しながら水灰道理を応援し続ける、水灰創太。
「……元気になってまたあの映画を撮ろう、最後まで撮り切ろうって、いっつも二人言ってた。……創太は死んだ。……その連絡を受けた時、道理は倒れた」
最初はショックで倒れたのかと、その時そばにいた人間は思ったらしい。救急車を呼び病院に運ぶ。……どこにも異常はない。異常はないのに、水灰道理は目覚めない。それどころかどんどん弱ってゆく。原因は不明。―――何がいけないのか、どこが悪いのかもわからない。
「……」
水灰道理は―――意識を失った瞬間きっと、あの世界へと飛んだのだ。
かつて水灰創太と歩んだ世界を。―――あの、世界へと。
「……」
辿り着いた大きな病院。その個室に水灰道理はいるらしい。
安達に続いて病院のドアをくぐり、ぐるりと安達が見渡して―――あ、という顔をしてひとりの女性に近付いた。気配に気付いた女性が座っていたソファーから立ち上がり、安達を見て……その瞳が、微かに光った。
「……こんなに、大人になって」
思いの詰まった声。……最後に会ったのは、大学時代なのかもしれない。
「お久しぶりです、おばさん。……今日はどうもありがとうございます」
「いいえ、いいえ。……安達くんも忙しいんでしょう? 道理から聞いてたわ。たくさん映画を創って……エンドロールで名前を何度も観たのよ」
「どうもありがとうございます。……本当にうれしいです」
声音が、揺れた。滲みかけたその声を奮い立たせるように、深々と頭を下げた安達が顔を上げる。
「……今日は後輩を連れて来ました。大学時代の後輩です。昔自主制作を手伝ってもらって……」
「ああ、じゃあきっと道理もお世話になったのね。わざわざ足を運んでくれて本当にありがとう」
うれしそうに涙のこもった声でそう言われ罪悪感がつのったが、なんとか押し隠して頭を下げ自己紹介をする。
「こっちよ。上の階なの。……面会謝絶になってるんだけど、私と一緒なら大丈夫だから」
マスコミや行き過ぎたファン対策なのだろう。うなずき、続いてエレベーターに乗り込む。ぽつぽつと静かなトーンで安達と会話しているがその会話にはぎこちなさはなく、どこかお互いほっとしているような、安堵しているような空気が滲み出ていた。
「紗陽ちゃんが来てくれた前の自主制作とか、おばさんたくさん差し入れしてくれたんだよ。飯が貧相だったからせめてもって大量のからあげ揚げてくれたり、夏はレモンのはちみつ漬けとか……おばさんはみんなの母さんだからな」
「懐かしいわね」
くすくすと笑い、それからその眼がふっと伏せられる。
「……よっぽどショックだったのね。創太くんのこと……」
「……行けなかったんです、俺」
「大丈夫よ、創太くんは気にするような子じゃないわ。お前も大変だなあってのんびり言ってくれるわ、きっと。……それにね、おばさんが道理の分も安達くんの分も含めて参列して来たから。だから大丈夫よ」
「……」
かくん、と安達がうな垂れた。ありがとう、と、小さな声がした。
「……ここよ」
辿り着いた病室の前、置いてあった消毒液で念入りに手を消毒する。それを見た水灰道理のお母さんは小さく微笑んで「どうもありがとう」と丁寧に言ってくれた。
「入るわよー」
こんこん、とノックして。明るい声で言った水灰道理のお母さんは、からりと白いドアを開けた。
白く明るい病室。ふわりと揺れる白いカーテンに、開いた窓からふんわりと吹き込む風。―――あの街と違うこの世界の風。
病院の白い匂い。心が吸い寄せられるように視線が流れて―――彼に、行き着く。
穏やかに閉じられた眼。肉付きの薄い頬に薄い唇。整った鼻梁に喉仏の浮き出た首元。
水灰道理が、そこにいた。
「―――……」
呼びかけて。―――呼ばなかった。
「道理。安達くんが来てくれたわよ。お母さん会うの久々だったからびっくりしちゃったわ。見て、こんなに大人になって……昨日までは不精髭まで生えてたらしいわよ? 自主制作の時もそうだったわよね? ……ああでも、道理は会える時は会ってたのよね。早く起きてまた遊んでもらいなさい」
楽しそうに呼びかける。返事は、ない。……けれど止まらず、水灰道理のお母さんは続けた。
「それに、紗陽ちゃん。……後輩まで来てくれるなんて、あなた意外と面倒見がよかったのね? 仲のいい子にはすぐ毒舌を吐くから……まさかこんなかわいい女の子にも吐いてたんじゃないでしょうね? 駄目よ、やさしくしなきゃ。テレビの向こうだけじゃなく眼の前にいる子にもやさしくしなさいっていつも言ってるでしょ?」
返事は、ない。
「……座っていて? お茶を淹れてくるわ」
「……ありがとうございます」
安達に倣いぺこりと頭を下げる。静かに、水灰道理のお母さんは出て行った。
「……道理」
ぼそりと、安達が呼びかけた。
「道理。……お前の分も俺の分も、おばさんが全部抱えて持って行ってくれたよ。……いい年してんのにまだおんぶにだっこで恥ずかしいな。俺だけの感謝じゃ足りないからお前もさっさと起きろよ。一緒にお礼の品何がいいか考えろ。……うん、そろそろまたギャラ入るから……おばさんのためだ、額は厭わねえ。でも何がいいかわからないから考えるぞ。……だからさっさと起きろ」
紗陽に対する言い方とは全く違う、遠慮もなければ言葉のやわらかさもない、……けれどだからこそ真っ直ぐで親しみが湧く安達の喋り方。……きっとずっとずっと、こんな風に安達は水灰創太と水灰道理と接していたのだ。
「俺だけじゃ華がないと思って。お願いして来てもらったよ。……紗陽ちゃん。おばさんには申し訳ないけど、ごめん、大学の後輩ってのは嘘だな。……いつか謝るよ。……お前と創太のあの映画のデータを渡した。……お前のことを知りたいって興味を持ってくれたんだよ。慣れない現場でずっと働きづめで、しかも今日はほんとんど徹夜だ。それなのに来てくれたよ。すげえいい子だろ? ……ほら、質問タイムをやるからさっさと起きろよ」
返事は、ない。
「……役者になるつもりは、なかったんだよ」
ぼそりと、……安達は言った。
「演技に興味は、あったみたいだけど。……お兄さんがいて。お兄さんは劇団に入ってた」
水灰道理の―――兄。
「何度か劇を観に行ったことがある。……道理とはまた違った味を持った素晴らしい役者さんだった」
―――だった。
「―――なのにある日突然、消えたんだ」
ふらりと、消えた。
「探しても探しても見付からない。まるでそんなひと最初からいなかったみたいに。……誰と揉めたわけでもない。何があったわけでもない……それでも、消えた」
だから道理はその先が見たかったんだと、静かな声。
「お兄さんは役者という仕事を愛していた。演じることが生きがいだった。……お兄さんが消えた理由はわからない。……けど、『役者』がどこかで必ず関わっている。……自分も役者になれば、多くのひとから認められるような役者になれば―――どうしてお兄さんが消えたのか、その理由がわかる気がするって、道理は言ってた」
「……」
「―――創太はここ最近、どんどん病状が悪化していってたんだ。弱って、痩せて、それでもいつも通り落ち着いてた。……俺も道理も焦ってた。あの映画を完成させたくて必死だった。だって……創りたかったからはじめたんだ。生み出したかったからあんなに頑張ってたんだ。あいつが監督してあいつが演じて、俺が編集して世に送り出す。あの作品を、世界を、俺らが積み上げた仕事を通して言いたかった。……俺たちここまで来たんだって、言いたかったんだよ……」
道理、起きろよ。……がたがたと安達が、震える。
「―――お前までいなくならないでくれよ」
もう寿命の長くない水灰創太の関わる世界を形にしようと必死だった。仕事を通して彼が生きていることを、彼というひとが存在していると世界に示したかった。
けれど水灰創太は亡くなった。……彼らの世界は、間に合わなかった。
出来なかったと絶望して、……もうどうしようも、なくなって。……水灰道理の心は映画の中に逃げた。
水灰道理は逃亡中なのだ。だからまだ、帰って来ない。
水灰道理はまだここにいるのに―――この世界の、どこにもいない。
ふと、あの時感じた違和感が何だったのかわかり、背筋がぴんっと痛くなる。……あの時紗陽は、何も質問されていないのにこの世界に戻って来た。今まで絶対的だったルールが、覆された。……どうして。どうして―――?




